28話「根源」
彼女は上る。暗黒空間に架かる天上への階。目には見えぬ、その階段を一段一段上っていく。
やがて微かな声が彼女の耳に届く。これは聖譚曲。静謐なこの空間に調和する、見事な歌声であった。
もっとも、ただ一人いる聴衆は気に入らないようだった。苛立ちを隠すこともなく、不機嫌そうな目つきのまま最上段へ足をかけた。
「暇だからと歌うな。聞くに堪えんわ」
次中音の主が振り向く。
歳の頃は二十歳ほど、ダブルのスリーピースに身を包んだ青年。高い背も相まって、その捻れたブロンドは獅子の鬣のように。
赤い瞳はどこを見ているのか、あらぬ方を向いていた。
構成する要素は美しいが、妙にちぐはぐな仕上がりで見る者に憎相を思わせる。
「酷いなぁ。心にもないこと言って。で、どうだい? 太白。久しぶりに見た彼は」
彼女──太白は同胞の問い掛けに心底鬱陶しそうに、ぶっきらぼうに応じる。
「別にどうもせんよ。愛も変わらずシケた面しとったわ。あと、その声は鬱陶しいからやめい」
「えぇ? 頻伽の声ってヤツだよ? 仏様のありがた〜い声なんだけどなぁ」
そう嘯きながら、青年は肩を竦める。沈んだように見えるが、ポーズだけだ。
青年は感情を発露させたことがない。この動きも、悄気た人間の真似事であり、情は伴っていない。長い付き合いである太白も、それを承知している。
あ、と太白間の抜けた声をあげ、思い出したように青年へと訊ねる。
「……そういえば、今のお主って窮利易子じゃったよな?」
先日、玄野影徒と会ってから気に掛かっていたようだ。
「うん? 違うよ? それは二つ前の名だね。太白の数少ない友人なんだから、覚えていて欲しいもんだけどねぇ」
あっさりと否定する青年。嫌味もおまけにのせてくるが、詮方ないこと。彼は与えられてきた名の一つ一つを、獲得してきたトロフィーのように誇っていた。
「じゃあ今はくえ──くえる、ゔぁてぃす? なのか?」
幼く、舌足らずなせいか。あるいは見かけによらない頽齢のせいか。上手くその名を呼ばずにまごつく。
見かねた青年が小馬鹿にしながら口を挟む。
「お婆ちゃん、クエム・クエリティスでしょ?」
「それじゃそれそれ。あいつ、こんなのよく覚えとった喃……」
付き合いの長い自分ですら、つい失念していた。そんな名を叫んだ少年を、しみじみと顧みる太白。
「あ、なに? 玄野くんってば僕のこと覚えてたんだ。ちょっと揶揄っただけなのに。そりゃ嬉しいねぇ」
己のしでかした所業を"ちょっと揶揄っただけ"と済ませるクエム。
玄野影徒、春日野翠、藤宮葵を筆頭に、狂わされた人間がどれだけいただろう。
彼らがこの場にいたなら、きっと怒りのままに斬りかかっていた。
「ん、あまり変わっとらんのかもな。儂を見るなり仲良く二人でおてて繋いで震えておったわ」
クエムは自らの肩を抱き、歓喜にうち震える。
「あぁ、いいなぁ……。んー太白ばっかズルいなぁ。僕も行こうかな? いやー学校なんていつぶりだろう」
そんなことを知ってか、知らずかクエムは呑気なことを言う。そんなこと、気に掛けてすらいないのかもしれない。
「この世界──なんと、言ったか。タオ……」
「テオソフィア。やれやれ、今いる場所も忘れたら人間おしまいだね」
──『再生誕学館テオソフィア』。その名はこの連環に定められている、世界としての名。それを知る者は少ない。連環自体を認識していない者が大半だろう。
片手で数えるほどしかいないのに、その内二人がこの悪辣な神々だというから救いがない。
「喧しい喃、そも儂は人でなしだから構うものか。……テオソフィアの人間を相手取っても面白くもないじゃろ」
「いやぁ、そうでもないよ? 面白いさ。強くはないだろうけどね」
この悪神達に迫ることが出来るとすれば、同じく【神号】を持つ彼らくらいだろう。
そう、前世からの因縁を持つ、彼らくらい。
その意味を理解した上で、クエムは笑う。
太白が求めるのは、全力を出せる死闘。だが、彼の目的はそれだけではない。
クエム・クエリティスは悪逆無道の奸物だ。
人の運命を弄び、その末路を嘲笑う。それを歓娯とする魔物なのだ。
彼にとっては対象の強さなどアクセントでしかない。この悪魔は差別などしない、強者も弱者も等しく嬲るのみだ。
「飽きないもんじゃな、その弱い者イジメも」
「つまらない世界だから、この僕が面白くするんだよ。それと、せっかくだ。僕も挨拶くらいはしておきたいしねぇ」
クエムはそう言うと、タイを緩める。早速向かうつもりなのだろう。
決して情に篤い太白ではなかったが、こんな存在に付き纏われる彼らが気の毒に思えてきた。
「……彼奴ら、別にお前には会いたくないと思うが喃。それに大転使に気取られでもしたら事じゃから、あまり人目につくな──と、言うのは野暮じゃったな」
太白は知っていた。隠蔽、謀、闇に鎖す陰芝居は青年の十八番であることを。
肉が崩れ、骨の軋む音。人間を粘土のような感覚でこねくり回したら、きっとこんな音が出るのだろう。
金髪の偉丈夫は見る影もなく、太白より頭一つほど高いばかりに縮まってしまった。
「あーあー……。んっんん。こんなモンかな」
少女は声の調子を整えるよう、一つ咳払いをする。その喉に先ほどまで主張していた喉骨はなかった。
メンズスーツ姿であった装いも、白と黒の学生服へと変わっていた。新しい体を確認するよう、その場で回転し、肩にかかる茶髪を揺らす。へばりついていた悍ましい神気もナリを潜めていた。
その姿は、どこから見てもテラメーリタ学園の女子生徒である。
「大丈夫だよ。大転使様も、僕らと狙いは同じようなもんさ」
絶対悪。五月蝿なす神。狡智の神。窮利易子。偽の神。誰をお捜しか。
彼を表す名は多く、その相貌の多彩さを表していた。その中でも最も的確に、一番短く、彼を表現している名がある。
──それは悪であった。




