洋上
秋葉原での会合から五日後、四人でがらがらとキャリーケースを引きずりながら竹芝港へと向かう。出港一時間前だったが、既に港には父島への唯一の交通手段である、おがさわら丸が停泊していた。
東京に大量の石油が眠っている。そう言っておいて、蓋を開けてみれば、東京都に属してはいるものの、竹芝港から丸一日船に揺られなければたどり着けない離島に行かなければいけない。こんな笑えないオチがついたにもかかわらず、当初のメンバーは一人も欠けることがなかった。
「ただでさえ馬鹿みたいな話なのに、皆さん、よくついて来てくれましたね」
皮肉に聞こえただろうか。けれど四人は口を歪めることなく笑ってくれた。「話に乗った時点で馬鹿だから、心配することはない」だって。気持ちのいい連中だ。そんな面々に似つかわしく、空もすっかり晴れわたっていて、波も穏やかだ。海上で丸一日過ごすことになるおがさわら丸での船旅は、海の様子で天国か地獄かが決まると言っていい。出港日がここまでの快晴だと、船酔いはそこまで重くならないだろう。――なんてことを考えていた私の隣で、武川がふらついて手すりにもたれかかり、ついにはしゃがみこんでしまった。
「おい、大丈夫か」
まだ停泊中の大型客船のデッキに立つこと数分で船酔いとは……、絶望的に船旅に向いていないな。武川はガタイは良いけれど、繊細らしい。自分よりもずっと対格がひょろい久津川に肩をさすられながら、船内へと消えて行った。チケットは一番安い奴だから、今夜は全員で板の間に雑魚寝だ。枕元に申し訳程度の間仕切りはあるが。寝心地はそんなにいいものではない。武川にとってはこの船旅は間違いなく地獄になるだろうな。
「そういえば、最後のもう一人はいつになったら合流するんですか?」
へらへら苦笑いしていたところで、佐久間が思い出したように言った。
「彼なら自家用のヘリで、私より先に着くと思います」
自家用のヘリという単語で、佐久間は呆気にとられた顏になり、しばらく遅れて笑い始めた。自家用のヘリなんて、それこそ石油王かよと。ああ、彼は石油王ではなくとも、年収が億は行く人間だ。
「金城寅次郎って人知っていますか?」
佐久間が、いったい何を言っているんだという顔をした。うん、それくらい誰もが知っているビッグネームで、その人名がまるで突拍子もないものの様に認識されてしまうくらい。そんな人が、私たちのような一般人とこれから小笠原村で衣食住を供にするなんて、それこそ突拍子もないことだろう。
最後に合流することになる一人がその人です。そう言った瞬間、鼓膜を貫くような「はぁあ!?」という声が飛んで来た。佐久間のその反応に無理はない。
「え、マジ?」
私がこくりと頷いても、現実に理解が追いつかず、しばしの無音が訪れる。その静寂を出港を知らせる汽笛がつんざいた。
冗談だろ? 日本だけでなく、世界で活躍するハリウッドスターと言っても過言ではない人物だぞ。矢継ぎ早に飛んでくる質問を全て頷きだけで返すとようやく佐久間も受け入れることができたようで。
「とりあえず会ったら、サインと握手とハグをしてもらう」
切り替えが早いことで。まあ、それよりももっと濃密な交流を彼と交わすことになると思うが。
***
出港して五時間ほど経過した。
まだ日は高く、海面を燦燦と照らしている。窓から見える景色には、もう陸地は存在せず、見渡す限り青一色の海だ。遠洋に出て、だいぶ船も揺れるようになってきた。数分ほど前に、身の危険を感じて酔い止めを飲んだが、それが聞いてくれるまで持ちこたえられるか。
向かいに座った久津川も顔が青い。症状が重くなるくらいなら、武川のようにずっと寝込んでおくべきなのだが、雑魚寝するだけの二等和室に戻るのも気が進まない。
「久津川さん、酔い止めは持って来てます?」
「いいえ。正直、大丈夫なもんだと思っていました」
クルーザーに乗ったりしたぐらいでは、酔った経験がないからと酔い止めを持ってこなかったらしい。
「おがさわら丸は、乗船時間も長いですから、用意しておかないとダメですよ」
少しだけ小言を添えて久津川に酔い止めを手渡す。そういう自分も出港時は、酔い止めの世話になることはないだろうとたかをくくっていたわけだが。ああ、くそ、佐久間だけはぴんぴんしていやがる。
「そういえば、着いてからの予定はどうなっているんですか?」
武川が完全にグロッキーなので、船の中で打ち合わせはしないでおく予定だったが、久津川が聞いておきたいというので話すことにした。
まず、父島に着いた後は、祖父の家の跡地を訪ねる。祖父の遺した『黒き川の伝説』は、石油が離島にあるという伝説に心を奪われた彼自身の私小説であると考えている。作中にある文章を繋げれば、伝説の舞台となっている島を割り出すことができる。そこには“痕跡”があると祖父は記していた。
「第二次世界大戦前に重要資源のひとつとして調査されていたらしいです。けれどなぜか大戦中はその存在が忘れられて、石炭の液化による人造石油の生産が研究されるようになったそうです」
「それってひょっとして、坑内火災とかがあったんじゃ」
「それだと今でも立ち入りが厳重に禁止されて、存在が忘れ去られるというのは考えにくくなると思います。有力なのは、調査が何らかの理由で滞り、油田を開発する見通しがつかなかったというケース。要するに、単なる頓挫」
頓挫という言葉を聞いた途端に久津川の顔が歪んだ。気持ちは正直分かる。けれど、もともとこの計画は壮大な賭けもいいところ。むしろ、そこに単なる噂かもしれないが、大戦前は資源として注目されていたという文言が増えるのは、心強いぐらいだと思う。あとは当時と比べて進歩した技術の恩恵を私たちが受けることになれば、そして運が味方すれば、成功すると考える。
「痕跡が見つかったら、いよいよボーリングで地中を掘り進める準備をします。ここからが長いんですけれど……ひとまず、今回の旅では、ボーリングを開始する場所を見つけるところまでが目的です」
そこから石油にたどり着くには、短く見積もっても三か月以上はかかる。その期間の作業は、一部を技術者に委託し、定期的に島を訪れながら原油にありつくまでひたすら掘り続ける。粗削りではあるが、計画の全容はこんな具合だ。
正直、実を結ぶのはいつになるか分からない。私が渋い顔をして言うと、久津川にもその表情が移った。同じ内容を佐久間に伝えたらきっと、かなり楽天的な受け取り方をしてくれそうだが、久津川はどうやら心配性らしい。
「ボーリングを委託している間は、本土で各々の生活に戻ってもらいます」
「そうですか……、一山当てたら娘の養育費にでもと思っていたのですが」
え……と思わず声が出た。久津川が、芸能雑誌の編集者を辞めてここに来たことは知っている。けれど離婚し、娘の養育費を元妻に払っていたとは知らなかった。
それから彼の身の上話が始まった。土日も芸能人や政治家の張り込み取材をしていた彼には、家庭を顧みる間もなく、身体を壊して退職に追い込まれたのを機に、元妻から離婚届を突き出された。テンプレート通りではあるが、実際に聞くと胸を痛めずにはいられなかった。
ふと、他のメンバーはどういう思惑でこの話に乗ったのだろう、と気になった。佐久間は楽天的だから込み入った事情はなさそうだが、武川はどうだろうか。たしか前職でのパワハラが相当にきつかったと聞いたが――
乗客の寝息やらいびきやらに囲まれて、私一人だけが寝入ることができずに天井を見つめていた。今更ながら、自分の祖父の絵空事に他人を巻き込んでよいものか、と不安になった。
でも、我慢できないんだ。母が、祖父のことを今でも空け者呼ばわりして悪口ばかり言っていることが。この計画が成功すれば、少しでも母を見返して、祖父の顔を立てられるかもしれない。いや、それも自分の母への反抗心を誤魔化す口実に過ぎないのかもしれないけれど。堂々巡りの思考の中、夜が明けていった。