ゴキブリとユスリカ(2)
「葵、あそこに蚊柱が立ってるでしょう?」
「かばしら? かばしらってなに、おばあちゃん」
「ほら、そこだよ、門のところ。白い蚊がいっぱい集まってるのが分かるかい?」
「ほんとだ! どうしよう、あれじゃ外に出られないよ。いっぱいさされちゃう」
「心配ないよ。あの蚊は人の血を吸ったりしないからね」
「そうなの? でも何であんなところに集まってるんだろう」
「それはね……」
まだ葵が小学校に上がる前の頃だった。葵の母方の祖母、つまり今は入院している祖母は、蚊柱が好きだった。
「小さい頃はよく、祖母の家に遊びに行ってたんです。家が近かったし、母はなんだかいつもイライラしていたから、家に居辛かったのもあって。
祖父は私が生まれるより前に亡くなった、って聞いていて、写真でしか顔を知らないけど、写真でも優しそうな顔をしてる人だったんです。
えーっと、祖母はなんて言ってたかな……」
一旦思い出すと、葵は話さずにいられなくなった。子供の頃はよく虫と遊んでいたし、今のように見るのも嫌、という事もなかったはずだった。いつの間にかすっかり忘れてしまっていたが、葵は虫が好きだったのだ。
その「好き」の最たる理由が、祖母が話してくれたある話だったような気がする。ただ、長い間押し込めてしまっていた記憶はなかなか浮上してこないのか、祖母の話は肝心なところが思い出せない。
焦る葵の肩を、ポンと片目の男が軽く叩いた。葵が顔を上げると、男は「大丈夫ですよ」と穏やかに微笑んでいた。
いつもの少しからかうような笑顔とも、おにぎりを食べていた時の無邪気な笑顔とも違う。営業スマイルでもないその微笑みに、葵はすっと心が落ち着いた。
そして不意に思い出した。祖母があの時何を話していたのかを。
「蚊柱が立つ場所には、亡くなった人……そう、死んでしまったけどまだ自分を心配している人がいるんだ、って祖母は言っていたんです」
「ふむふむ、面白い解釈ですね」
男はうなずくと、膝に手を置いて聞く態勢になった。
「祖母は夏の夕方になると、夕食を作る手を止めて、よく庭に出ていたんです。『時々門のところにおじいちゃんが立ってるから』って。
祖父が亡くなったのは、ずいぶん若い時だったらしいです。だから祖母は、女手一つで母を育てて、すごく大変だったって。
でもある時、母が泣き止まなくて途方に暮れていたら、門のところに蚊柱が立っていて、母はそれを見て笑い出したんだそうです。
それを見た祖母は、『ああ、そこでおじいちゃんが見守ってくれてるんだ』って思ったそうです。本当かどうかはもちろん分からなかったけれど、祖母は本気でそう信じているみたいでした。
『おじいちゃんが死んだのは夏だったから、夏にだけやって来るんだよ』って。だから蚊柱が立つ夏にだけ、祖父は現れるんだって。
でもいつからか、門のところに蚊柱は立たなくなったんです。私が小学校に上がった頃くらいからだったと思います。
どうして急に現れなくなったんだろうって、最初は祖母も寂しそうでした。でもある時、私が勉強しているのを見て、ぽつんと言ったんです。
『ああ、おじいちゃんはもう大丈夫だと思って、安心していなくなったのね』って。
それから祖母は散歩に出るようになって、用水路の脇なんかに立ってる蚊柱を見るたびに、手を振るようになったんです。
近所の人が変な顔して見てるよ、って言っても全然気にしてなくて。『おじいちゃんの居場所を教えてくれていた、優しい虫なんだよ』って、そう言って笑ってました」
一息に話してから、葵はどうしてこんな幸せな思い出を忘れてしまっていたのかと、自分で自分が分からなくなった。
虫に刺されたことも、嚙まれたこともある葵だったが、子供の頃はそれでも好きだったのだ。祖母との思い出も大切にしていたし、少なくともユスリカは好きだったはずだ。
なのにいつの間にか、道端で蚊柱に遭うと、必死で払いのけるようになってしまっていた。
「私、どうしてこんな……」
薄情というのはこういう事を言うんだろうか。葵がそう考えたその時、まるで見透かしたように片目の男は「違いますよ」と言った。
「でも、だって、こんな大事なことを忘れてるなんて」
「お嬢さんが虫を嫌いになったのは、小学校に上がってからの事でしょう? そこでお嬢さんは、一年の間いじめに遭いましたね」
「あ、はい……」
いきなり思い出したくないことを指摘されて、葵は下を向いた。
男の言う通り、三年生の頃の一年間だけだったが、葵はいじめに遭ったことがある。しかもクラスでは人気者の男子からいじめられて、教師も対処できずにさんざんな思いをした一年だった。
「その時、あなたの食事にゴキブリが入れられた事があったでしょう。単に衛生管理の問題だったのかも知れませんが、あなたは自分をいじめている男子がやったのだと思った」
「……そういえば、そうです。元々はゴキブリだって苦手じゃなかったし、小さいうちは殺すのも可哀そうだって思ってました。でも、あの大嫌いな子が入れたんだと思ったら、とても憎らしくなったんです。そういうことをしたあの子も、ゴキブリも気持ち悪くなってしまって」
「嫌な人に当たりましたね」
言うと、男は腕を伸ばして葵の頭に手を回した。軽く頭を抱き寄せられて、そっと撫でられ、葵はびっくりしながらも、じわりと自分の目に涙が浮かんできていることに気が付いた。
「私、あんな奴のために、おばあちゃんとの大事な思い出まで忘れてるなんて、馬鹿みたい」
言えば言うほど、葵の目からは涙が盛り上がってきた。何とか取り繕おうと目をこすって止めようとしても、涙はあふれてくる一方だった。
「仕方のないことですよ。それくらい、葵さんにとっては辛いことだったんですから」
すすり泣く葵の頭を、男はそのまま泣き止むまで、優しく撫で続けていた。