14話前編 揺らめく思惑
凍り付く闘技場。観戦していた者たちは言葉を失った。というよりかは、何と言葉で自身の気持ちを表現すればいいのかが分からず、黙っているということがいいのかもしれない。だが、彼らの視線は一つの事実を見ていた。その事実は、イレミアの右腕が射落とされたというもの。彼女の右腕があった箇所からは滝のように血が流れている。
「…っ、はぁはぁ…!」
イレミアの顔は青ざめていき、痛みからか地面と顔を合わせている。それを冷ややかな視線を送りながら、文殊菩薩は佇んでいる。仏の手にある武具。それは弓で間違いない。小細工の施しなど見えない。だからこそ際立つ。文殊菩薩という仏の素の強さ。それが伝わったのだ。
仏界専用観戦室
「さすが俺の弟子。たったの一合で形勢逆転!」
文殊菩薩の活躍を誰よりも喜ぶ釈迦。エイルは前のめりになりながら、戦いを傍聴する。
「危ないところでしたね」
「そうでもないよ。あいつはただ待っていただけだよ。権能を使うタイミングをね…」
薬師如来が虚ろな目を向けて言い放つ。
「釈迦如来の”頭脳”として仏教の”智慧”を受け持つ。それが文殊菩薩の権能。仏としての存在意義。私たちは、あれの権能を文殊師利般涅磐経と名付けた」
「智慧…」
エイルが、薬師如来の言葉を復唱する。すると、阿弥陀如来が親切に解説してくれた。
「学を通じて知識を身に着けるのが”知恵”。そして、真実を見抜くための気づきの力。それが文殊菩薩の権能である”智慧”。文殊菩薩の権能は多くの出来事を通じて、真実を見出す。それは敵の弱点であったり、打開の策であったり、真実は色々です」
「では、文殊菩薩様が大切に扱われている弓は…一体…」
エイルが弓を指摘する。見たところ、神器ではあるだろう。だが、文殊菩薩の力とは異なる力を放つ武具に疑問を抱いたのだ。その疑問に如来は少し悲しそうな声で言った。
「元々、文殊菩薩は普賢菩薩という仏とペアでした。ですが、ある任務で彼は死を迎える運命になる。その時の僅かながらの抵抗と、文殊菩薩に対しての莫大な未練。それによって、仏から、仏を守る武具に身を変えました」
仏が、文殊菩薩の昔を語る。
文殊菩薩は今の冷静沈着な性格ではありませんでした。昔は経験と知恵に貪欲で、常に高みを望む野心に満ち溢れた仏でした。彼女の成長速度は、如来の知見を超えるほどでした。ですが、その代償は大きく、毎回の任務で戦績はどの仏よりも高いものの、負ってくる傷もどの仏よりも惨かった。師匠である釈迦如来の勧告も意味をなさなかった。そんな中、文殊菩薩に直接警鐘を鳴らした者がいました。それが普賢菩薩です。
『なにお前』
『これから君とペアを組む普賢菩薩だよ。よろしくね』
『いらないわよ!』
『釈迦の命令だよ。ぼくは君の監視。君が毎回無茶するから』
文殊は最初は嫌な態度をとって、普賢を無視したり、彼を置いて先々に行ったりと好き放題。ですが、普賢はそれについていって、彼女をサポートし続けました。段々と文殊も普賢の凄さを感じ取り、対等な存在として接するようになっていきました。共に成長していく彼らの姿は微笑ましいものでした。ですが、時とは非情。その真理は神ですら捻じ曲げることができない。
とある任務にいつものごとく、向かっていました。討伐任務は長年難航していたものでしたが、文殊と普賢ならやってくれるという期待の元、送り出しました。それは彼女らもよく分かっていた。人が成長し、人気も成長するように、化け物も成長する。討伐任務の化け物は、報告書よりも遥かに強くなっており、化け物の獰猛な牙が普賢の心臓を貫きました。その牙は本来であれば文殊に当たっていたそうです。つまり、普賢が文殊を庇った。化け物は怒りの煩悩に包まれた文殊によって討伐されましたが、その代わり普賢には重い未来が残りました。
『普賢!! 起きなさいよ!!』
意識が朦朧とし、脈の弱くなっていく普賢の名を何度も何度も文殊は呼んでいました。
『普賢! ごめん。余が勝手に動くから。ごめん。今までのこと、全部…』
呼びかけに応じない普賢を見て、文殊は今までの行いを恥じて、懺悔した。彼女の嗚咽に、普賢の指が微かに動いた。
『文殊…』
『!?』
『ぼくは、君が強くなっていく様を見ていたい。君の傍らで』
『見ていていいから。お願いだから、死んじゃやだ…』
文殊の懇願に応えるように、普賢の体が光りだした。
『ぼくは弓になる。君が見つけた真実を射抜く最強の矛だ。必ず上を目指そうね』
普賢はそう言い残して、光と共に姿を消した。残ったのは彼が言った弓。その弓を掴み、文殊は泣いた。誰もいない戦場で、苦しみの涙を曝け出して、懺悔した。そして一刻が経ったころ、その涙は消え去り、代わりに全てが豹変した文殊がいた。
『一緒に強くなろう』
それが文殊の決意でした。
「普賢が弓となり、別の意味でペアを継続している文殊の成長速度は異次元です。異なるのはケガを負わないこと。被害を最小限にした知恵のある戦い。そして何よりも成長したのは精神です」
「多分だけどね、文殊は普賢を真似てる」
阿弥陀如来に続いて、釈迦が話す。
「普賢は物事の把握がうまくて、それを全て整理するのが得意だった。簡単に言えば、気遣いができるって感じ。人徳者みたいなもんだよ。文殊は少なからず、普賢を残してる。でも、文殊が持っている野心は変わらず横溢して、高みを望んでる。生まれてから、一瞬たりとも止まることをしらない仏。でも、その高みの正体は文殊でさえもわかっていない。終わりのない努力と辛酸の連鎖。それを経験していることが文殊菩薩の強みなのかもしれないね」
形勢逆転の一手の反動は大きく、文殊菩薩は疲れからか、イレミアに止めを刺せずにいる。すると、イレミアが大きな吐息をする。
「!」
右腕の付け根から、シュルシュルと芽が生え、成長し、樹の義手を形成した。大量出血により、イレミアの意識が薄れていっていることが窺える。それと同時に、文殊菩薩も形勢逆転の一手より前に、イレミアから与えられた深い傷があり、これ以上の戦闘は厳しい。
「あなた、随分貪欲なのね。でも、共に戦ってくれる仏を尊重しているわ」
ゆらりとイレミアが立ち上がる。優雅な所作と言葉遣い。やはり戦いには似つかわしくない。だが、よく見ている。右腕を犠牲にしたからこそ、文殊菩薩に対抗できる一手を見つけた。イレミアは無事な左手を操り、一帯の植物を共鳴させる。すると、木々が反応して、イレミアの望むモノへと成っていく。
「それは…弓か?」
成ったモノを見て、文殊菩薩が聞いた。イレミアが望んだモノ。それは文殊菩薩と同じ武具である弓だった。文殊の問いに、イレミアは朗らかな笑みで肯定した。
「貪欲で、野心が横溢している者には、その者の得意分野で屈服させる。それが私”穏”の元祖の流儀」
イレミアが弓を構え、十分に引き絞り始めた。その鏃は、文殊菩薩に向いている。敵からの鏃を見て、文殊菩薩は興奮を覚えた。
「桜雲」
「あいな」
興奮が狂う前に残された理性で、自身の選抜人類を呼んだ。文殊の選抜人類である桜雲が返事をして、彼女の肩に手を添えた。文殊はその手を上から握り返す。
「お前の持っている全てを余に捧げてほしい」
「全てじゃと? 身が持たんぞ」
文殊の提案に苦言を呈すると、彼女は言葉足らずで言った。
「ああ、そうだな。でも、見えた。真実が。余の望んでいた高みが今、この手にあるんだ。逃したくない」
自問自答のような文殊菩薩の言葉を聞いた桜雲は呆れながらも、了承した。そして、その身を文殊菩薩という仏に捧げた。すると、文殊菩薩の莫大な力がこみ上げて、一帯に衝撃を与えた。
「余は友と約束したあの日より、高みの真実を模索していた。幾千万もの化け物を殺し、ヒトと会い、進化を狙った。その真実がこの戦いで導けた」
「…(仏の力が増幅している)」
漲る力と、収まることのない興奮が、文殊菩薩という仏の存在意義を高めている。それにイレミアが気づいた。弓を引き絞る手が汗ばんでいる。今まさに高みへと駆けのぼる文殊菩薩を目の前にしての緊張からか、はたまた、仏を凌駕する機会に虐殺を揺さぶる衝動が生まれたのか。一つ言えることは、イレミアの中で文殊という仏を殺さなくてはならないと、明確に決まったということだけだ。
イレミアの決意が固まる中、文殊菩薩の力は高まっていく。長年続くはずの力の研鑽が、一瞬で行われているのだ。自身の力の高まりが、興奮に変わっていき、文殊菩薩は自身が高みにいると感じ取った。興奮が最高潮に達したこと、研鑽が完了したことを確認した文殊は弓を構えた。鏃と鏃が向き合う。
「あなたには愛する仏がいるように見えるわ。愛さなくても、大切な仏」
「ああ。今、共に戦っている」
「羨ましいこと」
人間と仏。非凡と凡才。才と努力。辿った道と苦労は違えど、イレミアも文殊も双方、その種での最高峰に辿りついた。努力せずとも最高峰に居座り、欲するがままに経験を培ってきたイレミアと努力をし、失う者を経て、長い年月たゆまぬ研鑽を積み、今最高峰に上った文殊。互いが引き絞る弓に込められた野望は違う。だが、その鏃は目の前の敵を倒すという欲を宿している。その欲がぶれぬよう、直線で射れるよう、入念に練る。
その時は、唐突に訪れる。
「文殊菩薩改め文殊如来―参る!」
「”穏”の元祖―往きます!」
十分に引き絞られた弓が同時に放たれる。弦音が、この戦いの終焉を導く音楽となる。放たれた矢は一直線に戦場を駆けた。直線状にある植物を意に介さず射抜き、それはやがて同じ矢と邂逅する。イレミアの放った植物の矢と、文殊如来の仏の矢。寸分の狂いなく衝突する。鏃と鏃は刹那に相殺し合う。が、その相殺は優劣を決める物質の法則である。相殺を経て、衝突に終わりが見えた。文殊如来の鏃に僅かな亀裂が生じたと思えば、その亀裂にイレミアの鏃が侵入して、文殊如来の矢を真っ二つに分け入った。そして、威力の失われないイレミアの矢は、直線に待ち構えていた文殊如来の胸を、寸分の狂いなく射抜いた。
その衝撃で文殊如来の体が後ろへと倒れていく。
(…余は、高みに上っても、負けてしまうのか…いや…)
ダンッ!!
「!?」
倒れるかと思った体を文殊如来は起こす。もう立つ余力も残っていないだろう。だが、文殊如来は倒れない。倒れるわけにはいかない。仏の最高位の矜持にかけて。
「余は新たな高みを見た」
「…」
文殊が廃れた声で何かを言う。イレミアは攻撃するでもなく、ただ黙って聞き入った。
「そして野望を得た。余は止まらん。余の求む高みとは終わらぬのだ。その真実を得た」
「そう」
「―礼を言う。人類紅魔族の最高峰”元祖”よ」
文殊如来はそれだけ言うと、急に静まり返った。壮大な一突きの後には異常な静謐さにどよめいている。司会進行役のヒヤルムスリムルに内線が繋がった。
『ヒヤルムスリムル。文殊如来の安否確認を』
「承知しました。エレボス様」
内線を通じてのエレボスの指示を受けて、ヒヤルムスリムルが闘技場に侵入した。そして、文殊如来に近づき、安否確認をする。
『…気絶です! 文殊如来、立ったまま気絶しています!!』
ヒヤルムスリムルの言葉に、さらに観客がどよめいた。闘志の気絶により、試合継続は困難だと判断したヒヤルムスリムルだったが、イレミアに体を向ける。
『どうしますか? 大義名分の名でとどめを刺しますか?』
彼女の質問にイレミアは少し考え込むが、晴れやかな笑顔で否定した。
「いらないわ。私の流儀で勝てた。それだけでいいの」
『わかりました』
イレミアの意向を聞いて、ヒヤルムスリムルは高らかに宣言する。
『仏界代表文殊如来の戦闘不能により、仙人大戦第一ラウンド四回戦勝者はポリネシアーー!』




