「紙の上の魔術師」
ネブラスカ州オマハ。
乾いた風が吹き抜けるこの中西部の町は、世界の金融地図の片隅にも載らない静かな場所だった。
だが1930年8月30日、その地に生まれたひとりの少年が、やがてその常識を覆す。
名は――ウォーレン・エドワード・バフェット。
幼い彼は数字に取り憑かれていた。
まだ足もおぼつかない年齢で、電卓がわりにそろばんを弄び、5セントで仕入れた缶ジュースを10セントで売っては利益にほくそ笑む。
新聞配達の少年が、いち早く学んだのは「資本の回転」だった。
「5セントが10セントに変わる。その差額が、僕の未来だ」
朝の4時。真冬の暗い道を自転車で走る少年。
手に持つ新聞束の重みより、彼の胸を満たしていたのは、「翌月の利息」の予測だった。
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1942年。11歳。
彼は初めての株式を買った。
会社名は「シティーズ・サービス」。たった3株。ひと株38ドル。
買ったとたんに株価は急落した。
だが彼は持ち続けた。やがて上昇し、40ドルに達した時、彼は売った。わずかな利益を得て、彼は満足していた――その時までは。
その後、株価は急騰し、60ドルを突破する。
彼は己の“未熟な判断”を痛感した。
「本当の利益とは、早く得るものではない。信じて待てる者の手に残るんだ」
この体験が、後に彼の投資哲学となる。
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父・ハワードは株式仲買人であり、保守系議員でもあった。
厳格で誠実な男だったが、バフェット少年に説教などすることはなかった。
むしろ彼の才能に畏敬を抱き、自由に羽ばたくことを許した。
ある日、父が読んでいた『ムーディーズ・マニュアル』――数千ページに及ぶ企業の財務情報が記された分厚い本――を、バフェット少年は“遊び道具”にした。
「この中に、僕の“宝物”が隠れてる気がするんだ」
1ページずつ、鉛筆で傍線を引きながら読み解いていく少年。
その姿に、誰もが“奇妙な執着”を見たが、彼にとってはそれが遊びであり、冒険だった。
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14歳。
彼はすでに貯金1,000ドルを超え、ファミリー・ビジネスとしてピンボール機を理髪店に設置し、不労所得を得ていた。
「お金とは、自由を得るためのチケットだ」
少年は心のどこかで、“使うよりも増やすこと”に快感を覚えていた。
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この章のラスト、彼は言う。
「いつか、僕は“数字の海”を制する航海者になる。
誰よりも深く潜り、誰よりも静かに、真の価値を見つけてみせる」
そして、彼の旅は始まった。
それは、「金儲け」ではない。「価値という名の哲学」を求める旅路だった――。