第四話 帰れ
空腹と惨めさと泣きたさにじっと耐えていたら、人が来る気配がした。
うわ、とウイネは慌てた。見つかりたくない。
ウイネは慌てて周囲を見回し、木立の間に隠れた。
ザワザワと数人の話し声と足音が近づいて、道に沿って去って行った。
ほぅ、とウイネは息を吐いた。
・・・このままちょっと隠れていようかな、とウイネは思った。
庭は庭で、誰かが様子を見ているのに違いない事は分かっていた。
ウイネはその木立の間に座り込み、暇を持て余して、プチプチと下に生えている雑草を引き抜きだした。
プチプチ。
プチプチプチ。
あれ。案外くせになるかも・・・。
***
・・・ん? 獣臭い。
ふっとその匂いに気づいたと同時に、ワンワンワンッ、と近くで犬の大声がした。
「うわぁ!?」
ウイネは驚いてバランスを崩し、その場に座り込んだ。
ニュっと細い犬の顔が木立から突っ込まれてくる。そして吠えられる。
「うああああ!?」
怖い、怖い、噛まれる、へたり込んでいる場合じゃない!
「ラルフ、よし」
「え?」
犬が大人しくなった。だけじゃない。ジョージ様の声だった。
「・・・随分面倒くさいところにいるな、お前」
ぬっと、ジョージ様が木立の間から現れた。
「ごめん、なさい」
ウイネの呟きに、ジョージ様はため息をついた。
「ウイネ、お前、帰れ」
「え」
「嫌だろ。もう良い、帰れよ」
「え・・・」
呆れたように、立ったままのジョージ様がウイネを見下ろしている。
離婚だ。
ウイネの身体が震えた。
確認せずにはいられなかった。
「私とは、離婚、ですか」
「あぁ。そうすれば良い」
「私が、平民のくせに、調子に乗ってしまった、から、ですね」
「・・・」
「ごめんなさい。どうか、許してください」
「・・・できないな」
「どうして。本当に、ごめんなさい。すみませんでした」
ジョージ様は無言でウイネが一生懸命謝る様子を眺めていた。
「離婚されたくないのか?」
「・・・はい」
「そんな良いもんじゃないだろ、結婚。しかも俺となんて」
「え?」
「10も年上で、女を馬に連れまわして、身分差をそのままに自由にし放題」
「・・・でも、それは、当然です」
「本当にそう思ってるのか? じゃあ、これはなんだ」
しかめっ面で、ジョージ様が、ハンカチを取り出した。ウイネが刺繍して贈ったものだ。
「・・・私のプレゼントですね。なけなしの」
「なぜタヌキなんだ」
「・・・どれが」
「ここが」
「タヌキ?」
「ずるがしこい。私利私欲の象徴」
「待ってください、これはご希望の狼ですけど」
「タヌキ! だろうが! どう見ても! お前は不器用か!」
「狼ですよ、どうしてタヌキなんです、そんな不幸の使者をお送りするわけないでしょう!? どうしてタヌキだと!」
「俺だって驚いたよ! でも見ろこれフィルベルムが、気づいたんだぞ、タヌキだと!」
「私は狼を贈っています! ご希望の!」
「じゃあなぜタヌキ色なんだ!」
「何色でも良いっていうから、一般的なのをって思ったんです! 待って!」
「なんだ!」
「ご機嫌悪かったのってこれのせい!?」
「これだけじゃない!」
「じゃあ何です!」
ウイネの言葉に、ジョージ様がグッと呻いた。
「お前がこの生活に嫌気が差したろうと思ったからだ!」
「私が嫌だと申し上げたのは、泥だらけのまま眠るような事をされたからです! 私は平民ですがでもやっぱりどう考えても私は文句言っても良い、だって一緒に寝てるんですよ! 言ったっていいと思う、けど駄目!? 駄目ですか? ごめんなさいー!!」
顔を真っ赤にしてウイネは叫ぶように言ってしまった。本音がだだ漏れた。
「あぁだから! 嫌ならさっさと出てけって言ってるだろうが!」
ジョージ様も顔を赤くして怒っていた。
「嫌だぁー」
ウイネが両手で顔を覆って呻いた。
「!」
グッとジョージ様が怒鳴る前なのか身体を後ろにそらせた。
「ジョージ様、ごめんなさい。本当に、離婚ですか? ごめんなさい、駄目、なん、ですね」
「だからそういう言い方してないだろうが、お前が嫌なら出て行けばいいって言ってんだろう!」
「・・・ジョージ様が、もう嫌になったからだ・・・飽きたんですね・・・」
「聞け! そんな哀れな事を俺がするか!」
「だってもう私の事捨てるって・・・」
「だから! お前が嫌なら出て行けばいい離婚してやると言っている!」
「・・・」
ウイネは両手を顔から外し、じっとジョージ様を見上げた。ジョージ様は顔を真っ赤にギリギリとウイネを睨んでいた。
本気で怒ってる。
・・・あぁ、初めからうまく行くはずが無かった。分かってたけど。
平民で、平々凡々の、ウイネとだなんて。初めからおかしかったのだ。貴族の気まぐれなのだ。
残念だ。
ぐしゃりと顔が歪む。泣くのは耐える。
ジョージ様が無言でギリギリしている。ウイネが出て行くのを待っている。
ウイネが出て行ったらどうするんだろう。
きっとのびのび自由なんだろうな。
ジョージ様はちょっとぐらい寂しく思ってくれるだろうけど、きっとすぐに元に戻るんだろう。
ウイネには行く場所などないのに。
馬鹿ジョージ様。ついでに馬馬鹿ジョージ様。
馬もせっかく贈ってもらったのに。最近楽しくなってたのに。
もっと頑張って早く乗りこなしてたら、きっとすごく楽しそうにしてくれたんだろうに。
どうせなら嫌いにさせてくれたら良かった。『離婚万歳!』みたいな。
中途半端に優しい態度だし。
平民ってこと、ちょっと忘れて調子乗っちゃうぐらい色んなことさせてもらってた・・・。
もう、離婚・・・。
「・・・なんだよ」
面倒くさそうにジョージ様が言った。ウイネが座り込んだままお顔をじっと見つめているからだ。
「・・・私はここにいたいけど、駄目です、ね」
「ん? いたい?」
「はい。でも、ジョージ様が、ご希望なら・・・従います・・・」
「待て悲しんでるのか」
「はい」
「待て。話が違う」
「・・・話?」
ジョージ様は困惑に顔をしかめた。
「お前、嫌々俺に付き合ってるだろ。悪いと思ってるよ」
「・・・離婚したいとか、私は、思ってません」
「変な奴だな。でもお前に釣り合うやつ別にいるだろう。幸せに暮らせるヤツ」
「いませんよ。どこにもいません。ジョージ様、拾ってくれたのに、捨てるんでしょう? もうどこにも、店にも、私はもう戻っても・・・」
「え? 待てなぜ戻る場所が無いようなことを言う」
「え・・・」
ウイネが困惑してジョージ様を見上げた。
とはいえ、申し訳なく思ってしまった。こんな、どこに行くほかもない年増を、欲しくも無いのに手元に置いておかざるを得ないなんて。
ウイネは目を伏せた。
ジョージ様だって自由になるべきだ。もともとそういう人だった。好きに自由に。
「待てさすがにおかしい。少し整理しよう」
「・・・」
「とりあえず出て来い。狭いし虫ばかりで面倒くさい」
「すみません」
「良いから出て来い。狭すぎる」
「・・・」
「なんで出て来たくないんだ」
「・・・人の目が気になるからです・・・」
「あぁもう! だから平民は!」
「すみません・・・」
「あぁもう! 分かった、俺が悪かったのは認めるよ!」
急にジョージ様が違う方向で喚きだした。
「疲れて風呂も着替えも面倒でそのまま寝たよ! 悪かったよ! お前だから良いかなとか思ったんだよ!」
「・・・はい。でも私も、ごめんなさい、言える立場じゃなかったのに」
「あぁもう、良いから出て来い! ウイネ!」
グィと腕を捕まれて、強制的に立たされて、木立から出された。
案の定、少し離れて三人が立っていて、こちらの様子を見守っていた。
やっぱり。
良い大人なのに、こんなところを見られて恥ずかしい・・・。
いたたまれなくなって、ウイネは俯いて地面を見つめた。