001 迷走の幕開け
プロローグ
穴と言われてどんなものが思い浮かぶだろうか? 鍵穴、覗き穴、落とし穴、蟻の巣穴、洞穴、ピンホール、マンホール、オゾンホールなんてのもある。耳の穴に鼻の穴、口も穴に分類されるだろうし、ヘソだって穴だろう。そこから下の方面にある穴は割愛するとして、毛穴や汗腺、唾液腺に乳腺。その他人体だけでも無数に穴がある。世界は実に穴だらけだ。穴がないところを探すほうが難しい。
誰でもそこに穴があったら覗いてみたくなるだろう? いや、覗かないまでもちょっとばかりは興味がわくはずだ。
だが、人間にはごくごく一部の変わり者を除いて、理性と言うものが存在していて、その穴を覗きたいとか、穴のふちを指でなぞり、できれば挿入してその穴の感触を確かめたい。という欲望を胸のうちに押しとどめ、普段見かける穴にさして興味を示さないフリを決め込んでいるわけだ。なんていったって、世間体と言うものが大事だからな。 極々普通に生活を営むうえでは。
俺自体極めて普通の人間なので、世の中に存在している穴と言う穴に、別段注意を払ってこなかったし、興味もなかった。
まあ、人体、殊に異性のは別としてだ。
そんな俺だがまったく穴と係わり合いが無かったのかと言えばそうでもない。
墓穴というやつだ。
いやいや、家業が寺や葬儀屋、石材店なわけじゃない。父親まで三代続く公務員一家だ。
自分で掘るヤツのほうだ。自ら招く破滅のほう。ガキのころから、なにかしらにつけ、これでひどい目に遭っている。最古の記憶じゃ、自分で掘った落とし穴に自分から派手にダイブしたなんてことがある。
幼稚園の時分だったか、落とし穴を掘るのが流行ったことがあった。超ローカルな流行だから、わずか三、四人の間でのことでも、立派な大ブームだ。砂場を掘りさげ、新聞紙をかぶせて、砂や落ち葉などで偽装した落とし穴に、ターゲットをおびき寄せて落っことすというタチの悪いいたずらだった。
園児のオスガキのすることだから、当然競争となった。
より深く、より美しく(この場合はいかにうまくカモフラージュできたかだが)、いかに上玉を落とすかが勝負の分かれ目になった。
もちろん標的が穴に落ちる際のリアクションや、落とすまでの自然さも採点対象になった。無理やり引っ張って来たり、突き落としたりするのは論外。
あくまで、対象を自然に呼び寄せてストーンと落とすのが最上とされた。
俺は掘りまくった。幼児の砂遊び用プラスチック製シャベルでよく掘ったと思う。
掘りあがったときには、五歳児として平均的な俺の身長の半分ほどの深さだった。うまく偽装もできていた。その証拠に仲間たちからは感嘆のため息が漏れていたからな。
標的は担任のみさこ先生だ。どこぞで拾ったきれいな石を、先生の出現予想位置と落とし穴をはさんで反対側に置き、あとはみさこ先生をおびき出すだけとなった。みんな成功を信じて疑わなかった。
だがそこに想定外が出現した。きれいな石に惹かれるのは、なにも大人の女性だけではなかった。同じクラスの女児がそこに現れたのだ。
同じクラスの女の子。
これは標的としてはおそろしくグレードが低いし、なにより大人を想定して掘った穴だ。自分よりも低い身長の女の子がそこに落ちたらどうなるか、想像して戦慄した。
奇声を発しながら女の子に駆け寄り、今まさに奈落への前進を開始せんとしているその子を突き飛ばした。
と、同時に俺の足元はぽっかりと口を開け、後々まで語り草となるリアクションを披露しながら自分で掘った落とし穴に落っこちた。
穴の中で尻餅をついている俺を、穴のふちから心配そうに見下ろしている女の子の、瞳がちの大きな目に赤みがかった髪とやけに真っ青な空が今でもはっきりと網膜に焼き付いている。
当たり前の帰結として両親呼び出しの上、厳重注意。みさこ先生と母親の大目玉のステレオ放送の脇で親父と園長先生が妙にニヤニヤしていたっけ。
思えばこれが、俺の墓穴堀りの始まりだったのかもしれない。取っ掛かりがこんなもんだからあとは押して知るべし。
携帯ゲーム機が欲しくてお使いのお釣りをちょろまかし、ひそかに貯めたへそくりを留守番中に来た着払いの宅配便に立て替えて、間抜けにもそれを母親に請求し、着服がばれて三ヶ月間小遣い無しの刑に処されるわ、母の日に自分の部屋を掃除してみせ、体裁を整えるために部屋中のなんやかんやを詰め込んだ押入れがパンクしてしまい、青少年が所持していてはいけない書物が出てきて母親が泣き崩れてしまったとか、合唱祭の練習中に音痴なヤツになんとか自分の調子ッパズレが目立たないようにならないだろうかと言われ、そいつ以上に調子を外して歌っていたら、音痴なヤツのまねをして嘲っているとクラスの女子共に思い込まれ、総スカンを食らったり、石蹴りをしていて、蹴った石が怖い人の頭をストライクしたとか、思い出すだけで鬱になる。
しかしながら、生命の危機や人生そのものに絡む墓穴は掘ってこなかったし、高校生にもなれば多少は用心深くなり、そうそう墓穴などを掘らないだろうと高をくくっていた。
――――そう、竜洞はづきに出遭うまでは。
第一章
なんとか無事に第一志望の高校に引っかかり、涙を他人に見られることもなく卒業式をやり過ごした高校入学までのモラトリアムの春休み。
俺は飼い犬の朝晩の散歩に志願した。うちの犬はでかい上にけっこうな運動好きだから受験でなまった体のリハビリにはもってこいだ。
一週間続いた雨が止んだ朝、俺は犬にせかされ準備運動もそこそこに、リードを手に家を駆け出した。家のすぐ近くを流れる川の土手に上がり遊歩道を走る。吐く息はまだ白いが、確実に春はそこまで来ている感がそこかしこに見て取れる。
木々の新芽がちょろちょろと黄緑色の先っちょを出し始めているし、梅や桜の蕾がいまにも弾けそうな勢いで膨らんでいる。
大きく息を吸い込むと、この時期ならではの空気の匂いが鼻腔に充満して、肋骨の最下段やヘソの下辺りがくすぐったくなるようなワクワクする感覚が沸き起こる。俺はこの季節が大好きだ。
五分も走ったころ犬が急停止して動かなくなった。突如進行方向と逆に強烈な力で腕を引っ張られた。
危うく後頭部と地面に熱烈なキスをさせるところだったが、なんとかふんばり、事なきを得た。えらいぞ俺の足腰。今度なんか買ってやる。
犬の名を呼び彼女を叱責(本当は飼い犬の名を呼んで叱るのはよくない)しようとしたが、 彼女が見つめているものを見て、俺は胃の中にでかい氷を放り込まれたような気がした。長雨で陥没したのか河原に差し渡し三メートルほどの穴が開いていて、その穴に後ろ向きで落ちようとしている少女が目に飛び込んできたのだ。少女と判断したのはその人物の身長と横幅の比率、高い位置でひとくくりに結んである髪の毛、全体に丸みを帯びたフォルムからだが、年齢に関しては、希望的観測だ。
とにかくその人物は何に夢中になっているのか、無頓着に穴に向かって後進を続けている。数秒後には穴の底に尻餅をつくか、頭頂部で頭突きをかますことになるに違いない。穴の深さによっては大怪我するか下手すりゃ……。
俺と件の人物との距離約二十メートル、間に合うか? 考えるよりも先に俺は奇声を発しながら土手を駆け下りていた。危ない! とか、ちょっと待ったぁ!とか叫んでたと思う。そこらへん記憶が曖昧だ。
彼女が俺に気が付き、振り向きかけたときその足は、まさに長雨でぐずぐずになった穴のふちにかかっていた。彼女が穴に落下するのを阻止すべく俺は跳んだ。目標はウェスト付近。
が、踏み切りの瞬間、濡れた地面に足が踏ん張りきれずにスリップした。俺のヒロイックな跳躍は勢いをつけた大転倒に成り下がってしまった。
少女を抱きとめるはずの腕は窒素、酸素、二酸化炭素などなどからなる混合気体を抱きしめ、水分を大量に含んだ地面にヘッドバットを食らわし、もんどりをうって彼女が落下するはずだった穴に飛び込んだ。ご褒美は取り消しだ俺の足腰。
結果、彼女は穴への転落を免れ、代わりに俺が穴の底に強烈なヒップドロップをかましていた。当然ダメージはおれ持ちだ。まあいいか、こんな穴に落ちるのは美少女よりも野郎の方が似合っている。いびつに縁取られた青空を見上げ、いつの間にか美少女に昇格していた彼女の無事に安堵した。
さて、どうやってこの穴から脱出したものか。三メートルはあるな。仰向けのまま思案している俺にめがけてドサドサと土が降ってきた。しまった、俺が落っこちたショックで穴が崩れ始めやがったのか? 崩落土砂はあっという間に俺を生き埋めにして身動きできないようにしやがった。
土砂の密度が荒いおかげで今は何とか呼吸はできるが、それもいつまでもつだろうか。土はドサドサと落ち続けている。
穴の外にいる美少女が、ビビって逃げ出してなければレスキューぐらいは呼んでくれるだろう。案外うちの駄犬が誰かを呼んできてくれるかも知れない。いや、そのどちらも期待できないかもしれないな。だんだん息が苦しくなってくる。このまま窒息死するんだろうか? 実感がわかない。存外あっけなく終わるもんだな生命なんて。走馬灯のように自分の人生がまぶたに浮かび上がるなんて嘘じゃねーか。と、早くも諦念を決め込んだ俺の耳にドスンという何かが落ちてきた音に続いてザッシュザッシュという土を掘る音が聞こえた。土を掘る音がだんだん大きくなり、やがて俺の鼻先に柔らかいものが触れる。
「ぶはぁっ、げほっげほっ」
呼吸が楽になったと同時に首の自由が回復した。続いて土砂から開放された両手で、顔の泥土をぬぐいながら上体を起こす。
「ふんっ、ケガは無いようね」
まだ目を開けられない俺の鼓膜を極上のソプラノが震わせた。
「面白そうな穴を見つけたから、探検しようとしていたのに、あんたが落っこちたせいで、台無しになっちゃったじゃない! おまけに救出作業までさせられるなんて!」
ようやく目の焦点を合わせることができた俺に、とびっきりの美人がまたがっていた。
青いバンダナでポニーテールにした長く真っ直ぐな赤みがかった髪、幼さを残しつつも整った目鼻立ち、猫の目を思わせるような瞳がちの大きな目、それを囲む長い睫毛、血色のいい柔らかそうな唇、俺を非難する音声を発している口には大きな真っ白い前歯がのぞいている。こんな美人にはテレビ以外では初めてお目にかかった。ひょっとして、なんかのテレビ番組のロケの邪魔でもしたのか俺?
「ちょっと、あんた聞いてる?」
胸ぐらをつかまれてようやく我に返った。面白そうな穴? 探検? 救出作業? 何のことだ、この穴に転落しようとしていたんじゃないのか?
「転落?バカいわないでよ。このあたしが穴に転落だって?」
彼女は立ち上がりざまに俺の額を小突いた。いきおいで再びひっくり返る。穴のふちからロープが垂れ下がっていた。彼女は俺の頭をまたいでロープに取り付く。その後姿をよく見ると、細い腰から太股にかけてベルトが装着されていた。ロッククライミングとかで使ってるのを何かで見た記憶がある。
準備万端整えていたわけだ。きっと穴の外には杭かなんかが打ってあってロープを固定しているんだろうな。穴を探検とか言ってたっけ。ロープを伝って降下しようと穴に向かっていたのを、転落するところだと勘違いしたんだな俺は。恥ずかしさで顔が熱くなる。
「あーあ。帰って朝ご飯食べよぉっと! あんたは自力で脱出してよね。あたしのジャマをした罰。あと、あたしに感謝すること、生き埋めから掘り出してあげたんだから」
スルスルと猿みたいに登っていく。たいしたもんだ、登坂にかなり慣れているんだな。
って、感心してる場合じゃなかった。
「じゃあね、バイバーイ」
穴のふちから白い手がヒラヒラと振られた。
「ちょ……ま、待ってくれっ! おおーい!」
入れ替わりに、うちのバカ犬が飛び込んできた。俺の無事を確かめるように長い舌で俺の顔を舐めまわす。
「俺はおまえに助けを呼んできて欲しかったんだが……。ハナから無理な話だったか。……あの娘、すげえ美人だったな。ちょっとおっかなかったけど」
犬は俺の言葉を理解したのか、ワン! と一声吠えて、その般若顔をすり寄せてきた。
「妬くなよ。あんな大美人と出会う機会なんて、これが最初で最後さ。また会うことがあったとしても、あんなおっかない女とお近づきになろうなんて思わねーよ」
俺は彼女をギュウッと抱きしめた。
「さあ、どうやってここから出よう?」
俺と犬がその穴から脱出するまで、実に三時間を要した。帰宅したとき母親は捜索願いの電話を警察にかけるために受話器を上げたところだった。
そんなアクシデント以外大した事件もなく(河原に開いた陥没穴に転落するなんてことがそうしょっちゅうあっても困る)、あっという間に高校の入学式を迎えた俺だったが、登校初日にして、この高校を志望したことを後悔し始めていた。受験や合格発表の時には、何かおかしな脳内物質が出ていたんだろうな。この学校がどんなところにあるのかが、まったく見えていなかった。
入学式当日、俺は最寄り駅の学校側の改札口を出て愕然とした。駅から学校へと田んぼの真ん中を突っ切って一直線に伸びる取って付けたような舗装道路。霞んで見える校舎。そこに向かってとぼとぼと歩いている生徒たち。 市の郊外に所在し、田園に囲まれた恵まれた勉学環境と入学案内にはあったが周囲三千メートルことごとく田んぼだとは書いてなかった。
陸の孤島だこれは。ここに、三年も通うのか? 俺と同じ気持ちになっていたであろう、立ち尽くしている真新しい制服を身につけた生徒たちに哀れみの視線を投げかけながら、上級生たちが追い越していく。
兎にも角にも、あの霞んでいるところにたどり着かなくては始まらない。 俺は、大きく息を吸い込んで一歩を踏み出した。道理で入学式にはたっぷり時間的余裕を持って登校すること、なんて入学のしおりに書いてあったわけだ。歩く早さではまあまあ自信があったほうだが、しっかり二十分はかかった。
昇降口前の臨時掲示板で自分が所属するクラスを確認した後、腕に案内の腕章をした上級生に場所を聞いて、これから一年間は世話になることになる一年一組の教室に向かう。
俺が四階の一番奥にある教室に着くと、すでに到着していた連中がそれぞれの出身中学ごとにまとまって騒いでいた。無論、俺の出身校からも少なからずここに進学してきているし、比較的仲がよかった奴もいたので、そいつらを見つけ出しおしゃべりの輪に加わる。
よお、久しぶりだなあに始まり、この春休みにどこそこへ行って来ただの、新作のゲームを何日で攻略しただの早くも噴出したこの学校に対する不満など他愛のない話に相槌を打つ。中学生のときとノリはなにも変わらない。高校生になったからといって、がらりと人間が変化するわけではないから当たり前か。
そんな、クラスメイトたちの喧騒の中、一人だけどのグループにも加わらず、一番後ろの窓によりかかり窓の外を見下ろしている女生徒がいた。
腰まである真っ黒なストレートの髪、物憂げに伏せられた長いまつげの目、薄桃色の唇。美人だ、横顔から判断してもきっとすごい美人だ。しかし、ん?
その横顔に見覚えがあった俺は、今まで同じクラスだった女子の顔を思い出したが、窓際のそいつはヒットしなかった。まあいいか、これから一年は同じクラスだし、会話する機会もあるだろう。そんときに聞けばいい「あんた俺と会ったことあるっけ?」って。オーソドックスだが、せっかく美人とクラスメイトになれたんだ。すこしくらいはお近づきになったっていいだろう? 身体健全な年頃の男子だ、美人の同級生に興味を持つのは普通だと思うんだが?
しばし窓際の大美人に見惚れていたが、新入生を講堂へと誘導する校内放送がスピーカーから流れ、俺たちは隊列を組んで入学式場へと移動した。
入学式とそれに続く上級生との対面式、教室に戻って中年の担任教師とクラスメイトの自己紹介をつつがなくこなし、明日からの予定を聞いて、本日の日程は終了となった。
帰り支度をしながら俺は、窓際の大美人のことを考えていた。本当に見覚えがあるのだがどうしても思い出せない。あんな美人のことを一度見たら忘れるわけがないんだが。自己紹介の時だってクラスのほとんどの男子が目をハートマークに変形させていたくらいの美人だからな。
「三中出身の竜洞はづきです」
自己紹介を始めた窓際の大美人改め竜洞はづきの所作は実に優雅だったし、見てくれを裏切らないよく通る美麗な声だった。枯れ始めているだろう担任教師でさえ微妙に頬を染めていたぐらいだ。しかし、俺の頭の隅っこでは何かが引っかかっていた。
そう、このとき多分、生存本能が危険信号を出していたんだろうな。
間抜けにもこれを、ときめきと勘違いしていたんだ俺は。
同じ中学出身の奴と一緒に帰ろうかと、席を立ちかけた俺の首根っこを、誰かが引っつかんだ。
なんだなんだ何が起ころうとしている?
抵抗することもできずに教室からえらい勢いで引きずり出される。お、俺、何かしましたか? 不良の先輩の目に付くようなことことしましたっけ? 入学初日でこれはないでしょう!
クラスメイトたちはあるいは驚いて目をまん丸にして、あるいはクスクスと笑いながら俺を見送っていた。後で知ったのだが笑っていたのは、俺の首をつかんで拉致した奴と同じ中学出身の連中だった。
下校する新入生たちでごった返す廊下を走り抜け、屋上へと続く階段をかけ上がる。勿論走っているのは俺ではない、俺は引きずられているだけだ。尻が段にぶつかりものすごく痛い。お手柔らかに頼む。まだ尻餅のダメージが、抜けきってないんだ。それにしても、なんて握力と脚力だ。
「まさか、おんなじ高校だったとは思わなかったわ。しかも同級生だなんて!」
屋上への出入り口の踊り場で、俺の首をつかんでいた万力が緩む。声からすると俺を拉致ったのはどうやら女らしい。マジですか?なんて怪力な女だ。ん?この声、なんか聞き覚えがあるぞ。さっきの自己紹介のときも聞いたが、それ以前、つい最近にも聞いたことがある極上のソプラノ……!
「あ――――っ!」
何でホームルームのときに気が付かなかったんだ! そうだ、この声は……。振り返り見上げると、仁王立ちで腰に手を当て俺を見下ろしている窓際の大美人。あの河原の大穴に俺と犬を残して去って行ったおっかない大美人――竜洞はづきがそこにいた。
ポニーテールじゃなかったから気が付かなかった? 髪の毛の色が違う? いやそんなことじゃないな。教室ではまったくの別人にしか見えなかった。自己紹介の時だって、出身中学が俺の出身校の隣の三中だってことと、あとは高校生活に対する抱負とか無難なことしか言ってなかったぞ。
楚々とした口調と声色から、あの河原の大穴で出会ったおっかない女をどう想像できたろう。
が、ここにいるのはまぎれもなく、あの河原の大穴に俺たちをおいてけぼりにして行ったおっかない女だ。
「あんた、誰かに話した?」
首と尻をさすりながらよろよろと立ち上がった俺に、竜洞はづきは傲然と問いただす。河原でのことだろう。「パンチ力は握力に比例する」という、何かで読んだ言葉が頭をよぎる。
ロープ一本であんな壁面をスルスルと登れるんだ、きっと俺なんかよりもずっと力強いに違いない。殴られたら鼻血で済むかどうか。ストレートで鼻骨骨折、フックなら頬骨骨折か上顎、下顎骨折。アッパーならば……。
どれでもかなり痛そうだ。考えるのはよそう。
「いや、誰にも。家族にさえしゃべってない、知ってるのは俺と、一緒にいた犬だけだ。あの穴に落ちたこと自体なかったことにしている」
「そう、ならいいわ」
ふっとため息をつき、竜洞はスタスタと階段を降り始める。あの穴でのことを誰にもしゃべっていなければ俺のことなどには一切興味無しといった様子だ。さすがにカチンと来た俺はつい言ってしまった。
「なあ、ホームルームじゃ、ずいぶんお澄ましして自己紹介してたが、ありゃあネコッかぶりってやつだろ? こっちがおまえさんの本性だよな?」
「あんたには関係ない」
歩調を緩めることなく、冷ややかに竜洞は答える。
「髪の毛黒く染めたのも、おしとやかキャラを演じるためか?」
「そうよ! だから、あたしのジャマすんなッ! それから、こないだのことと、今ここでのことは忘れてよね。思い出したり、誰かに話したりしたらぶん殴るから!」
そう言い捨てながら、竜洞はづきは俺の視界から消えて行った。一度もこちらを振り向かずにだ。
「嫌われてるな、こりゃあ」
まあ、好意を寄せてもらおうなどとは思ってなかったが、積極的に嫌われようとも思ってなかったわけで、竜洞はづきの態度は少なからずショックだった。
そりゃそうだろう? せっかくテレビの中でしか見たことのないような美少女とクラスメイトになれたのに、けんもほろろに取り付く島も与えられなかったんだ。
初対面があれだったわけだから、当然といえば当然だが……。
って、まてよ。
あいつの弱みを握ってるのはむしろ俺じゃないのか?
どうやら竜洞はづきはあの穴にいたことを知られたくなかったようだし。 自分が本来おしとやかなキャラじゃないことも知られたくなかった様子だ。
ならこれをネタに……なんてな。
そんなよろしくない企みは、あの『母の日』に見つかったムフフな書物の中でだけ展開すればいい。
現実世界では理性と良心に従うのだ。ここはおとなしく竜洞はづきのいうことを聞いておこう。それで波風は立たないはずだし、なによりぶん殴られなくて済むだろう。
殴り合いのケンカになったなったとして、俺に勝ち目があるとは到底思えないからな。触らぬ何とかに何とかだ。
よし、いいぞ俺、なかなか慎重じゃないか。墓穴を掘ることを回避できたじゃないか。もし掘っていたらは生命に関わり兼ねなかったぞ。うんうん成長したなあ。やっぱり高校生ともなると一味違うなあ。
なんてことを踊り場に座りこんで考えていたら、一時間に一本の汽車に乗り遅れ、二時間かけて徒歩で帰る羽目になった。
入学初日からなんてこったい。
オリエンテーションが終わって、本格的に授業も始まり、朝の強制ウォーキングにもぼちぼち慣れたころ。
学食や購買での昼食争奪闘争に参戦して、目当ての物を獲得する自信をすっかり喪失した俺は、弁当の作成を母親に頼み込んだ。
俺たち兄妹を立派な体に育て上げることと、家計の節約に人一倍闘志を燃やす彼女は一も二もなく了解し、味はともかくとして、栄養的にはかなりなものを作って持たせてくれてた。
弁当派は圧倒的に女子が多かったが、少なからず弁当持参の男子もいる。一人ぼっちはつまらないというわけではなかったが、仲間外れになっているんじゃないかと、思われるような状況をわざわざ演出する必要もないし、やっぱり少しは寂しい。
まあ、そんなこともあって、昼飯時は同じ中学出身の佐藤と、佐藤と同じ塾に通っていたという中西というやつと一緒に過ごすことになっていた。
「おまえ、入学式の日、竜洞はづきに拉致られてたよな」
玉子焼きを口に放り込みながら、中西が言い出す。事実だから首肯する。
「あいつにちょっかい出したのか? まあ、男ならあの見てくれにクラクラっとくるのはわかるが、悪いことは言わね、やめとけ。あいつには関わるな。死ぬぞ」
俺は、咀嚼していた茄子の素揚げと鶏のから揚げ、口中調味中の米粒を吹き出しそうになった。
たしかに、竜洞はづきにぶん殴られたら生命の危機に陥るかもしれないが、いきなり物騒な話を切り出すな。俺を引きずって屋上まで駆け上がった膂力はすごいもんだ、怒らせたらかなり厄介な事態になるかもしれん。
だが、関わったら死ぬって? 物騒にも程があるだろ。
「ああ、そうか、前に中西が言ってた、三中の鬼姫って、竜洞さんのことだったの?」
生姜焼きであろう肉片と米粒をこぼしながら、のほほんと佐藤が言う。
佐藤、しゃべるなら、口の中の物を全部飲み込んでからにしろ。親父が怒るぞ。
「憶えてたのか佐藤。そう、その鬼姫だ」
三中の鬼姫? 大した言われ様だな。そりゃ、そう言われてもおかしくない位の迫力があるが、鬼とはますますもって穏やかじゃあないぞ。
「大きな声じゃいえねが、これまでにあいつが病院送りにした男は軽く二桁を超える」
さすがに今度は俺も、口に入れたばかりのから揚げを丸飲みにしてしまい、息を詰まらせる。
「なんだそりゃ、そんなに乱暴者なのか竜洞はづきは?」
それが本当なら鬼姫の二つ名も理解できる。だが、二桁の人間を病院送りにしたやつがどうしてここに居られる? そういう奴の進路は中学途中で専用の施設に転校だろ?
中西はがつがつと飯をかき込み、周りをきょろきょろと見回しながら「俺はあいつとは小学生のころから同じクラスになることがよくあったから、知ってるんだが」と前置きして、
「乱暴者じゃねが、ある意味よけいに始末が悪い。おととしだったか、三中のグラウンドで旧石器時代の遺跡が発見されたことがあったろ」
「ああ、憶えてる、ニュースで見たよ。たしか社会科の先生と理科の先生が発掘したんだよね。うちでも、あのあと発掘ブームになって、グラウンドのあちこちが穴だらけになってたなあ」
またまた佐藤が米粒をこぼしながら口を挟んだ。佐藤、親父が泣くぞ。
「表向きはな。実は本当に遺跡を掘り出したのは竜洞はづきなんだ」
なんで、表向きが必要になる? 女子中学生大発見! 旧石器時代の遺跡を発掘! でいいじゃないか?
「それがそうもいがねのだ。深く追求されっと、あいつの前歴がバレるおそれがあったがらな」
前歴? まるで犯罪者扱いだ。よほどの問題児だったようだが、よく高校に進学できたもんだ。お前の中学には内申書というものが存在しないのか?
「犯罪すれすれだな。問題児にはちげねが非行少女ってわげではねのさ。成績優秀でスポーツ万能だ、人当だりもいいし、おまけにあの見でぐれだ」
ますます解らん。持って回った言い方はやめろ。昼休みはそんなに長くない。
「ここ何年か、県内であった発見、どんだげ知ってる?」
「うーん、さっきの旧石器時代の遺跡に、ナウマン象の化石、平安時代の神社跡、ああ、そうだ、世界的宗教の聖者の埋葬場所が書かれた古文書が、見つかったってのもあったなあ。あ、でも、それは偽物だって言ってなかったっけ?」
ペットボトルのお茶を飲みながら佐藤が答える。佐藤……さすがに液体はこぼしてはいないか。液体は後始末が面倒だからな。
「ご名答、だが、歴史に関係していることだけが発見だけじゃね。一千万円入ったカバンや古銭が大量に入った瓶、山菜取りに出かけて行方不明になったばあさんに前の戦争のときの不発弾、捨てちゃいけないところに捨ててあった、ええとなんだっけ?まあいい、そういうゴミや壁の中の白骨死体なんてのもある」
おいおい、ナウマン象の化石や古文書から不発弾、大判小判に白骨死体まで全部、竜洞はづきが発見したってか? それは有り得ないだろう。どれひとつとったって人間が一生かかっても一回体験できるかどうかだ。どんな星の下に生まれればそんだけの物を発見できる?
「事実だからしょうがね。あいつぁ、なにがにしかを掘り出す名人なのだ。だが、何が出てくるが掘ってる本人も判らねってのが玉にキズだがな」
「……にしたって、白骨死体はねえだろ? 相当なトラウマになってるはずだぞ」
「いや、それが竜洞はづきクオリティーってやづなのだ。カナリアや、犬ネコの死体を掘り出したこともかなりあったから、慣れてたんでねが?」
三中の鬼姫の二つ名は伊達じゃないってことか。
「なるほど、だから、学校としては竜洞さんが遺跡を掘り出したことを隠したかったわけだ。そんな実績が公になったら、ワイドショーネタだもんね。連日、テレビが取材に来ちゃうね」
「しかもだ、あいつぁ閃いたら、いつ、どこでも、どんなことをしていても掘り始めるのだ。それこそ、他人の家にいきなり上がりこんで、畳をひっくり返して床下を掘り出すなんてかわいい方だ」
十分かわいくないぞ。それだけで、住居侵入ならびに建造物等損壊罪だ。全然すれすれじゃないじゃないか。
「お宝掘り出してくれだ人間を訴えるやづはあまりいねべ。それに、ガギだったすな。まあ、さすがに死体のときはえらい騒ぎになったがな。あんどきも、表向きは十歳の女の子がゴムとびをして遊んでるときに壁にぶつかって、崩れたってことになったはずだ」
「ほんとうは?」
「ツルハシで掘りやがったのさ」
中西は弁当箱から片目だけをこちらに向けてにやりと笑った。
「ほえー! ツルハシ? 十歳の女子小学生が! すっごい力持だったんだねー。俺、ツルハシなんて今でも持ち上げられないよ」
「だろ? おまけにあいつの体力は尋常じゃね、ズンズン先に行ってしまうから、ついていくだけでもかなりしんどい。デート用のオシャレな服装だしな。いいとこ見せようとしてかなりな無理をして、挙句、足を滑らせて転落したり、息が続かなくなって溺れたり、イノシシに追っかけられてひどいめにあったなんてのもあったな」
中西は「あったな」の部分に妙に力を入れた。
「なるほど、竜洞さんのお宝発掘探検に、デートのつもりでのこのこついていった男が、やりなれない野外での行動の果てに無茶して、ドジ踏んで大怪我したというわけかぁ。よく今まで死人が出なかったね。きっと、非常時の対応の仕方が臨機応変で正しいんだろうな。ほんと只者じゃないや」
ようやく食べ終わった弁当を几帳面に包みながら、佐藤は中西の話を簡単にまとめ、竜洞はづきに対する洞察を加えた。佐藤、お前の弁当にはうまみ調味料が大量に使用されているようだな。
「ああ、適切すぎるだろってくらい適切だった。そうだ。包帯の巻き方や、添え木の当て方なんて、医者が感心してたぐらいだからな。だ、そうだ。でもなあ、怪我してヘコんでるとこにあいつは追い討ちをかけるのさ、この役立たず! あたしのジャマすんなっ! てな、そんときのあいつの形相はまさに鬼だった。そうだ!」
それで鬼姫ね。そういえば、中西の左腕に縫い傷があったのを思い出した。体育の時間、更衣室で見た覚えがある。イノシシに追っかけられたのはおまえか?
「聞いた話だ、あくまでっ!」
中西は俺の疑惑の視線をあわてて外し、左腕をさすりながら言葉を繋ぐ。
「そんなこと何回も繰り返すもんだから、しまいには誰も竜洞はづきと付き合おうなんて考えなくなってたな。告ってくる男はあいつにとって荷物運びや穴掘りの助手ぐらいの価値しかないんだってみんな分かったからな。そんで怪我して、罵倒されたらたまんねからな。男女交際なんて、ハナから頭にねえんだ、あいつは。穴掘りが何よりも大事なんだろ。ここしばらくは、おとなしくしてるみたいだが、きっとまた始めるにちがいね、男だって、今度は高校生だ、中学生男子なんかよりずっと役に立ちそうだしな。だから、あいつはやめとけ。親切でいってやってんだからな」
親切心には大いに感謝するが、残念なことに俺にはその気がない。中西よ、お前の親切は空振りだろうぜ。しかしまあ、いくら同じ小中に通っていたからといって、竜洞はづきの裏事情によくもそこまで精通できるもだな。
「うちの、お袋があいつの母親とママさんバレーのチームメイトでな、ガキのころからあいつの話は嫌でも耳に入ってくるし、小二くらいまでは一緒に遊んでたこともある」
「俗に言う、幼馴染ってやつだ」
「俗に言う、幼馴染ってやつよ」
同じ言葉がユニゾンで聞こえた。背筋がぞわぞわと粟立つ。佐藤と中西も同じなのだろう。
二人に遅れること0・五秒ソプラノの声の方を振り向く。織田信長でも凍りつきそうな笑顔をたたえた竜洞はづきが立っていた。
「中西君、お母さんお元気? ごぶさたしちゃってるけど。ああそうだ、この間、バイパス沿いの自販機の前であなたを見かけたけど。なにか面白い新商品でもあった?」
「あ、ああ……うん。そ、そうだ俺、と、トイレに行こうと思ってたんだ。佐藤、付き合ってくれよ。じゃあ、あは……ははは」
二人は仲良く連れ立って、男子便所に避難した。チャイムが鳴るまで帰ってこないな。間抜けめ、そういう書籍は細心の注意を払って購入するもんだ。丑三つ時に買いに行くとか。いや、むしろ丑三つ時は竜洞はづきの活動時間か。ついてねえな同情するぜ。
「なにか聞いた?」
竜洞は、戦慄を覚える笑顔を絶やすことなく俺に問いかけた。
「いや、当たり障りのない、やつの小中の頃の思い出話だ。その流れで、たまたまお前さんの名前が出ただけさ」
「そう、じゃあ、中西君に言っておいてくれるかな。あたしもたっくさん思い出話があるから、お母さんの都合聞いておいてって。そうそう、あなたも誰かに思い出を語りたくなっても、よく考えようね。後悔先に立たずよ」
竜洞は口の両端をさらに吊り上げ、俺を上目遣いで見つめて四回瞬き、くるりと背を向け、自分の席へ向かう。後ろ手に組んだ右手が、密かにしっかりとした握り拳になっていたのを、俺は見逃さなかった。俺の背中は変な汗でびっしょりになっていた。本職でもここまで迫力のある脅しが出来るのはそうそういないだろうな。
この時期、俺たち一部の事情を知る者を除いて、竜洞はづきはほぼ完璧に回りの生徒たちをダマくらかし、三中の鬼姫の片鱗も見せずに過ごしていた。
女子たちの井戸端会議の中心には必ず竜洞がいて、最近流行りの洋服の話やら、芸能人の話、気になる男子の話などで談笑する普通の女子高校生然としていた。
勉強においても、優等生を絵にかいたような生徒で、ネイティブスピーカーと勘違いされるような正確な発音で英語教師は舌を巻き、数学では意地悪な教師が出した、まだ習ってもいない上級問題をさらりと解いて見せた。
竜洞の周りには人が集まり、クラスのムードメーカーとなっていた。
ただ、体力測定のときはさすがに普通を演じ切れなかったらしい。
と、いうか、かなりセーブしていたのかもしれないが、男子も含めた校内記録をうっかりと全て塗り替えてしまった。
竜洞は必死になって、たたき出した記録を下方修正しようと、記録係にリトライを頼み込んでいたが、衆人環視の中でのことである、誤魔化しようがなかった。
賞賛の声をかけるクラスメイトたちに沈んだ面持ちで応える竜洞に吹きだしそうになり、鋭い視線を向けられて、俺たちは冷や汗をかいた。
一年にとんでもない美人がいる。という評判が全校に広がり、休み時間ともなれば教室の出入り口は黒山の男だかりとなったのもこの頃だ。
うちのクラスの男子共は竜洞はづきの同級生だというだけで他クラスの男子から羨望の眼差しを受け、教室外では天狗よりもハナを高くし、教室の中では、鼻の下をオランウータンよりも伸ばしていた。
俺たちを含むごく一部を除いてだが……。
知らぬが仏とはこういうことなのだと、俺は改めて納得した。
そんな有様であるから、竜洞はづきがどこの部活に入るかは全校生徒の関心を集めることとなっていた。
授業で教師を翻弄したことや、体力測定で記録を塗り替えたことも知れ渡り、陸上、バレー、テニス、バスケ、ラクロス、柔道、剣道などの運動部はもちろんのこと、吹奏楽、書道、写真、演劇、文芸とかの文化部。はては漫研、オカルト研、生徒会などわけの分からない奴等までが竜洞はづきを獲得しようと我がクラスを訪れ、熱心に勧誘を始めた。
まあ、あいつだったらどこでもやっていけるだろう。本人がやる気さえあればだが。
当の竜洞は、どの部活にも所属するつもりはなかったらしく、断り続けていたが、勧誘する方は必死に食い下がる。そりゃそうだ、部員として獲得できれば、戦力の法外なアップに繋がるだろうし、マネージャーとしてなら部員のやる気が天文学的な倍率で向上するに違いないからな。
竜洞はづき争奪戦は次第に熱を帯び、夜討ち朝駆けで各部のスカウトが訪れ、竜洞の周りは常に騒然としていた。当然ながら、竜洞のすぐ近くには体力的に勝る運動系の部の連中が輪形陣を組み「入部即レギュラー」とか、「三食昼寝付き」とか破格な条件を提示して竜洞の興味を引こうとする。
かわいそうだったのは文化部の連中で、運動部のやつらの肉弾山脈越しに「竜洞さーん、これを見てくださーい!」と、手作りのパンフレットやら、勧誘ポスターを掲げることくらいしかしかできない。
パンフレットを抱きかかえて肉弾山脈への突入を試みた勇気ある小柄な女子などは瞬時にして弾き飛ばされ「ふぎゃっ」と、派手な連続後転を披露して尻餅をつく始末だった。
そんな過激な勧誘が俺たち竜洞はづきのクラスメイトに影響を及ぼさないわけがない。
チャイムが鳴るや、俺たちは教室の隅へ避難しなければならなくなったし、学食を利用していたある男子生徒たちは、列に並んでいるときに、屈強な上級生に囲まれ、あれよあれよという間に最前列に割り込まされ「もし君が竜洞さんを仮入部に連れて来てくれたなら、在学中は常に列に並ぶことがないようにしてあげよう」と言われたといい。
また、ある女子たちは、下校時に上級生と思しき女性徒の一団に駅前の喫茶店に拉致され、無理矢理パンプキンパイとシナモンティーのセットを奢られ「おねがいね」と、ウィンクされたり……。
と、いうように、実害が及んでいた。
蛇足だが、シナモンティーには薔薇の形の角砂糖が二つ付いていたそうだ。
結局、生徒会の介入により「とりあえず全ての部に一日づつ、仮入部することにしましょう」ということで、騒ぎは収束したものの、どこかに所属しないことには根本的な解決にはなりそうもなかった。
「大人気だな」
平穏な学校生活が回復したある朝、何をどう間違えてしまったのか、俺は竜洞はづきに話しかけてしまった。仮入部マラソンで疲れてるんじゃないかと、蟻の睫毛ほどに同情してのことだったんだが。俺の席への通り道に竜洞の席があるからだしな。事のついでってやつだ。
「なんなら、代わってあげようか?」
机に突っ伏したまま、竜洞が応える。
「俺じゃあ役不足だ。スマン」
「それもそうよね。あんたが脚を振り上げながらポンポン振ってる姿なんて想像したくもない」
今日は、チアリーディング部か。たしかに俺じゃ役不足にも程がある。
「あーあ、もったいないなあ」
竜洞はづきはムクリと体を起こして、机に肘を付き、その上にむくれた顔を乗せた。
「なにが?」
「時間よ、じ・か・ん。どーせどこにも入るつもりないんだし、仮入部なんて時間の無駄よ。毎日こなしても、あと二週間はかかるわ。あっという間に連休突入じゃない!」
竜洞は、仮入部の予定がびっしりと書き込まれているスケジュール表を俺に見せた。
「その仮入部のおかげで、俺たちは平穏な休み時間が過ごせるわけだからな。感謝してるよ。お前さんも迷惑だろ、休み時間ごとにあんな大騒ぎされちゃ」
「言われなくたって分かってる! あたしのせいで、クラスのみんなに迷惑かけるわけにはいかないから納得はしてるけど……。はあぁ、なんか、サヨナラホームランみたいに一発で全部終わらせられないかなあ」
「一発逆転なあ……。大博打には、それ相応のリスクがつきものだが」
「なによ、なんかアイディアでもあるの?」
「いや、リスクを考えれば打つ手が見つかるかと思っただけだ。聞き流してくれ」
「ふん、役立たず!」
竜洞はづきは、期待外れにも三振してしまった代打川籐を見るような目で俺を一瞥して再び机に突っ伏した。
その日の放課後の竜洞はづきの仮入部は、予想通りチアリーディング部だった。俺と佐藤は中西に誘われて、チア部の練習場所であるところの第二体育館に見物に行ったが、全校生徒が一堂に会したかのような盛況ぶりだった。これまでの仮入部のときも、ギャラリーはたくさん来ていたんだそうだ。首からIDカードのようなものをぶら下げている上級生が教えてくれた。
ひょっとして、ファンクラブでもできてるのか?
これもまた、予想通りだったが、竜洞のチアリーダーっぷりは全く見事としか言い様がなかった。本当に嫌々やっているのかと思うほど板に付いたチアっぷりだった。
ギャラリーは皆が皆、竜洞はづきの一挙手一投足に溜息をつき歓喜していた。こいつがもし本当にチアリーダーになったら、うちの学校の運動部は連戦連勝まちがいなしだろうな。
――竜洞、お前この学校のアイドルになっちまってるぞ。
「たとえ、やる気がなかろうが嫌々だろうが、そこにいることになったら、そこで一生懸命やるのがあたしの信条なの」
とは、翌朝の竜洞はづきの言だ。しまったことに、俺は、また話しかけてしまっていた。
「それは立派な信条だが、疲れるだろ」
「代わってくれる?」
「昨日も言ったが、俺では役不足だ。お前さんの代わりにはなれん」
「ふん、期待してないわよ。文字通り自縄自縛に陥ること請け合いだわ」
今日は新体操部か。さぞかし今日のギャラリーは熱狂するだろうな。こいつのレオタード姿を想像したら、正体を知っている俺でさえおかしな気分になる。
「なに妄想してる? 言っとくけど、ジャージだからね、今日は!」
「そりゃ残念だな。いや、俺じゃなくお前さん目当ての野次馬たちにとってだが」
「ふん! どーだか」
「それにしても、手っ取り早くパパッと片付けられないものかしら。あー時間がもったいない」
「しかし、なんでそんなに、時間をもったいながるんだ?」
「あたしには、やることがあるの!」
「やることね、そんなに大事なのか? あ……」
ギロリとにらまれ、後に続く言葉を飲み込んだ。ふう、あぶねーあぶねー、鼻骨骨折するとこだったぜ。俺はシオシオと自分の席に着く。
「ふん!」
竜洞がそっぽを向くと同時にチャイムが鳴り、担任教師が教室の扉を開けた。
「よーし、ホームルームを始めるぞー、席に……着いとるか」
この教師はやたらと時間に正確だ。
ふむ、仮入部の山をパパッと片付ける方法ねえ。どうしたもんだろうか。 俺は、竜洞はづきの苦労軽減のための方策を考えている自分にびっくりした。
おいおい、何やってんだよ俺。竜洞はづきには関わらないんじゃなかったのか?
とはいえ、役立たずと言われて「へえへえ、ごもっともでごさいます。じゃあ、あっしはこれで」なんてのは、俺の意地が許さなかったらしい。
しかし詰まりまくった予定ををあっという間に片付ける方法か。目を閉じ考え込む。昨日竜洞が俺に見せたスケジュール表がまぶたの裏でをクルクル回る。――ん! 明日の予定はどこだった? 俺の頭の上で二百ワットの白熱電球が灯った。
「こういう場合、バラエティ番組のクイズコーナーにありがちな、三万ポイント獲得的なものがいいんじゃねーか?」
早目に弁当を胃に収め、中西と佐藤の好奇の視線を浴びながら、心労のあまり飯ものどを通らないといった呈で机に突っ伏している竜洞にそう切り出した。
「聞いてあげる」
「当然失敗したときの罰ゲームは覚悟しなきゃならん」
「もったいつけてないで、早く言いなさいよ」
「仮入部全部チャラと今後の勧誘活動の禁止を条件に勝負をもちかける」
「ふうん、で、その勝負に負けたら、あたしはどこかの部に入るっていうわけね。かなりリスキーだけど悪くないわね、で、どんな勝負をす……あ!」
「おそらくお前さんが、今、閃いた通りだ。明日の仮入部はどこだ?」
「山岳部! あんた、味の素でもなめた? 上出来じゃない! 生徒会室に行ってくる!」
言うが早いか。竜洞はづきは教室を飛び出していた。三十秒後には生徒会室の扉をぶち破らんばかりにノックしているだろう。
おいおい、おしとやかキャラはどうした? 三中出身者以外は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてるぞ。ちなみに俺が味の素を使うのは卵かけご飯のときだけだ。
説明しておこう。つまりこういうことだ。明日の山岳部での仮入部で勝負を申し出る。種目はフリークライミング。元締めは生徒会。賭けるものは竜洞はづき自分自身。
かつて名門山岳部を擁していた我が校には、クライミング練習用の人口の岩場が設置されている。クライミングウォールとか人工壁とかいわれているやつだ。そこで山岳部代表と岩登り競争をする。竜洞が勝てば明後日から先の仮入部を中止にしてもらい勧誘活動もやめてもらう。負ければ、生徒会主催の抽選会を行い、当選した部に無条件で入部する。
竜洞はづきにとってクライミングは、他のどのスポーツ勝負よりも分があるだろう。俺が三時間かけてよじ登った穴をわずか数秒で登るくらいだからな。
まあ、俺なら大人しく二週間かけて全部のスケジュールをこなしてから、全てをお断りするという最も安全な方法を取るが、あいつは、その二週間が我慢できないというのだから、リスクを負うのも、いた仕方がないだろう。
昼休みの終了を知らせるチャイムと同時に竜洞が意気揚々と帰ってきた。どうやら交渉は成立したらしい。俺に向かってVサインを作り、名前に違わない真夏の空を思わせる笑顔をほころばせた。
おいおい、おしとやかキャラはどうした。
本人もそれに気が付いたらしく慌てて手を後ろに組み、上体をすこしだけ傾けるポーズに訂正した。三中出身の女子からクスクス笑いが漏れる。
竜洞、明日の勝負の後も同じ笑顔になれたらいいな。
「ルールを説明します。種目はトップロープスピードクライミング――」
遠くに稲光が見える曇天の放課後、竜洞はづきのいずれかの部活への入部と自身の自由を賭けた勝負が始まろうとしていた。
グラウンドの西隅にあるコンクリートとFRPでできたの人工壁の周りには見物に来た生徒教職員で人だかりが出来ていた。
最前列には、首からIDカードみたいなものを下げた連中が鳴り物を鳴らして竜洞に声援を送っている。こんなグランドの隅っこにこんなに人が集まる事なんて、開校以来のことだろうし二度とないだろうな。
人工壁を背にして、バインダーにはさんだ書類をめくりながら竜洞はづきとの間で取り交わされた勝負の条件を読み上げている女生徒会長をよそに、夏期体操着にクライミング装備を身に付けた竜洞が入念にストレッチをしている。
すぐ脇では山岳部の代表が、準備運動のつもりなのか手足をぶらぶらさせて余裕の表情を作っていた。
山岳部代表の自信の表情の理由が何処にあるのか理解できないが、すでに勝負が決しているかのような振る舞いだった。
俺はこういうやつが好きではない。と、いうかむしろ嫌いなので竜洞には是非ぶっちぎりで勝利して欲しいと思った。
「――以上が、竜洞さんと我々が取り決めた条件です。異論はありませんね」
竜洞と山岳部代表、その後ろにいる各部活の代表が頷く。
「では今回の勝負は、このクライミングウォールを登り切り、ゴールにあるフラッグを先取した方を勝利者とします。墜落した場合は失格、相手の勝ちとなります。いいですか?」
人工壁の周りに集まったギャラリーが勝負開始への期待に固唾を飲んでいた。
このとき、俺は何処にいたのかというと、野次馬の中ではなく、竜洞はづきの五十センチ左脇に竜洞と同じクライミング用のハーネスを身につけ、ロープが滑って起きる摩擦に耐えるように作られた懸垂降下用の手袋をはめて立っていた。
つまり、俺は竜洞はづきと長いロープで繋がっていた。
ああ、全校生徒教職員の突き刺さるような視線を一身に浴びてな。
なんでこんな事になったのか?
それは、今回の勝負に採用された種目がフリークライミングの中でも「スピード」という完登する速さを競うもので、それには登攀者の安全確保のためにビレイヤーという命綱を登攀者の動きに合わせて保持、操作し、墜落などの緊急時に安全を確保する補助者が必要なのだそうだからだった。
まあ、ボクシングでいうところのセコンドみたいなものだろうか。
フリークライミングには他にも一人で出来る種目があるが、そっちはせいぜい五メートルくらいまでの高さのものを登るものなので、おそらく山岳部の連中が少しでも自分たちに有利になるように、女である竜洞のスタミナ切れを狙って、十数メートルも登らなければならない今回の種目を選択させたのだろう。
「あんたが言いだしっぺなんだから、付き合ってもらうわよ」という竜洞の一言で、俺がそのビレイヤーってのにされてしまったわけだ。
「あたしが墜落するなんて、太陽が西から上ってもあることじゃないから、本当は突っ立ってるだけでもいいんだけど、それじゃあ山岳部の皆さんに失礼だから、形にはなっててもらわないとね。さあ、特訓よ!特訓!」
新体操部での仮入部の後、家からもって来た二人分のクライミングの装備を担いで「ワルキューレの騎行」を口ずさみながら、人工壁があるグラウンドの端へと大股で歩く竜洞の後姿は入学式以来、初めて見る楽しげな様子だった。
あいつの言うところの特訓がどんなものだったかは、俺の体についた縛縄痕が物語っているが、それを晒すと特別な趣味の人間だと勘違いされそうなのでやめておこう。
おかげで登攀者が墜落したときの制動のかけ方は理解したが、果たしてその時にその技術を使えるかは甚だ疑問だ。理解するのと身に付けるのは違うからな。まあ、俺の出番はないだろうしあっては困る。俺はお飾りでいい。
「双方準備いいですね。位置について」
竜洞はづきと山岳部代表が人工壁の下につく。俺は壁から数メートルはなれたところでロープを持つ。
「よぉーい」
ロープを掴んでいる手が、汗で湿り気を帯びる。俺が緊張してどうする。
「スタートっ!」
竜洞はづきと山岳部代表は、ほぼ同時に壁面に取り付いた。竜洞は猿のようにスルスルと登ってゆく。俺は竜洞の登って行く早さに遅れがちにロープを手繰る。あっという間に山岳部代表との差は二メートルにも達した。
後、十秒後には竜洞がフラッグを取って勝負は終わることだろう。
ゴールのフラッグは人工壁のてっぺん、ねずみ返しに突き出した所ではためいている。昨日の特訓のときに自分も練習しようと言って、平坦な道を歩くよりも簡単にそこにたどり着き、片手でオーバーハングにぶら下がって笑っていた。
竜洞がフラッグを奪取するまで、あと二メートル。山岳部代表との差は三メートルまで開いていた。
「ふふっ」
隣から聞こえてきた微かな笑い声に俺は山岳部のビレイヤーの方を向く。 俺の視線に気がついた山岳部員は慌てて目をそらす。
「はづき、気を付けろ! なにかあ……」
俺がはづきに警告を発したのと、やつが掴んだはずの手がかりがオーバーハングの壁から外れたのは同時だった。
はづきの体が空中に投げ出される。見物人たちから悲鳴が上がる。
ドスンと鈍い音を立てて、さっきまで竜洞が掴んでいた手がかりが地面にめり込んだ。
はづきは落下しない。ぶらりんと宙吊りになっただけだった。代わりに、俺が踏ん張らなければならなかったが。
はづきの体に装着されたハーネスに繋いだロープが、人工壁の一番上に固定された支点を介して俺の体を引きずろうとする。
腰を落し気味にしてその力に逆らい、昨日の特訓で教えられたようにゆっくりとロープを緩めていく。
山岳部が壁の手がかりに何らかの細工をしたのだろうか?
それを詮索するのは後回しにするとして、今ははづきを安全に地上に降ろすのが先決だ。
腕をだらりと下げ、俯いたはづきの表情は長い髪の毛のせいで見えなかったが、見えなくてよかったと思う。鬼よりおそろしい形相をしていたに違いないからな。
と、ロープを繰り出す俺の手に、ガツガツという妙な手応えが伝わってきた。
嫌な感じがする。
ロープを繰り出す手を早める。はづきはようやく半分まで降りてきた。
金属が折れる音がして、俺の手に伝わっていたはづきの体重が消失する。
「くそっ!」
支点を固定していたボルトが折れるか抜け落ちたのだろう。はづきがフリーフォールを始めた。
俺はロープを放り出し、はづきの落下予想地点に向かって駆け出していた。
しょうがないじゃないか、反射的に体がそう動いていたんだ。
「間に合えッ!」
俺は足からはづきと地面の間に下に滑り込む。
俺の視界から突然あらゆる色が奪われ、音が消えた。全ての物の動きがスローモーションになる。ただ、落下してくるはづきだけに色彩が施されていた。
はづきの髪の毛一本一本、体操着の皺のひとつひとつがはっきり目に映る。
はづきがゆっくりと俺の方を向く。
その目は微笑んでいるように見えた。
あれ? 前にも一度こんなことあったっけ。この間の河原でじゃなくて、もっともっと昔に。
――あれは――――。
ドスン! 鈍く重い衝撃と猛烈な吐き気の襲われる。俺の細い腕に支えきれないはづきの尻が俺の腹を打撃したのだった。
「ぐほぁああっ!」
はづきはどうやら無事なようだった。俺の腹の上に尻餅をついている。
「うううううう……ん」
よろよろと立ち上がろうとするはづきの髪の毛が、俺の体に付けた金具に絡まっていた。
「あ、ちょっと待て、髪の毛がビレイに絡まってる。今ほどくから……」
はづきの髪の毛の端をつかんで金具から外そうとする。
俺の声が聞こえなかったのか、はづきは立ち上がろうとする動作を中止しようとしない。
「だからちょっと待てって!おい、髪の毛っ!」
不思議なことが起こった。はづきは金具に絡まった髪の毛を置きざりにして立ち上がってしまったのだ。ほんと、置き去りが好きなやつだ。
んなに――――っ!
はづきは寝ぼけているように、腰に手を当て頭をポリポリと掻いている。きょときょとと辺りを見回す。自分の周辺を確認しているようだ。
野次馬たちも、今なにが起こっているのか把握しかねて水を打ったように静まり返っている。
「んうー。あ、あんた大丈夫だった? んあ? あんたの股間にあるそれって……」
はづきの寝ぼけ眼が次第に正気を取り戻すと同時に、俺の股間の上に置き去りにした現実にみるみる瞳孔が小さくなっていく。
「あ? ああっ? あああああああ――――!」
「うわああああああっ!」
髪の毛が脱げた頭を抱えてはづきが叫ぶ。つられて俺も恐怖の叫びを上げてしまった。
「あたしの、あたしのぉ――っ!」
はづきの怒りの程を象徴するように背後に稲妻が走り、雷鳴が轟く。なんてタイミングのよさだ。
暴走モードの人型決戦兵器のようにだらりと腕を下げ、怒紅色に瞳を染め、はづきは俺を見下ろす。
稲光に照らせれて、マッシュルームのようなおかっぱの赤毛がよりいっそう真っ赤に見えた。
はづきは俺の股間から、それまで頭に載っていた偽物の髪の毛を、腰の金具に絡まった部分がブチブチとちぎれるのも構わずひったくる。それを頭に再搭載しようとするが、目の前まで持ち上げたところでしばし眺める。
「――やめた」
ポソリとつぶやいたはづきにそこにいた全員が戦慄する。
「やめた! やめた! やめたぁーっ!」
はづきはヅラを俺の股間めがけて叩きつけ叫ぶ。稲妻と雷鳴が呼応する。 俺の股間にも痛みの電撃が走る。
ヅラには固定用の金具がついているのだ。それが、運悪く俺の急所を直撃したのだった。
「きゃああああっ、はづきさまぁー!」
股間のえもいわれぬ痛みに悶絶している俺の耳に黄色い歓声が聞こえる。
「あああぁん、素敵ぃ――!」
「はづきぃっ、待ってましたぁっ!」
なんだ?はづきのヅラが外れた事でなにが起こっている?
「あいつは、確かに男にモテていたが、女にはとんでもなくモテてたんだ」
いつの間にか俺の脇に立っていた中西が教えてくれた。
はづきはギョロリと山岳部をにらみつけ、彼らを威嚇し、そのまま首を回し生徒会長を見据える。
生徒会長はビクビクしながらも、威厳を失うまいとはづきに話しかける。
「り、竜洞さん今回の勝負は、思わぬアクシデントが発生したことですし……」
「あたしが、どこかに入れば、誰からも文句は出ないわよね」
はづきは生徒会長がなにかを言い終わる前に言葉をかぶせ、凶悪なまなざしでぐるりと見回す。
生徒会長を始め、各部活の代表は壊れた人形のようにかくかくと首肯した。
「なら、どこには入るか、今ここで決めるわ」
大股で、野次馬の方に歩き出す。びびった一人が後ずさり、つまづき尻餅をつく。
将棋倒しに野次馬がこけてゆく。
「ジャマ!どいて」
折り重なった野次馬たちをかき分け、下敷きになっていた一人の女生徒を掘り出した。
「あ、あいたたた。あり、ありが……」
「この人が所属している部に入るわ!」
はづきは高らかに宣言し、ヅラを股間に叩きつけられた痛みに顔をゆがめている俺を振り向いた。
「あたしの部活に付き合ってもらうわよ! 文句があるなら、自分に言いなさい!」
やっちまったか俺? 掘っちまったか俺?
ついに、最悪の墓穴を自ら掘っちまったのか?
こうして、竜洞はづきの迷走がド派手に幕を開けたのだった。
(続く)
2014/4/1 掲載開始
2014/4/6 欠落部分補完 改行、誤字等修正