前編
前編
彼が気づいたとき、前方には大きな河がゆったりと流れていた。彼は今、その岸辺の草むらにいた。対岸は霧がかっていてよく見えなかった。また、岸には小さい波がよせていた。それでも河とわかったのは、ゆったりと流れがあったのと、右側、つまり上流に白い橋がその河にかけられていたからだった。先までは見えないがそれはたしかに橋の形をしていた。
周囲を見渡しても動くものはといえば、その河の流れだけだった。そしてここは、とても静かなところだった。それにしても何で今自分がここにいるのだろう。そして自分はさっきまで何をしていたのだろうか。しかし、思い出そうとしても今のこの景色のように頭の中も霧がかっていてはっきりと思い出すことができなかった。とりあえずこれからどうするか考えたが、あまりいい考えが浮かばなかった。そもそもここにいること自体、彼にはさっぱりその理由がわからなかった。しかし、こんな状況でも好奇心という、時には厄介な危なげな感情が湧いてきた。そしてこの場所がどこなのか何か手がかりになるようなものを探そうと思った。そして彼はその橋のほうへと歩き始めた。
その橋は透き通るような白い色をしていた。石英か長石が主な白い大理石のようなものでできているような、冷たい感じをうけた。幅は10メートルはあるだろうか。手すりが腰あたりまでしかなかったから、橋からの眺めは抜群に見えるはずだったが、残念ながらこの薄い霧のために上流も下流も前方も50メートルぐらい先までしか見ることができなかった。さてこれからどうするか? この橋を渡るべきか、渡らずべきか…。
結局彼はしばらくその橋のたもとに腰をつき、考えることにした。もしその橋の対岸がよく見えていれば、おそらく彼は迷わずに歩いていったかもしれない。しかし、おそらく橋だろうと推測するしかない状況で、前方がはっきりと見えない今の彼の状況では、先ほどの好奇心よりも不安のほうがこの場では若干だが勝っていた。だから彼は二の足を踏めずにいた。
どのぐらいたっただろうか。20分は経ったような気もしたが、あるいは5分ぐらいしか経っていないのかもしれなかった。時間の感覚もあまりない。一体どうしたっていうんだ。そう彼は自問した。それから彼は立ち上がって背伸びをした。そして周囲に目を向けた。すると、今 橋を背にして反対側から人がゆっくりと歩いてきた。彼はその人が来るまでそこでじっと待った。やがて来たのは老人だった。80代ぐらいだろうか。
「こんにちは」
と彼はその老人に向かって声をかけた。そして、ここに来て始めて自分が声を出したことに気づいた。
「すみません。これからあなたはこの橋を渡るつもりですか?」
と彼は聞いた。すると老人は答えた。
「ああ、そうだよ。キミもついてくるかね。」
「実はそれを考えていたところなんです。この先には何があるんですか?」
と彼はまた老人にきいた。
「こことは違うとこじゃよ」
とずいぶん変な答えを返してきた。
「それはそうでしょうね、僕が聞きたかったのは…」
すると彼の質問をさえぎるかのように、老人が口を開いた。
「キミはまた随分と若いな。いくつだね?」
「え…っと、33です」
「そうか。なんでまたこんなところに来ることになったんだね」
と今度は老人が彼に質問をしてきた。
「それが…その、自分でも、よくわからないんです」
「ああ、気づいたらここにいたわけだね」
「ええ、そうです。その通りです」
「それならば、おそらくキミの探している答えはこの橋の先にあるだろう」
と老人は教えてくれた。
「どうするかね。わしと一緒にこの橋を渡るかね? それともここに居続けるかね?」
ついに彼は決意した。
「ええ、僕も一緒に行きます」
それから二人は、その橋を渡っていった。
それからようやく対岸に着いた。対岸の橋の終わりには、アーチがかかっていた。それを二人はくぐった。
「大きな河でしたね」
「ああ、そうじゃな」
「なんて河なんですか?」
と彼が聞くと、
「キミはこの河が何か知らないで渡ったのかね?」
とその老人はちょっとびっくりしたようだった。
「ええ、で、この河の名前は?」
「人が最後に渡る河だよ」
「最後に渡る河? なんです、謎かけですか?」
「まだ、わからないかの?」
「最後に渡る河ねぇ…」
「まさか、三途の川じゃあるまいし…」
それには、老人は黙っていた。
「…まさか、この河が三途の川なん…ですか?」
「ああ。そうじゃよ」
「何を…何を言ってるんですか…ハハハそんなわけ…やめてくださいよ。そんな縁起でもない」
「わしは、肺がんだった。医者から告げられたときはもう末期だった。あと半年の命だと宣告されたんだ」
「え?」
「それでも11ヶ月も持ちこたえたよ。たいしたものだと思わないかい。人は死の宣告を受けても生き続けていられる。しかも、それからの生活はとっても健康的な生活を送ることができたんだ。タバコも酒も止めた。毎朝散歩もしたよ。それまでならうっかり見逃していた、道端に咲いた小さな雑草の花も、隣の垣根のクモの巣が朝露に濡れて光っていたなんてこともみな見逃さなかった。何もかも新鮮に生き生きと目には映っていた。こんなこと、死の宣告を受けるまで気づきもしなかったことだ。世界は生命で満ち溢れているってことが、それまで毎日生活していて何で今まで気づかなかったのか…。けれどもそのことに死ぬ前に気づくことができたのだから、とりあえずは今は後悔はしていないよ」
「おれは…まさか……死んだのか!? なんで…こんなのうそだ。俺は信じないぞ。これは何かの間違いだ、そうだ、夢、夢に決まってる。そうだ、これは夢なんだよ。なぁ、じいさん、これは夢だろう!」
「……」
「なんで、黙ってるんだよ。じいさん、これは夢だって言ってくれよ!」
「……」
「なんで、夢って言ってくれないんだよ…。俺はまだ33歳じゃないか、なんでそれなのに、死んだりなんかしたんだ。まだやりたいことだってたくさんあったんだ。それなのに、なんで…」
「おそらくキミの死は突然だったのだろう。何か事故にでも会ったんじゃないかね?」
「事故? ……事故!? 事故! そうか、事故だ!! 思い出してきたぞ。前の日、同窓会でたくさん飲んで、帰る途中に、確か前方から車がこっちへ猛スピードでつっこんできたんだ。俺はそのとき避けきれなかったのか…」
「そうだったのかい。それはお気の毒に…」
「なんてこった、酔っ払ってなければ、あんな車簡単に避けきれたものを…。ちくしょう、ちくしょー!」
彼は泣いた。しばらく泣き続けた。そしてその間老人は黙って、彼が泣き止むまでそばにいた。
「中編」へつづく…