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階段を降り続けているのに、一向に昇降口にたどり着かない。

作者: 冬至 柚
掲載日:2026/03/12

さっきから階段を降り続けているのに、一向に昇降口にたどり着かない。


最初は、ただ自分がぼんやりしているだけだと思った。


放課後の校舎は静かだった。吹奏楽部の音も、グラウンドの掛け声も、今日はなぜか遠い。窓の外は薄い夕焼けで、廊下だけが青白く冷えて見えた。僕は鞄を肩にかけ直して、コンクリートの階段をまた一段、また一段と降りた。


三階から二階へ。

二階から一階へ。


そのはずだった。


けれど踊り場の窓の位置も、壁のひびも、手すりに貼られた「走らない」の黄色いシールも、何度見ても同じだった。二階へ降りたつもりで顔を上げると、また「三年二組」と書かれたプレートが見える。


おかしいな、と思った。


引き返してみようかとも思ったが、なぜか上に戻る気にはなれなかった。上の階はもう夕方ではなく、夜みたいな気がしたのだ。だから僕は、そのまま降り続けた。


靴底が階段を打つ音だけが、からん、からん、と校舎の奥へ落ちていく。


気づけば、窓の外の色が変わっていた。夕焼けだったはずの空は、墨を流したみたいな群青になり、その向こうに、見覚えのない鉄塔が立っていた。うちの学校の周りにあんなものはない。グラウンドも見えない。ただ、風に揺れる黒い草原みたいなものが、校舎の外いっぱいに広がっていた。


足を止めた。


そのとき、上から音がした。


こと、こと、こと。


誰かが、僕と同じ速さで階段を降りてくる音だった。


振り向いたが、踊り場には誰もいない。蛍光灯が一本、じじ、と鳴って、それきりだった。


僕は急に喉が渇いた。唾を飲み込む音がやけに大きい。心臓の音まで階段に響いてしまいそうだった。


「……誰かいる?」


声を出した瞬間、自分の声がずいぶん子どもっぽく聞こえた。


返事はなかった。


けれど、少し遅れて、上のほうで同じ言葉がした。


「……誰かいる?」


僕の声だった。


ぞっとして、僕は駆け出した。手すりを掴み、踊り場を曲がり、ほとんど飛ぶみたいに段を降りた。鞄が腰にぶつかる。息が切れる。なのに景色は変わらない。三年二組。黄色いシール。曇った窓。ひびの入った壁。


何階分降りたかわからなくなったころ、ふいに、踊り場に人影が立っていた。


女子生徒だった。


白いシャツに紺のスカート。うちの学校の制服。でも少し古い型で、今のものよりリボンが細い。肩までの髪はまっすぐで、顔は暗くてよく見えない。彼女は踊り場の窓を背にして、じっとこちらを見ていた。


「……先輩?」


思わずそう呼んだ。知らない顔なのに、なぜかその言葉が出た。


彼女は小さく首をかしげた。


「まだ降りてるの?」


声は静かで、教室で本を読むみたいに平坦だった。


「昇降口に行きたいんです」


そう答えると、彼女は少しだけ笑った気がした。


「みんな、そう言うんだよ」


みんな。


その言葉がいやに冷たく耳に残った。


「ここ、どこなんですか」


「階段だよ」


「そうじゃなくて」


「階段は、ちゃんと降りないと着かないの」


わけがわからなかった。けれど、彼女は当たり前のことを言っているようでもあった。夢の中みたいに、意味が通っているようで、どこか大事な部分だけ抜けている。


彼女は一段下りて、僕の横をすり抜けた。すれ違った瞬間、風のような冷たさが腕に触れた。思わず振り向くと、彼女は僕が来たほうへ、つまり上へ向かって、降りるみたいな足取りで消えていった。


上へ向かって、降りる。


それを見た瞬間、頭のどこかがひどく軋んだ。


僕は壁にもたれた。息が苦しい。何かを思い出しかけている気がした。


雨の日。

濡れた傘。

騒がしい昇降口。

友達に呼ばれて、振り返ったこと。

そのあと——


そのあと、僕はこの階段で、足を滑らせたのではなかったか。


手すりを飛び越えるようにして、鞄が宙に浮き、景色が逆さになって、誰かの悲鳴が遠くで割れた。額に走る衝撃。白く弾ける視界。ああ、と声を出す間もなく、何もかもが底へ落ちていった。


記憶がそこまで戻った瞬間、校舎の空気が一変した。


蛍光灯が全部いっせいに明滅し、壁の白さが剥がれ、階段の隅に黒い染みが浮かび上がった。手すりには赤錆みたいなものがにじみ、窓の外の草原には、無数の白い靴が半分だけ埋まっていた。上から聞こえていた足音も、一つではない。何人分もの、こと、こと、こと、という靴音が、ずっと前から僕を追い越し、すれ違い、どこかへ向かっていたのだ。


みんな、降りている。


昇降口を目指して。

もう着けないと知らずに。


喉の奥がひゅっと鳴った。


そのとき、階下から風が吹いた。冷たいのに、どこか土埃の匂いがした。見下ろすと、はるか下に、今までなかった光が見えた。


四角い明るさ。

ガラス戸。

傘立て。

昇降口だ。


ようやく着ける。

そう思って、僕は駆け下りた。足はもつれそうで、でも止まれなかった。光は近づく。ガラス戸の向こうに、夕方の校庭が見える。自転車置き場も、花壇も、見慣れた桜の木もある。


助かった。


最後の踊り場を曲がった、そのときだった。


昇降口に、ひとりの女子生徒が立っていた。

あの先輩だった。


今度は顔が見えた。


青白くはあったけれど、ちゃんと人の顔だった。どこか寂しそうで、けれど優しい目をしていた。彼女はガラス戸の前に立ったまま、首を横に振った。


「そこ、出ちゃだめ」


「なんで」


「あなた、まだ自分の名前を呼ばれてる」


耳を澄ますと、遠くから、かすかな声が聞こえた。


——春人!

——春人、わかる!?

——救急車!


その瞬間、世界がひび割れた。昇降口のガラスに亀裂が走り、向こうの夕景が水面みたいに揺れた。僕はようやく理解した。


あれは外じゃない。

あれは、戻れないほうの出口だ。


足がすくんだ。もし今、あそこを出たら、僕は本当にただの「校舎に残ったもの」になるのだろう。


「じゃあ、どうすればいいんですか」


僕が訊くと、彼女は少し考えるように目を伏せた。


「今度は、上って」


「上?」


「大丈夫。ちゃんと呼ばれてるうちは、上に行ける」


そんなの、さっきまで怖くて仕方なかったのに。


けれど、もう迷っている時間はない気がした。上のほうから、誰かの泣き声がする。先生の怒鳴る声。サイレン。現実の音が、薄い膜の向こうから染み込んでくる。


僕は頷いて、階段を振り返った。


そのとき、彼女が小さく言った。


「私も、昔、降り続けたんだ」


振り向くと、彼女は少し笑っていた。


「でも、私のときは、誰も呼んでくれなかった」


胸が痛んだ。何か言おうとしたけれど、言葉にならない。


彼女は手を振った。


「行って。忘れてもいいから」


僕は駆け出した。今度は上へ。ひとつ、またひとつ。階段は重く、空気は粘るみたいで、足に何人もの手が絡みつく気がした。それでも上った。途中で何度も、下の昇降口の光が恋しくなった。あそこへ行けば楽になれると、囁く声もした。


けれど上るたびに、僕の名前を呼ぶ声が近くなる。


——春人!

——目を開けろ!


最後の一段を踏んだ瞬間、白い光が弾けた。


気づくと、天井が見えた。

保健室ではない。病院の天井だった。


消毒液の匂い。カーテンの音。脇で、母さんが泣いていた。先生が安堵したように息を吐き、医者がペンライトを持って覗き込んできた。


「わかりますか? 名前は?」


僕は少しかすれた声で、自分の名前を言った。


それからしばらくして、学校に戻れるようになった頃、僕は一人であの階段を見に行った。秋の初めで、窓の外にはちゃんとグラウンドがあった。鉄塔も草原もない。黄色いシールは剥がれかけていて、壁のひびも、たしかにそこにあった。


階段の途中、踊り場の窓の下に、小さな花が供えられているのを見つけた。


古い、色の褪せたリボンが添えてあった。


通りかかった先生に、それとなく尋ねると、昔この階段で事故があったのだと教えてくれた。かなり前のことで、放課後、足を滑らせた女子生徒が亡くなったらしい。名前を聞きかけて、やめた。


聞いたところで、たぶん僕は、すぐに忘れてしまう気がしたからだ。


ただ、今でもたまに夢を見る。


薄暗い校舎。

終わりのない階段。

下のほうに見える、やけに懐かしい昇降口の光。


そして踊り場で、あの先輩が静かに立っている。


——まだ降りてるの?


その声で目が覚めるたび、僕はしばらく胸を押さえて天井を見る。窓の外に朝があることを確かめて、ようやく息をつく。


学校の階段なんて、昼間に見ればただの階段だ。

みんな急いで上り下りして、そこに別の世界が口を開けているなんて、誰も思わない。


けれど、夕暮れどきに一人で通るとき、僕は今でも少しだけ足を止める。


そして心の中で、名前も知らない先輩に言うのだ。


あのとき、呼び止めてくれてありがとう、と。


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