台風の日
朝のうちはまだちょっと曇り空、という程度だった空が、昼前になるとザーザー降りの雨になった。それでもいつも通り出かけようとしていた葵は、おにぎりを作ろうとしたところで祖父に止められた。
「今日はやめとけ、葵。夕方にはもっとひどくなる予報じゃし、帰れんようになるぞ」
祖父がそう言うと、茶の間にいた姉の椿もテレビを指さした。台風が近づいているらしく、これから風も強まって危険だと、天気予報に出ているところだった。
「明日には通過するらしいから、一日だけの事よ。今日は家にいた方がいいわ」
「……うん、分かった」
葵は不承不承うなずいた。
今日は片目の男に話したいことが色々あった。訊いてみたいこともたくさんあった。そんな日に限って温室に行けないのは、残念でもあるし、少しじれったい気分でもある。
ザーザーと降りしきる雨は、屋根を叩いてあの温室のような音を立てている。しかしじっと聞いてみれば、あの静かで絶え間のない、けれど懐かしさを感じるような雨音とは、少し違う気がした。
そもそもあの雨音は、晴れていようと当たり前のように聞こえる。では雨の日ならどう聞こえるんだろうか、というのも密かに疑問に思っていた。外の雨音と中の雨音が、一緒くたになって聞こえるのだろうか。それとも本当の雨の日は、中の雨音は止まってしまうんだろうか。今日はできればそれを確かめてみたかった。
それに、と葵は思う。
昨日祖母とユスリカの事を思い出してから、葵の記憶には急速に、いろいろな虫の思い出が戻ってきていた。
あの温室では「虫との因果を断ちたい」という人ばかりが客として来るらしい、と思っていたが、葵が思い出したのは忘れたくないような思い出ばかりだ。
片目の男が望むならそれを話して聞かせたいという気持ちもあったし、そもそも用事がないのに何度も葵を温室に入れたのは何故なのかと聞きたくもあった。
そもそも片目の男は謎だらけだった。
あの温室にどれだけの人が訪れるのか、因果を断つという行為にどれだけの対価を求めているのか分からないが、少なくとも葵が訪ねてから二週間以上、客が来た様子はない。かと言って彼が温室にいなかった事もない。となると、どうやって生活しているのかがまず分からない。
それに体の半分を埋めるようなあのやけどの痕も、一体どうしてできたのか訊いてみたかった。訊けば答えてくれるかもしれないが、もしそれで傷つけてしまったらと思うと訊き辛い。少なくとも、彼が葵に対して、いや虫かごの声を聞けば、やって来る客たちに対しても優しいのは分かっていた。そういう人をむやみと傷つけることはしたくなくて、葵は気になりつつもずっと黙っていたのだ。
そわそわと落ち着かない葵の様子を見て取ったのか、不意に祖父が「アルバムでも見るか」と言って二階に葵を招いた。他にすることもない葵は、素直に祖父の後について階段を上がった。
小さい頃に一度来た時、二階の部屋を寝室として借りたのを、葵は思い出していた。祖母の葬儀の時で、その時に祖父が写真を撮ってくれたのを覚えている。
あの時撮った写真が残っているなら見てみたい、と思ったのだ。
しかしいざ上がってみると、二階の部屋はあらゆる物が雑多に積まれ、埃だらけになっていた。祖父は「奥のテレビ台の中にアルバムがある」と言って、置いてあるものを退かしながら前に進もうとしたが、そんな事ではどうにもならない有様だ。
しかも何かを動かすたびに、ぶわっと積もり積もった埃が舞い上がるので、葵も祖父もすぐにくしゃみが止まらなくなった。
「二人ともどうしたの? ってうわぁ、なにこの状態!」
何事かと上がってきた椿も、たちまちくしゃみをしはじめた。椿はそのまま慌てたように下に降りていき、戻ってきた時には両手に掃除機と雑巾、それにマスクを三人分持っていた。
「どうせ外には出られないんだし、今日はここ片づけて掃除しようよ。いらないものとかいっぱいありそうだし」
言うなり椿は掃除機のスイッチを入れた。こうやって姉が何か始めた日には、誰が何と言おうと姉の行動に全員が従うしかないのが、葵の家でのセオリーだ。
「おじいちゃん、アルバムはまた今度見せて。今日はこの部屋をどうにかしよう」
「そうじゃな。もう一人じゃ手におえんで困っとったんじゃ、ちょうどええ。ああ、要るもんがあったら持ってっていいぞ」
そんなわけで、その日は二階の部屋の片づけをすることになった。たちまち忙しくなり、余計なことを考える暇がなくなって、葵はしばし、あの温室の事は忘れていた。