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ハルシネーション

桜のつぼみがふんわりと開き、薄桃色の吹雪が舞うようになった時期の事である。

今年度から浪人生になった佐上裕子は大好きな喫茶店で桜シフォンケーキを食べ、ぼんやりと大勢の人々が行き交う外の景色を眺めていた。

つい先月高校を卒業したはずなのだが、全くといっていいほど実感がわかない。

もしかしたら卒業したというのは自分が作りだした虚偽記憶で、本当は明日にでも皆制服を着ていつものように登校し、いつものように授業をやっているんじゃないかという気さえする。

しかし、勉学とバイトに明け暮れるようになった今、ようやく卒業したんだという実感がわくようになった。

友達ができないと悩んでいた友人にもようやく心から話せる人ができたようだし、近くの席だった嫌いな女子は嬉々としてSNSサイトに彼氏ができたことを報告していた。

中学時代の知人はサークルの先輩がいかにかっこいいかを詳細に語ってくれた。

皆それぞれ独立した人生を歩み、己の幸福を見出している中で、自分は一体何をしているのか。

大学に行くことが自分の未来の幸せにつながるのだろうか?

裕子には分からなかった。どんな選択をしてみてもその時にならなければ結果は見えないし、例え先が見えなくとも自分がそうしたいと思うのならそうする他はない。

私が今浪人していると知ったら、あいつはきっと笑うんだろう。


裕子は小さなころからこの喫茶店の期間限定のケーキである桜シフォンを好んで食べた。これを食べないと春が来たという実感さえしない。

桜の花びらが舞う交差点で、高校生と思しき美しい髪を持った女子が歩いていく。

墨を流したかのように黒く美しい髪の上で太陽の光が踊るのが見える。

その美しい髪の中に、裕子は今はもういないある人物の影を見ていた。



「君、絵が上手いんだねえ」

彼女と出会ったのは薄桃色の桜の花びらが舞っていた日の事だった。

突然話しかけられた動揺でシャーペンの芯が折れる。

顔をあげると、大きくて墨を流したような黒い目と視線が重なって、裕子は硬直してしまった。

「びっくりさせちゃった?ごめんね。君の絵があまりにも上手いものだから、つい」

「ありがとう……そう言ってもらえて嬉しい」

そう言ってほほ笑む彼女はこのクラスで一番の美少女であり変人であると噂される九条紗綾だった。

黒く美しい髪を揺らしながら裕子の机の前でかがみこみ、裕子の目を覗き込んだ。

「これは何かのアニメのキャラクターなのかい」

「ううん。私が作ったオリジナルキャラクター」

「可愛い子だね。名前は?」

裕子は少し言うのを躊躇った後、

「……さや」

と目を伏せて恥ずかしげに言った。すると沙綾は目を丸くし、次の瞬間には笑いをこらえきれなくなったかのように笑い出した。

何がおかしいのかいきなり笑い出した沙綾を前に裕子が動揺していると、沙綾は「ごめんごめん」と言って苦笑した。

「まさか僕の名前が挙げられるとは思わなくてね」

そう微笑んだ彼女の顔はこの世のものとも思えぬ美しさだった。誇大表現するならば、仏像を前にした時の、あの物静かで威厳のある美しさだ。

彼女のこの浮世離れした雰囲気には、どの人物をも魅せてしまう不思議な力があった。

彼女が変人とされるのは中性的な物腰と少女漫画の王子様のような口調からくるものだと思うが、何故か彼女がそのような振る舞いをしていても不自然だとは思わないし、むしろそれが自然なものだと思えてしまう。彼女にはそれだけの力があるのだ。

裕子は入学して間もないが、すぐにこの沙綾の雰囲気に惹かれてしまった。

彼女の雰囲気に惹かれているのは他の男も女も同じらしく、皆気安く彼女に話しかけこそはしないがひそかに尊敬される対象であった。

勿論学業優秀で運動神経も抜群。多くの生徒から影で尊敬されているのにも関わらず、彼女は特定の親しい友人を作ろうとせずにいつも一人で行動することを好んだ。

だからクラス内で地味であまり目立たない裕子はまさかあの憧れの彼女に声をかけてもらえるとは思わず、驚いてしまったのだ。

「また君の絵を見に来てもいいかな」

「……う、うん!いつでも見に来て!」



それから沙綾は毎日裕子の絵を見に来るようになり、二人は親しくなっていった。

いざ親しくなってみると、浮世離れした雰囲気の沙綾にも女子高生らしい面はたくさんあるという事が分かった。

サーティワンのアイスクリームが好きで、中でも一番好きなのはホッピングシャワー。

マックシェイクのバニラ味がお気に入り。

スターバックスでは抹茶クリームフラペチーノが好物。

裕子が桜シフォンケーキをすすめすると気にいってくれた。

一度もゲームセンターに行ったことがないから沙綾に連れていってくれとせがんだり。

こうして彼女達の楽しい月日は流れていった。恐らく裕子にとって、また沙綾にとってもこの月日は一番楽しかった。



だが楽しい事も辛い事にも必ず終わりはやってくる。それは誰もが知っていることのはずなのに、いざ終わりになるとだれもが狼狽する。


高校三年生の春、沙綾は学校に来なくなってしまった。

皆勤賞だった彼女がいきなり無断欠席をしたため、教室の中はざわついた。

最初は風邪だろうと思っていたが、それが2日……3日……と続いた。

皆沙綾の欠席については何も触れなくなったが、裕子は沙綾の身に何か異変が起こったのではないかと不安でたまらなかった。


そして一週間後。裕子が登校し、いつものように席に鞄を置こうとしたその時だった。

何かがおかしい。

いつもそこにあるはずのものがなくなっている。

しばらく考えて、ようやく裕子は気付いた。





沙綾の席が、ない。





「先生!」

「おう佐上か!どうした?」

「あの……九条さんの席が、なくなってるんですけど……」

それを聞いた先生は眉をしかめ、頭をぼりぼりとかいた。

反応が薄い事を不自然に思った裕子は、もう一度問う事にした。

「九条さんは今どうしてるんですか?」

「九条……?誰だそりゃ?」

何かがおかしい。

あんなに沙綾を優秀な生徒だと褒め称えていた先生が沙綾の事を知らないはずがない。

「九条さん!九条紗綾さんですよ!私のクラスの!」

声を荒げて訴えれば訴えるほど、先生は理解しがたい物事を前にして困ったような顔をした。そしてこう告げた。

「九条紗綾なんて生徒は……この学校にはいないんだぞ、佐上」



裕子はできる限り教室のクラスメイトに沙綾の事を聞いた。

「沙綾ちゃんの席がなんでなくなってるの!?」

「え?裕子どうしたのいきなり」

「だから、沙綾ちゃんの席がないじゃない、ほら!あそこ!」

「元々あそこは何もなかったよ?」

「九条紗綾ちゃんっていたじゃない、皆覚えてないの!?」

そう叫ぶ裕子をクラスメイトが不可解なものを見るような目で見た。

「裕子……どうしたの……なんか今日、おかしいよ……」




裕子はその日、家に帰ると家のものをあさった。

裕子に貰ったキーホルダーもない、

裕子に貰った誕生日プレゼントの小説もない、

裕子に貰った、いや貸してもらったまま返してなかった科学のプリントもない、

裕子と一緒に撮ったプリクラも、ゲームセンターでとった大きなうさぎのぬいぐるみも、何もかもがない。最初から何もなかったかのようになくなっていた。

そして最悪の結論が裕子の頭の中にぼんやりと浮かんだ。


もしかしたら、最初から九条紗綾なんていう人物は存在しなかったのかもしれない。


いや、そんなはずは、そんなはずはない!

確かに、確かに彼女は私と共にいた!

一緒にサーティワンでアイスも食べたし、スタバにも行ったし、課題をみせてもらったりしたし、絵を描いてプレゼントもしたし、好きな小説を貸したり借りたりしたし!

私は彼女の事をなんでも知って……


そこではたと思いついた。

私は彼女の事を何でも知っていると思い込んでいたが、実際には何も知らないんじゃないか?と。

言われてみれば彼女のメールアドレスも、電話番号も、彼女の誕生日も、彼女がどこに住んでいるのかも、知らない。

九条紗綾は……皆の言う通り本当に、最初から存在しなかったんじゃないかと。



沙綾の行方を探すのをあきらめた頃、裕子はいつもの通り放課後の教室で絵を描いていた。

久々に一人で絵を描くのは寂しかったが、これは今はもういない沙綾に出会う最初の状態に戻っただけだ。そう思って自分を奮い立たせる。

ふと机の中に手を入れて探ると、何かが手に当たった。

手紙だった。

「佐上 裕子様へ」

と懐かしく見慣れた達筆な字で書いてある。

これは……沙綾の字?



手紙を開くと、一枚の美しい薄桃色の花びらが足元に舞い落ちてきた。そして手紙には、微笑んでこちらを見つめている沙綾が描いてあった。

私が入学当初に書いた、私の"理想"の友達だった。

そして、

「僕と友達になってくれてありがとう。例え仮初めだったとしても、人間の少女として君と過ごした時間は楽しかった。でももう君は大人になってしまうから、君の中の空想の存在である僕と君は決別しなければならない。いつまでも空想に頼って生きていては君のためにならないんだ。だから僕は君の空想の世界に帰るよ。でも、これからも僕を描いてくれると嬉しいな」

ともう一枚の紙に書いてあった。



彼女が私の空想の世界に帰って一年が経ち、また春になった。

私は次の新たな春を迎えるべく、今日もペンを手にとり大学受験に向けて勉強を始めた。

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