欠片へと至る物語
その夜。
空に、一つの流れ星が降った。
薄雲が覆う夜空は月すらも煙らせて、茫とした輝きを宿している。
そんなひどく翳った空の中を、小さな光が弾かれたように流れた。
長い輝跡ではなかった。ふと流れ、指先でこすったように尾を引いて消える。
その輝きは小さく、瞬きは短く、雲に隠れて、誰もそれを見留めることはできなかった。
ただ一人。それが落ちてきた庭園で埃を掃いていた、燕尾の胴衣の男を除いては。
男が、庭園に落ちてきたそれを見つけたのは、ほんの些細な偶然だった。
淡い輝きを放つ、欠片とすら呼べないような星銀の粒。
男は手にしていた箒を置くと、その粒を手巾に乗せた。
それは、小さな小さな、どこからか切り取られ、或いはこぼれてしまった物語の残滓。
否、残滓にすらなれなかった共鳴音。ありえたかもしれないというだけの物語の幻視。
はじまりとおわりの集う最果ての図書館。
ここには、こうした星銀の塊がたびたび落ちてくるのであった。
男は輝きを天に透かし、粒の形を検めた。
いびつで、どこか偽物めいた安っぽい輝き。
けれど、浮かび上がったその感想を、男は恥じた。
彼の師匠、語り部の老人のことを思い出したからだ。
誰もが好む、大きくて偉大で美しい物語だけではなく、どこにでもあるような取るに足りない物語をも、愛しげに楽しそうに語る姿。
彼が滑稽な節回しと小気味よい韻で語りだせば、どんな物語の欠片とて、生き生きと輝きだす。
男は、そんな師のようになりたくて、この場所に辿り着いたのだ。
なればこそ。
偽物であろうとも。いびつであろうとも。拙くあろうとも。
この、欠片にすらなれぬ粒を軽んじてよかろうはずがない。
「……聞かせてもらえますか、貴方の物語を。師匠には及ばぬ身ながら、私の舌が口が、代わりにそれを紡ぎましょう」
碧玉の原石を磨き上げるような恭しさで、男は粒に触れた。
粒は恥らうように、銀鈴に似た答えを返す。
それは鋼の心に蒔かれた、一つの種子の物語だった。
◇ ◇ ◇
――身体五殺。呼吸を殺す。足音を殺す。鼓動を殺す。脈動を殺す。視線を殺す。
――心魂五殺。喜びを殺す。怒りを殺す。哀みを殺す。楽しを殺す。愛しを殺す。
一族に伝わる隠形。
それはつまるところ、己の心身の揺らぎを殺し「動く無」となることに尽きます。
無に気配はありません。それは「そこに無い」ものですから。
この完全なる隠形、心身十殺こそが、わたしたちの一族を最強の暗殺者たらしめていました。
私の姉は、齢百に足らぬ時点で、十殺を会得したと聞きます。
にも関わらず、わたしは。
漏れでた苛立ちに、対象が耳を敏感に動かしました。
気づかれたのでしょう。身体五殺に問題はありません。
気取られたのは心魂五殺、感情の揺らぎでした。
なぜ、いつも同じこと、同じところで自分は間違ってしまうのでしょう。
歯噛みをしながら地を蹴り、相手の回避行動に備えて針を構えました。
しかし、対象はこちらの気配を読み取ったにも関わらず、その場を動きませんでした。
――なぜ?
逡巡。躊躇。そんな言葉にならないほどの、本当に些細な感情のほつれ。
それを振り払い、対象へと針を死点へと突き立て――。
その瞬間、視界に入ってきたのは、対象の背後に隠れていた小さな命。
――針が、逸れました。
当然、絶息には至りません。
足を傷つけ、動きを封じて身を翻し、三撃目にしてようやく必殺を達成しました。
動かなくなった親にすがるように身じろぎをする仔兎を見下ろして、わたしはため息をつきました。
針による蜜の収奪。
羽音もなく近づき、花を狩る鋼の蜜蜂。
それこそがわたしの一族につけられた称号。
わたしが目指し、届かないモノの名でした。
◇ ◇ ◇
姉が憧れでした。
最強の暗殺者と呼ばれる一族、「鋼の蜜蜂」の中においてなお、数世代に一と呼ばれる才。
力は血に宿ると、女王は語ります。
ではなぜ、血を分けた妹であるわたしには、姉のようになれぬのか。
姉は、「おまえは優しすぎるからだ」と言いました。
女王は「おまえは躊躇いすぎからだ」と叱りました。
優しさのなんたるかをわたしには理解できませんが、女王の言葉は正しいのでしょう。
わたしは幼い頃から「なぜ」の多い子供でありました。
昔から、わたしはいつもそうでした。
他の子供たちが「そういうこと」として飲み下すことのできる事実を、わたしの喉は、いつだって違和として感じてしまうのです。
余分な思考は反射を鈍らせ、判断を躊躇わせます。
これは、戦闘者として致命的な欠点でありました。
死した兎。生き延びた仔兎。
なぜ、この子は逃げないのでしょう。
もう親兎が動くことはないのに。ここにいても、ただ親と共に殺されるだけなのに。
いや、単に死という事実を理解できないのでしょうか。
いつもならば簡単に答えが出ない「なぜ」。
けれど、この問いにはすぐに回答が示されました。
仔兎の後ろ足には、骨にまで達するほどの傷。
走ろうにも、この子はそれができなかったのです。
なぜ、自分は針を収めているのでしょう。
親を失った仔兎が一匹で野を生きることなどできません。なれば、共に殺すことこそ、その死がわたしの技の糧になる分有意義であるというのに。
なぜ、わたしは仔兎が足に負っていた傷口に、薬草など練りこんでいるのでしょう。
ここでコレを助けることになど、何の意味もありはしないというのに。
意識が「なぜ」の波に翻弄されている間に指は勝手に動き、気がつけば自分は仔兎の傷の手当を終え、懐に隠していました。
なぜ。
答えが出ることはありません。
ああ。きっと、だからわたしは弱いのでしょう。
◇ ◇ ◇
その夜。
私は、女王に呼ばれました。
まだ一介の侍女見習いでしかないわたしですが、姉のおかげで、こうして女王から直々にお言葉を賜ることも少なくありません。
もっともそのお言葉の十に九は叱責の類ではあるのですが。
けれどその日、わたしを出迎えた女王は、満面の笑みを浮かべていました。
「今朝方貴様を森で見かけたぞ。日々の錬業に専心するのみならず、朝晩に錬を隠れて行っていたとは。今は力及ばずとも積み重ねた錬は必ずや汝を鋼とするだろう」
わたしは耳を疑いました。
女王は結果こそ重んじる現実主義者。
結果の過程である錬をもって褒めるなど、そんな微温いことは行わぬ人のはず。
「その労をねぎらい、馳走を取らそう。皿を持て」
香ばしい肉の焦げる匂い。
そこで、わたしは女王の意図を理解しました。
「巣に何故か仔兎が紛れ込んでおった。しかも、貴様の家にだ。歴代の蜜蜂が錬たゆまぬ同胞に褒美を与えたのであろう。誠に喜ばしい」
仔兎のロースト。その後ろ脚には、骨まで達するほどの傷。
なぜ。なぜ。なぜ。
浮かぶのは、女王の行動に対する疑問ではありませんでした。
まったく理にかなっている女王に、怒りと動揺とを感じている自分の心に対しての疑問。
女王の行動は正しいのです。それはわたしにもわかっています。
この兎が人間だったとしたら、親を殺して子を助ければ子がいつか復讐を誓うでしょう。
そうでなくとも、情にて人を助けるなど暗殺者にはあってはならぬ所業。
親を殺すならば子をも食らう。それこそが鋼の蜜蜂のあり方。
だから、殺さないと。
自分の中の、なぜを。
心を鋼にするために。
姉の背中に近づくために。
「さあ、残さず喰らうがいい。ソレは貴様の血肉となり、最強の血を目覚めさせることになろう」
蜜蜂にとって、女王の言葉こそは絶対。
わたしは震える指で、ナイフとフォークを手にとりました。
「迷うな。期待をするな。予想しうる最悪な事態を常に想定せよ。その中でも揺るがぬ鋼となれ」
女王は微笑みを崩さぬまま、わたしの食事を最後まで眺めていました。
◇ ◇ ◇
空を、見上げておりました。
薄雲が覆う空は暗く、茫と滲んだ輝きを宿しています。
頭の中を、この星よりも多い「なぜ」が曇らせていました。
喉をせりあがる熱を無理やりに革袋の水で飲み下し、冷えていく体をそのまま森に横たえていました。
いつまでそうしていたでしょう。
心の臓まで凍ててしまいそうな身体が、突然温もりに包まれました。
厚いマントをかけられたのだ、と気づいたのは、その一瞬後のことでした。
「風邪を引くよ」
聞いたことのない声。
身を起こすと、そこには黒いローブを着た男が立っていました。
男は、私の足元にあった小さな石を指差すと、わたしに尋ねました。
「墓だね?」
なぜ、そんなことがわかったのでしょう。
女王から与えられた夕餉の最中、一本だけ抜き取った骨を埋めた場所。
しるしとして、ほんのちいさな石を置いただけの粗末なもの。
森を歩いていても、それが墓だなどと、誰にも気づかれないように作ったのに。
「君が、友を亡くした顔をしていたから」
男はわたしの隣に座り込むと、指を二度振るいました。
すると、蛍のような輝きが墓石のまわりを漂い、そして天へと昇って消えていきました。
きっと、彼の氏族における弔いの儀式なのでしょう。
友達ではない、とわたしは答えました。
わたしとアレはほんのすれ違うように出会い、すれ違うように別れただけ。
友と呼ぶように深い関係になどなりようがないと。
「それじゃあ、なんで君は、泣いているんだろうね」
わたしは、慌てて頬に手をやりました。
水浴びの後のような濡れた感覚。ああ、夜空が滲んで見えたのは、わたしの涙のせいだったのです。
訳が分かりませんでした。
そんなこと、わたしが知りたいくらいです。
手など伸ばさなければよかったのです。期待などしなければよかったのです。それなのに。
なぜ、わたしは仔兎を助けてしまったのでしょう。
なぜ、錬で獣を殺すのには心が痛まぬのでしょう。
なぜ、この仔兎の死がこんなに苦しいのでしょう。
なぜ、わたしはこんなに容易く揺らぐのでしょう。
なぜ、仔兎とわたしは会ってしまったのでしょう。
なぜ、わたしは迷い、期待してしまうのでしょう。
なぜ、心情を殺しきることができないのでしょう。
わたしは、名も素性も知らぬ男に、あふれるような「なぜ」を叩きつけました。
杖持つ魔術師は知恵あるものだと聞いたからかもしれませんが、何より里の民でないということが、わたしの口を軽くしたのかもしれません。
男はしばしわたしの言葉に耳を傾けていましたが、やがて、ぽつりと言葉を吐き出しました。
「僕も、それを知りたいんだよ」
魔法で火を起こした男の横顔は、さほど齢は重ねていないようなのに、深く皺が刻まれて、ひどく疲れたように見えました。
「世界はいつだって残酷だ。期待しなければ絶望しない。求めなければ失わない。執着しなければ揺らがない。僕はそれを賢さだと信じてきた。
けれど、あの男は言った。期待しろと。期待は馬鹿のすることだ。だが、期待するのを諦めるのは、唾棄すべき所業だと。彼女は笑った。期待する限り、帳尻はいつか合うのだと」
ゆらゆらと風に煽られる焚き火のように、とつとつと言葉が紡がれていきます。
「下手な賭博のようなものじゃないか。負けが込んでも、いつか帳尻が合うことを信じてチップを張り続けるなんて。
でも、そんな馬鹿みたいな生き方を、あの二人は心底嬉しそうにやっていたんだ。こっちが、羨ましくなるくらいに。
そんな生き方もありなんじゃないかって、錯覚してしまうくらいに」
男の言っていることは抽象的で漠然としていて、わたしにはほとんど何がなんだか意味がわかりませんでした。
もしかすると、男自身もとりとめがあって言葉を口にしているのではなかったのかもしれません。
「なのに、二人は逝った。本当に帳尻があったのか、教えてくれないまま。世界に期待してしまうっていう、厄介な種だけ人の心に蒔いて」
けれど。彼が、わたしと似たような傷を負っているのだと、なぜか思ってしまったのでした。
なら、これからどうするのですかと、わたしは男に問いかけました。
「……考えるよ。それくらいしか、できることはない。答えがでるともわからない。ただ、あの馬鹿はこうも言っていた。
何千という繰り返しの中に、数多の血が流れる中に、もしかしたら奇跡のような出会いがあるかもしれない、と。そいつを縁に、生きてみるとするさ」
男は力なく笑うと、わたしの頭を大きなてのひらで撫でました。
「すまないね、お嬢さん。答えを導くどころか、これじゃあ単に愚痴を聞いてもらっただけだ」
わたしは慌てて首を横に振りました。
答えの出ない「なぜ」に苦しむ大人。
回答はもらえなかったけれど、彼が漏らした弱さは姉や女王の見せてくれない生臭い姿で、なぜかわたしは、それを見て安心したのです。
「世界には「なぜ」が多い。「なぜ」は寂しがり屋で、すぐ新たな「なぜ」を連れてくる。目を瞑ってやり過ごすこともできるが、それと付き合っていくのもまた、一つのやり方だろう。
僕や君のように、それが気になって仕方のない性質の輩は、面倒でも「なぜ」と仲良くしていく必要があるのだろうさ」
自分に言い聞かせるような男の言葉。いや、真実それは、わたしに聞かせる意図で放たれたものではなかったのでしょう。
「祈ろう。いつか帳尻が合うことを。愚かしくも期待を持ち続けることへの祝福を。答えなき「なぜ」との友情を」
けれど、そのせりふは、確かにわたしの胸の裡に刻まれたのでした。
立ち上がった男に、わたしは名を問いました。
きっと、彼とわたしは、もう二度と会うことはないと思ったからです。
男は恥ずかしそうにわたしから視線を逸らすと、囁くように言いました。
「名乗るほどの名なんてないさ。賢き者なんぞとおだてられながら、友達一人救えなかった、ぽんぽこぴーな道化だよ」
この出会いは、時を経る上で記憶の底に沈んでしまったけれど。
振り返って思えば、そのときの言葉は、種となってわたしの心に根を張っていたのでしょう。
けれど、そのことに気づくのは、遥か先。
最後まで心を殺せず、十殺に至れなかったこの身が出した答え。
紅玉色の太陽に照らされて、わたしという物語が芽吹いたときのことになるのでした。
◇ ◇ ◇
物語を語り終え、男は粒から指を離した。
聞き手のいない、夜の虚空に放たれて消えていく白い息のような言葉。
けれど、一つの物語を紡ぐ介添えができたことに、男は微かな誇りを感じていた。
粒がきらめき、そして急速に輝きを失っていく。
ある程度の大きさの物語の欠片であれば、風化することもない。だが、小さなものは違う。
この粒はきっと、誰かに読まれるまではとの一心で風化に抗っていたのだろう。
男は、砕けて風に溶けていく粒を眺めながら、先ほどまで触れていた指の熱を思い出していた。
それは、小さな小さな、どこからか切り取られ、或いはこぼれてしまった物語の残滓。
否、残滓にすらなれなかった共鳴音。ありえたかもしれないというだけの物語の幻視。
男は箒を手にとると、足早に自室へと帰っていった。
インクは充分残っていたろうか。紙に余裕はあっただろうか。
まだ未熟な男には、伝え聞いた物語をうまく文章にできるとは思えない。
断片的で、整合性も盛り上がりもないまま、凡庸なものと成り果てるだろう。
それでも、男は躊躇わない。
なぜなら、それが唯一、物語の粒から受けとったものへの感謝を示す手段であったからだ。
その夜。
大陸に、一つの流れ星が降った。
薄雲が覆う夜空は月すらも煙らせて、茫とした輝きを宿している。
そんなひどく翳った空の中を、小さな光が弾かれたように流れた。
長い輝跡ではなかった。ふと流れ、指先でこすったように尾を引いて消える。
その輝きは小さく、瞬きは短く、雲に隠れて、誰もそれを見留めることはできなかった。
ただ一人。それが落ちてきた庭園で埃を掃いていた、燕尾の胴衣の男を除いては。
間もなくして、いずことも知れぬ図書館の書架に、殴り書きにも似た勢いで書かれたメモの束が収められた。
それは、いびつでどこか偽物めいた、欠片に至る物語だった。