階段を降り続けているのに、一向に昇降口にたどり着かない。
さっきから階段を降り続けているのに、一向に昇降口にたどり着かない。
最初は、ただ自分がぼんやりしているだけだと思った。
放課後の校舎は静かだった。吹奏楽部の音も、グラウンドの掛け声も、今日はなぜか遠い。窓の外は薄い夕焼けで、廊下だけが青白く冷えて見えた。僕は鞄を肩にかけ直して、コンクリートの階段をまた一段、また一段と降りた。
三階から二階へ。
二階から一階へ。
そのはずだった。
けれど踊り場の窓の位置も、壁のひびも、手すりに貼られた「走らない」の黄色いシールも、何度見ても同じだった。二階へ降りたつもりで顔を上げると、また「三年二組」と書かれたプレートが見える。
おかしいな、と思った。
引き返してみようかとも思ったが、なぜか上に戻る気にはなれなかった。上の階はもう夕方ではなく、夜みたいな気がしたのだ。だから僕は、そのまま降り続けた。
靴底が階段を打つ音だけが、からん、からん、と校舎の奥へ落ちていく。
気づけば、窓の外の色が変わっていた。夕焼けだったはずの空は、墨を流したみたいな群青になり、その向こうに、見覚えのない鉄塔が立っていた。うちの学校の周りにあんなものはない。グラウンドも見えない。ただ、風に揺れる黒い草原みたいなものが、校舎の外いっぱいに広がっていた。
足を止めた。
そのとき、上から音がした。
こと、こと、こと。
誰かが、僕と同じ速さで階段を降りてくる音だった。
振り向いたが、踊り場には誰もいない。蛍光灯が一本、じじ、と鳴って、それきりだった。
僕は急に喉が渇いた。唾を飲み込む音がやけに大きい。心臓の音まで階段に響いてしまいそうだった。
「……誰かいる?」
声を出した瞬間、自分の声がずいぶん子どもっぽく聞こえた。
返事はなかった。
けれど、少し遅れて、上のほうで同じ言葉がした。
「……誰かいる?」
僕の声だった。
ぞっとして、僕は駆け出した。手すりを掴み、踊り場を曲がり、ほとんど飛ぶみたいに段を降りた。鞄が腰にぶつかる。息が切れる。なのに景色は変わらない。三年二組。黄色いシール。曇った窓。ひびの入った壁。
何階分降りたかわからなくなったころ、ふいに、踊り場に人影が立っていた。
女子生徒だった。
白いシャツに紺のスカート。うちの学校の制服。でも少し古い型で、今のものよりリボンが細い。肩までの髪はまっすぐで、顔は暗くてよく見えない。彼女は踊り場の窓を背にして、じっとこちらを見ていた。
「……先輩?」
思わずそう呼んだ。知らない顔なのに、なぜかその言葉が出た。
彼女は小さく首をかしげた。
「まだ降りてるの?」
声は静かで、教室で本を読むみたいに平坦だった。
「昇降口に行きたいんです」
そう答えると、彼女は少しだけ笑った気がした。
「みんな、そう言うんだよ」
みんな。
その言葉がいやに冷たく耳に残った。
「ここ、どこなんですか」
「階段だよ」
「そうじゃなくて」
「階段は、ちゃんと降りないと着かないの」
わけがわからなかった。けれど、彼女は当たり前のことを言っているようでもあった。夢の中みたいに、意味が通っているようで、どこか大事な部分だけ抜けている。
彼女は一段下りて、僕の横をすり抜けた。すれ違った瞬間、風のような冷たさが腕に触れた。思わず振り向くと、彼女は僕が来たほうへ、つまり上へ向かって、降りるみたいな足取りで消えていった。
上へ向かって、降りる。
それを見た瞬間、頭のどこかがひどく軋んだ。
僕は壁にもたれた。息が苦しい。何かを思い出しかけている気がした。
雨の日。
濡れた傘。
騒がしい昇降口。
友達に呼ばれて、振り返ったこと。
そのあと——
そのあと、僕はこの階段で、足を滑らせたのではなかったか。
手すりを飛び越えるようにして、鞄が宙に浮き、景色が逆さになって、誰かの悲鳴が遠くで割れた。額に走る衝撃。白く弾ける視界。ああ、と声を出す間もなく、何もかもが底へ落ちていった。
記憶がそこまで戻った瞬間、校舎の空気が一変した。
蛍光灯が全部いっせいに明滅し、壁の白さが剥がれ、階段の隅に黒い染みが浮かび上がった。手すりには赤錆みたいなものがにじみ、窓の外の草原には、無数の白い靴が半分だけ埋まっていた。上から聞こえていた足音も、一つではない。何人分もの、こと、こと、こと、という靴音が、ずっと前から僕を追い越し、すれ違い、どこかへ向かっていたのだ。
みんな、降りている。
昇降口を目指して。
もう着けないと知らずに。
喉の奥がひゅっと鳴った。
そのとき、階下から風が吹いた。冷たいのに、どこか土埃の匂いがした。見下ろすと、はるか下に、今までなかった光が見えた。
四角い明るさ。
ガラス戸。
傘立て。
昇降口だ。
ようやく着ける。
そう思って、僕は駆け下りた。足はもつれそうで、でも止まれなかった。光は近づく。ガラス戸の向こうに、夕方の校庭が見える。自転車置き場も、花壇も、見慣れた桜の木もある。
助かった。
最後の踊り場を曲がった、そのときだった。
昇降口に、ひとりの女子生徒が立っていた。
あの先輩だった。
今度は顔が見えた。
青白くはあったけれど、ちゃんと人の顔だった。どこか寂しそうで、けれど優しい目をしていた。彼女はガラス戸の前に立ったまま、首を横に振った。
「そこ、出ちゃだめ」
「なんで」
「あなた、まだ自分の名前を呼ばれてる」
耳を澄ますと、遠くから、かすかな声が聞こえた。
——春人!
——春人、わかる!?
——救急車!
その瞬間、世界がひび割れた。昇降口のガラスに亀裂が走り、向こうの夕景が水面みたいに揺れた。僕はようやく理解した。
あれは外じゃない。
あれは、戻れないほうの出口だ。
足がすくんだ。もし今、あそこを出たら、僕は本当にただの「校舎に残ったもの」になるのだろう。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
僕が訊くと、彼女は少し考えるように目を伏せた。
「今度は、上って」
「上?」
「大丈夫。ちゃんと呼ばれてるうちは、上に行ける」
そんなの、さっきまで怖くて仕方なかったのに。
けれど、もう迷っている時間はない気がした。上のほうから、誰かの泣き声がする。先生の怒鳴る声。サイレン。現実の音が、薄い膜の向こうから染み込んでくる。
僕は頷いて、階段を振り返った。
そのとき、彼女が小さく言った。
「私も、昔、降り続けたんだ」
振り向くと、彼女は少し笑っていた。
「でも、私のときは、誰も呼んでくれなかった」
胸が痛んだ。何か言おうとしたけれど、言葉にならない。
彼女は手を振った。
「行って。忘れてもいいから」
僕は駆け出した。今度は上へ。ひとつ、またひとつ。階段は重く、空気は粘るみたいで、足に何人もの手が絡みつく気がした。それでも上った。途中で何度も、下の昇降口の光が恋しくなった。あそこへ行けば楽になれると、囁く声もした。
けれど上るたびに、僕の名前を呼ぶ声が近くなる。
——春人!
——目を開けろ!
最後の一段を踏んだ瞬間、白い光が弾けた。
気づくと、天井が見えた。
保健室ではない。病院の天井だった。
消毒液の匂い。カーテンの音。脇で、母さんが泣いていた。先生が安堵したように息を吐き、医者がペンライトを持って覗き込んできた。
「わかりますか? 名前は?」
僕は少しかすれた声で、自分の名前を言った。
それからしばらくして、学校に戻れるようになった頃、僕は一人であの階段を見に行った。秋の初めで、窓の外にはちゃんとグラウンドがあった。鉄塔も草原もない。黄色いシールは剥がれかけていて、壁のひびも、たしかにそこにあった。
階段の途中、踊り場の窓の下に、小さな花が供えられているのを見つけた。
古い、色の褪せたリボンが添えてあった。
通りかかった先生に、それとなく尋ねると、昔この階段で事故があったのだと教えてくれた。かなり前のことで、放課後、足を滑らせた女子生徒が亡くなったらしい。名前を聞きかけて、やめた。
聞いたところで、たぶん僕は、すぐに忘れてしまう気がしたからだ。
ただ、今でもたまに夢を見る。
薄暗い校舎。
終わりのない階段。
下のほうに見える、やけに懐かしい昇降口の光。
そして踊り場で、あの先輩が静かに立っている。
——まだ降りてるの?
その声で目が覚めるたび、僕はしばらく胸を押さえて天井を見る。窓の外に朝があることを確かめて、ようやく息をつく。
学校の階段なんて、昼間に見ればただの階段だ。
みんな急いで上り下りして、そこに別の世界が口を開けているなんて、誰も思わない。
けれど、夕暮れどきに一人で通るとき、僕は今でも少しだけ足を止める。
そして心の中で、名前も知らない先輩に言うのだ。
あのとき、呼び止めてくれてありがとう、と。




