第11話。「母」
結局ぼくはただ逃げていただけなのかもしれない。
イヴと出会ってから毎日が夢のように幸せで、そう、まるで白昼夢の中にいたかのようで。
だけど夢から覚めたぼくに待っていたのは現実のきびしさと心を抉り取られたかのような虚無感。
夢の中に戻りたくて必死に瞼を閉じてみるけれど、目の前にただ、どこまでも続く深い闇が広がっているだけだった。
旅行から帰ってきたぼくたちは、これと言って目新しい事は無かったけど、幸せな日々を送っていた。
家で一緒にゴロゴロしたり、外へ出かけてみたりしている内に、気づけば夏休みも残りわずか1週間。
目覚まし時計の音で目が覚めたぼくは、いつものように朝食の準備を始めた。
トーストの香ばしい香りが漂ってくると寝ていたイヴがむくっと起きてきた。
「飯……」
まだ寝ぼけてるみたいなのに食欲だけは全開らしい。
イヴの目の前にトーストを1枚置くと、イヴは寝ているんじゃないかと思わせるくらいに目を細めながらも黙々とトーストを食べ始めた。
そんなイヴの様子に思わず笑みがこぼれ出てしまう。
朝食を食べ終わるとイヴは覚束ない足取りで布団に戻っていった。
「イヴ、もういい加減におきなよ」
そんなぼくの言葉に耳を貸さず……というか聞こえてない様子のイヴはスヤスヤと可愛い寝息をたてはじめた。
風をひかないように薄い掛け布団をかけるとイヴはそれを「暑い」と言って蹴り飛ばした。
仕方ないのでせめてお腹だけは冷やさないように、掛け布団をたたんでイヴのお腹の辺りにそっと掛けた。
なんとなくイヴに寄り添うように寝そべると不意に睡魔が襲ってきた。
襲われるがままに瞼を閉じ、遠くなる意識の中、頭の中には静かな部屋に響き渡る蝉の鳴き声が鳴り響いていた。
気がつくと辺りは随分日が落ちたようで、時計に目をやると時刻は午後3時を回っていた。
軽い二度寝のつもりが、どうやらかなり眠ってしまったようだ。
隣にはスヤスヤと眠るイヴのあどけない寝顔があった。
起きてる時間より寝ている時間の方が多いと思うのは、気のせいじゃないだろう。
いつまで寝ているのかなと、そんな事を思いながらイヴのほっぺを人差し指でつついてみる。
「ん……」
思ったより柔らかいんだな……えいっ。
「や……め……」
うなされてるみたいだけど、一体どんな夢を見てるんだろう? えいっ。
「……やめろと言っているいるだろう! この阿呆!」
「うわっ!? イヴ起きてたの?」
「頬を何度も何度もつつかれたら、起きるに決まっているだろうが!」
まあ確かにその通りかもしれない。
「……まあいい。それよりも飯だ」
「そうだね。お昼……っていうにはもう遅いけど何か食べようか」
「うむ!」
とは言ったものの材料は切れてるし、外に食べに行くといくらかかるか分からないしな……そうだ!
「じゃあお弁当でも買いに行こうか」
これなら作る手間も省けるし、そんなに値段もかからないだろう。
「近くにある所か?」
「うん。イヤ?」
「そんな事はない! さあ早く行くぞスバル!」
「う~む、どれにするかな……」
弁当屋に着くとイヴは店頭のディスプレイを見ながらどれにしようかと悩んでいた。
「可愛いね~。妹さんかい?」
そんなイヴの様子を見ていたぼくに、弁当屋のオバちゃんがそんな聞いてきた。
返事に困っているとイヴはニッコリと笑ってこう答えた。
「恋人だ」
「…………」
「…………」
固まるぼく。引いてるオバちゃん……。
「し、親戚の子です!」
「そ、そうよね! 最近の子はおませさんね~」
若干引きつった笑みを浮かべながらも、どうやら誤解は解けたらしい。
誤解……なのかな?
「よし! 決めたぞ! これとこれとこれだ!」
「じゃあその3つとのり弁を1つください」
「はいよ! じゃあちょっと待っててね」
そう言って厨房の方へ向かうオバちゃん。
ここはオバちゃん1人でやっていて、近所では美味しいと有名なところだ。
いつもは結構混んでるんだけど、今日は時間も遅いからか、空いていて良かった。
「はい! お待たせ! 全部で1500円ね」
そして何より早くて安い。
おかげで朝はガテン系の人達の行列が毎日出来ている。
「はい! ありがとう! また来てね!」
会計が終わるとオバちゃんは笑顔でそう言った。
この時ぼくは多分オバちゃんの人柄こそが、人気の一番の理由なんだとそう思った。
「いい匂いだな!」
「そうだね」
イヴの言うとおり、まだ開けてもいないのに弁当からはいい香りが漂っていて、一気にお腹が減ってきた。
「早く家に戻るぞスバル!」
「ち、ちょっと待ってよイヴ!」
そう言って走り出すイヴ。
その背中を弁当を4つ持ちながら追いかけるぼく。
アパートへと向かう角を曲がるとぼくは言葉を失った。
アパートの下に停められていたのは一台の車。
綾瀬の家ほどの車ではないけど見覚えのあるそこそこの高級車。
降りてきたのは今もっとも会いたくない人物。
――最悪の事態。
最も危惧していたことが今、目の前で起きている。
でも少し考えれば分かることだった。
少し考えればこの事態を回避できたはずなのに。
だけどそんな事さえ忘れるくらい毎日が楽しくて、幸せで、こんな事が起こるなんて考えてもいなかった。
――いや、考えたくなかったんだ。
「母さん……」
ぼくの声に気づいたのか、母さんはこっちに目線を移し、そしてそれは徐々に険しいものへと変わっていく。
その視線に耐え切れずぼくは目を伏せる。
カツン。カツン。カツン。
静かな道路にハイヒールの音だけが響き渡る。
一歩ずつ近づいてくる母を前にぼくは立ち向かうことも逃げ出すことも出来ず、ただその場に立ち尽くしていた。
母さんはぼくの傍まで近寄ると横にいたイヴに目を落とし、そしてまたぼくの方を見た。
「この子は?」
「し、知り合い……」
そう言うと母さんはそんな事はどうでもいいと言わんばかりに話を進めた。
「あなた一体どういうつもり」
「な、何が?」
「とぼけるんじゃないわよ! 塾は勝手にやめる、成績は落ちる、そんな事でお父さんの跡を継げるとでも思ってるの!?」
「それは――」
「黙りなさい! 大体あんたは――」
この人はいつもこうだ……自分のエゴを押し付けてばかりでこっちの話は聞こうともしない。
いつぼくが父さんの跡を継ぎたいって言ったんだろうか。いつぼくが塾に行きたいっていったんだろうか。
「聞いてるの!?」
「聞いてる」
「……もういいわ。とりあえず帰りましょう」
「えっ!?」
帰る……? この人は一体何を言ってるんだ?
「大家とはもう話しもつけてあるし、手続きも全部終わらせたから」
「意味が分からないよ……」
「意味が分からない? なら分かりやすく言ってあげましょうか。お遊びの時間はお終いって言ったのよ」
「遊び……?」
「さあ帰るわよ」
そう言ってぼくの手を掴み車に乗せようとする母。
ぼくはその手を力いっぱい振り払った。
「な、何するのよあんた!」
「それはこっちの台詞だ! 遊びだって? ふざけるな! お前に何が分かる!? 分かってたまるか! お前なんかに……お前なんかに!」
言葉を失い怯える母。
それでもぼくは止まらない。
「いつぼくが塾に行きたいって言った! いつぼくが父さんの跡を継ぎたいって言った! ……結局は親のエゴだろ! お前なんかが勝手にぼくの人生を決めるな!」
そこまで言うと母は涙を流してその場に座り込んだ。
「私は……私は……」
気がつけば辺りには人がたくさん集まっていた。
「行こう」
「えっ!?」
そう言ってぼくは呆然としてるイヴの手を引いて走り出した。
頭の中は真っ白で何も考えられなくて、ただその場から逃げ出したかっただけだったのかもしれない。
ぼくは振り返ることなく走った。
辺りには母さんの泣き声だけが響いていた。