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向上主任はやましく見える

 朝、主任が出社した途端にオフィスがざわついた。それ自体はいつものことだ。あの顔面だし。

 しかし、なんか今日はいつもと違う。皆して遠巻きにしてるような感じがする。

 気のせいかな、なんて思いながら今日の仕事の準備を始めたら。


「向上主任がゲイってマジ?」


 そんなヒソヒソ話が聞こえて来た。

 ……え?


「マーケの奴が言ってたんだって!」

「なんだよ、ソッチだから江間さんにも興味ないんだ」

「そういうのじゃないかと思ってたよ俺は!」


 なんでそんな話になってるの?

 私は肝を冷やしてるのに、主任はいつも通り無表情でパソコンに向かって、少ししたら外回りに行ってしまった。

 主任がオフィスを出たのを見計らうように、皆がざわざわと噂話を始める。


「ねえ、聞いた!? 主任がゲイかもって話!」


 隣の椎名先輩からそう話しかけられて、なんと答えるべきか迷ったが私は首を横に振った。


「し……知らないです、どうしてそんな噂が……」


 もしかして、腐男子ってことがバレたとか……。


「マーケの人が言ってたのよ! 営業の誰かから聞いたみたいで〜!」

「……は?」


 営業の誰か。主任が男に関するアレやコレやな本を描いていることを知っている人物。


 ……私しかいないじゃん。


 待って。一旦整理しよう。それをマーケの人に話すような機会あったか? マーケの同期とは絡みがないし、江間さんとも最近話してない。最近話したマーケの人は、たしか。


「佐倉さん……」

「ん? 佐倉くんがどうかしたの?」

「あ、いえ……」


 佐倉さんとはこないだ飲みに行った。主任に言われてたし気をつけてたけど、あれよあれよという間に飲まされて色々仕事の話を聞いてもらったんだっけ。

 もしかしてその中で向上主任のことを何か……いやでも、主任がゲイって言うことはないんじゃないか? それこそそうじゃないだろうってことは知ってるわけだし。

 全寮制の男子校なんていう「そうあってくれ」とお願いしたくなるような環境にいたくせに、残念ながら本人関連のエピソードはトイレでご飯食べてたとか体育で二人組作れなかったとかそんな悲しい話しか出てこないし。

 じゃあ、腐男子であることを言いふらした? これも可能性としては低い。だって、腐男子の概念を佐倉さんに説明するの相当大変そう。それにそう言いふらしたなら枕どうこうの尾ひれより「同人誌出してる」って噂の方がついてまわってそうだし。

 ……中途半端に何か言って、それに尾ひれがついたのか?


 色々考えても埒が開かない。主任にRINEでメッセージだけ送って、自分の仕事に戻った。



「う……うん……美澄が佐倉になんか言ったみたいです、ね……」


 外回りから戻ってまーたそそくさと非常階段に行こうとしている主任を追いかけて、問いただしたら予想通りの答えが返って来た。

 やっぱり。っていうか。


「なんっで……それならもっと怒るなり……!」

「いやっ、だって元はと言えば佐倉が悪いし!」

「でも私がやらかして迷惑被ってるんでしょうが……申し訳ありません……!」

「謝ってんのに目が怖……」


 こんなことなら何としてでも佐倉さんの誘いを断るんだった。主任にも言われてたのに。

 どう謝ったらいいんだろう。どう謝っても許してくれるのは分かってる。でも許して欲しいんじゃない。考え込む私の背中を、ぽん、と主任が叩いた。


「大丈夫大丈夫。皆もう大人だから、高校の時みたいにはなんないって」

「そういう問題じゃなくて……」

「平気だよ。このくらい」


 そう言った声が、震えてるのに気付く。

 大丈夫じゃないでしょ、と返す勇気が、私にはなかった。


「佐倉さんは……」

「しばらく出張。本社との合同研修会があるから、その準備で」

「じゃあ確認も出来ないんですね……」

「まあ、人の噂も七十五日って言うし、とりあえずほとぼりが冷めるの待っていいだろ」


 主任はそう言うが、こんな衝撃的な話がそうそう冷めるわけがない。


 その予想は当たってしまい、噂が立って1週間もする頃には。


「向上主任って取引先のおっさん相手に枕してんだっけ?」

「なーるほど、営業成績トップの秘密はそれか!」


 噂は尾ひれがつきまくって、もはや原型を留めていないところまでいっていた。

 主任はいつも通り無表情、無口、無愛想を貫いてはいるが、相当堪えているらしい。いつも私が一人でいると駆け寄ってくるのに、最近は手を振って終わりになった。

 いよいよ失望されたのだろうか。いや、当たり前か。私のせいでこんなになってるんだから。

 こんなことなら主任の言う通り、佐倉さんと飲みになんか行かなきゃよかった。仕事の愚痴なんか、自信のなさなんか、一人で抱えてりゃよかったんだ。


 私なんか、私なんか、私なんか。


 ……自己嫌悪に浸っても仕方がない。今日なら、佐倉さんも出張から戻ってるかもしれない。ちょうど書類作成もひと段落ついたし、今からマーケに行こう。

 そう思って、オフィスを出ると。


「ぉあっ」

「おっと!」


 何か弾力のあるものにぶつかって、弾き飛ばされそうになったけど肩を掴まれて転けるには至らなかった。


「すいませんっ、ありがとうございますっ……」

「いえいえ。あんまり慌てると危ないよ、お嬢さん」


 私の転倒を防いだのは、恰幅のいいおじさんだった。優しさを体現したような体つきと顔つき。この会社では見覚えのない人だ。

 しかし今はこのおじさんより佐倉さんだ、と会釈だけして行こうとすると、課長の「今村くんっ!?」と言う声がオフィス内に響いた。

 今村? 今村って、確か。


「やあやあやあ! 支社営業部の諸君! 本社から僕がやって来たよ!」


 高らかにそう宣言する変人っぷりに、一発で確信する。


「今村、主任……」

「ん? お嬢さんとは初対面じゃなかったかな? 今は今村課長だよ!」


 この人、向上主任の教育担当の人だ。

 向上主任も珍しく擬態中なのにしっかり驚いて、目を丸くして「なんで」と呟いた。


「合同研修会の件でこちらに来ていたからねえ! 懐かしい顔も見たかったし、頼み事もあったし!」


 ぴかぴかの革靴が地面を叩くたびにカツカツではなくどすんどすん音がしそうな体を揺らしながら、今村課長はまっすぐ向上主任に近付いていく。向上主任の顔がひくっと引き攣ったのが見えた。


「向上! 合同研修会で僕の代わりに講師をしなさい!」

「無理です」


 驚くほど即答だった。


「またまたまた〜、君のことだから出席自体はするんだろ? ほら手帳見せてみなさいよ」

「分かりました言い方を変えます。嫌です」

「おっ、ほらぁここ調整したら資料もパワポも作れる! やったね向上!」

「何もやったじゃないですけど」


 主任が頭を抱えるのを無視して、今村課長はホワイトボードに勝手に予定を足した。強引だ。さすが主任をもってして変人と呼ばれた人。


「ちょ、今村くん! 勝手に足されたら困るよっ!」


 これに抵抗したのは我らが現営業部課長である。しかし今村課長より背も小さければ痩せててひょろひょろなのでいかんせん弱そうに見える。


「向上くんにも都合ってものが……」

「大丈夫大丈夫、これは向上の名誉挽回の機会だから!」

「名誉挽回って……」

「向上。君、やましいことをして契約をとってるなんて噂たてられてるの知らないのかい」


 オフィスの全員が静まり返った。

 凍りついた空気の中、今村課長が続ける。


「君が優秀な営業だってことは誰よりも僕が知ってるよ。だからこっちの同期から君の噂を聞いた時ははらわたが煮えくりかえるかと思った。噂をたてた奴じゃない。反論しない君にだよ」

「……別に、周りがどう言おうが」

「仲間内の評価はそのうち外からの評価になる。君が後ろめたいことをしているわけじゃないなら堂々と『出来る営業とはこういう奴だ』と見せつけてやれ!」


 今村課長からばんばん肩を叩かれた主任の雰囲気が心なしか悲しげになっていく。


「じゃ、そういうことだから! さらば!」


 台風のように現れ、場をめちゃくちゃに荒らしていった今村課長の後ろ姿を見送った後、ポケットの中のスマホがぶぶ、と震えた。主任からのRINEだ。


『助けて(´;ω;`)』


 無茶言うな。

ここまで読んで頂きありがとうございます!


向上優鷹:枕はまったくこだわりない。いつ買ったかも覚えてないぺらっぺらのクッション枕にしてる。

美澄希空:枕はあんまりこだわってない。でも低反発枕に憧れがあり一人暮らし始めた時に買った。

今村敏樹:枕はめちゃくちゃこだわる。専門店でオーダーメイド。何が何でも自分の家で寝たいタイプ。

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