「バフェット・パートナーシップの黎明」
1956年――ウォーレン・バフェット、26歳。
グレアム=ニューマン社を退職し、生まれ故郷のネブラスカ州オマハへと戻ってきた。
かつての新聞配達少年は、すでに“投資家”としての確かな土台を得ていた。
だが、それだけでは満足しない。
彼は自らの信じるやり方で、世界を動かすための「舞台」を必要としていた。
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始まりは、家族と友人
彼が設立したのは――「バフェット・パートナーシップ」。
資本金はわずか10万ドル。
その大半が、親族や近隣住民、かつて新聞を届けた顧客たちからの出資だった。
彼はこう宣言する。
「私は自分の資金も同額入れます。
利益が出れば、25%以上を超えた分の四分の一だけを報酬とします。
損が出たら、私が真っ先に痛みを受けます」
それは、常識外れの誠実さと透明性に満ちた約束だった。
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バフェットは、世間が見向きもしない過小評価された企業を徹底的に調査し、“本来の価値”と“市場価格”の乖離を見つけ出すことに心血を注いだ。
それはまるで、地面に落ちている1ドル札を拾い上げるような投資だった。
誰もが見落とし、価値に気づかない。だが、彼には見える。
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「眠れる企業」を起こす戦略
ときに、買い占めた企業が反発して経営陣と対立した。
だが彼は決して騒がなかった。
株主総会にも出席せず、メディアにも登場しない。
その静けさが、むしろ周囲に不気味な“知略”を感じさせた。
だが彼は言う。
「私は企業を乗っ取ろうとはしない。ただ、本来の価値を尊重しているだけです」
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実績と神話の始まり
1957年。市場全体が横ばいの中、彼のパートナーシップは+10%のリターンを記録。
翌年は+25%、次の年は+40%
複利の力が加速度的に働き始める。
誰もが疑った。「こんな成績、いつまで続く?」と。
だが、バフェットは答えた。
「いつまでも続かないかもしれない。だが、“正しいことを積み上げる”という原理は、変わらない」
彼の“成功”は、熱狂ではなく信念と分析に基づいたものだった。
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若き賢者、オマハに現る
ウォール街がまだ“情報の早さ”に価値を置いていた時代、
オマハから遠く離れたこの静かな地に、
数字と沈黙だけで世界を動かし始めた男がいた。
いつしか人々は、彼をこう呼び始める――
“オマハの神童”と。
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この章の終わり、彼は語る。
「僕はまだ、“価値”を安く買っているだけ。
だがいつか、それを“育てる”段階に進む必要があると思っている」
そして、運命の次なる出会いが、彼の歩みを大きく変えていく――
チャーリー・マンガー
バークシャー・ハサウェイ
そして、「量から質」への転換。