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独白~私の1年~

作者: BAGO

自分の1年を文章に起こしてみました。

ほぼノンフィクションなので、結構生々しいかもしれません。

 4月1日、私は社会人の仲間入りを果たした。本社で辞令交付式が行われ、一人ひとり社会人としての意気込みを述べ、


「この会社でこういう存在になりたい」

「このような形で貢献したい」と目標を掲げた。私も、入社するからには大きな目標を掲げ、その会社で必要とされるような存在になりたかった。


 大学時代に80社以上の会社を訪問し、自分に合っている仕事はどれなのか、どの職種なら自分の持ってるポテンシャルを引き出せるかを吟味し、この会社に入ることに決めた。


 入社式を終え、同期と共に研修を一週間行った。


 これからのことについて、たくさん話をした。どうすれば売り上げを伸ばせるのか、俺たちはくじけないでやっていけるのか、期待と不安を滲ませながらも研修を必死で頑張った。


 そして、どんな些細なことでも相談して、みんなで手を取り合って頑張っていこうと約束した。研修終了時には、みんなとの結束の輪が見えるようだった。


 そして、いよいよ研修ではなく社会人としての第一歩を迎えた。


 まずは上司と共に、どのように仕事を行っていくのかを覚える。やるからには全力で――そう思った私は、私なりに精一杯の努力と工夫を凝らし、1日でも早く仕事を覚えようと必死に取り組んだ。


 だけど……現実はそう甘いものではなかった。


最初は比較的優しかった上司が、日を増す毎に私の仕事の取り組みにイラつきを覚え始めたんだ。罵声、怒号、そして暴力……もちろん、自分のモノ覚えの悪いという自覚は持っていた。

 

人によっては、そのような教育のほうが体に刻み込むことができると思う人もいるかもしれない。でも、私にはその教え方は合っていなかった。


 パワーハラスメント――世間で話題になっている言葉だ。少しずつ拡大しているとは聞いていたが、自分の身に降りかかってくるとは思ってもみなかった。


 それは、日を増す毎にひどくなっていった。


「ホントにお前ムカつくな」


「普通はな、こんなの1回言われりゃできるんだよ」


「何でこんなことができねぇんだよ……バカか。男のくせにメソメソ泣きやがって……クソが……」


 朝6時出社――夜9時過ぎ。拘束時間は15時間、その間、鳴りやまない罵声と暴力の連鎖。


 毎日のように泣いてしまい、家に帰ればその上司の言葉を思い出し、心が割れそうだった。


 だけど――あきらめたくなかった。「一人立ち」さえしてしまえば、この苦しい日々からも解放されるはず。


 また、同期や直属じゃない上司たちが私の身を案じて、食事を奢ってくれたり話を聞いてくれたりしてくれたから。辛いのは自分だけじゃないんだ……なら、あきらめるわけにはいかないじゃないかと自らを叱咤した。


 そんな思いを胸に秘め、忘れないようにしながら――私は1か月仕事に取り組んだ。


 しかし――6月の中旬、体に異変が生じ始めた。


 朝起きたら――体の震えが止まらなくなっていた。寒いわけじゃない。だけど、体は小刻みにブルブルと震えていた。とりわけ、右手の震えがひどかった。


 私の仕事はルート営業。トラックを運転して品物を運ぶ仕事故、手が震えていては、交通事故を起こしてしまいかねない。怖いと思いつつも、私は上司に電話をかけ、病院に行く旨を伝えた。


 とりあえず内科に行き、体に異常がないかを見てもらった後、精神科を紹介してもらい、そこへ向かった。


 原因は断定できなかったが、極度のストレスと恐怖心から来るものではないかと診断された。私は診察してくださった医師に今の状況を説明した。


「今の状況で仕事をするのは危険だと思う」


 そのように言われた。


精神を安定させる薬を受け取り、休職したい時は診断書を書いてあげるからまた来るようにとのことだった。


 どっちの方がいいのだろうか……一人立ちも大分現実味を覚え始めた頃なのに、ここで休職してしまったら、それも遠のいてしまう……そんなことを考えながら一先ず家に帰った。


 すると早々――上司から電話が入った。


 私の様態を確認したかったようだ。隠してもしょうがないと思った私は、泣きそうになってしまうのをこらえながら、ストレスなどが原因じゃないかと言われたことを話した。


「ストレスか……明日明後日休みだから、それまでに治せよ。俺もちょっと言い過ぎたっては思ってるから。じゃあな」


 電話でしゃべっただけだというのに、私の体は大きく震えていた。左手で右手を抑えなければ携帯すら握れない程に。


 自分の身を第一に考えるなら、休職するのが最善だったと思う。だけど、私は上司の「言い過ぎたと思ってるから」という言葉に揺れていた。


 あの上司がそんなことを言ったのだから、次からは暴力などが少し和らぐのではないか……そうなってくれたら、後少し我慢することができる。


 そう思った私は、もう少しだけ頑張ってみようと思ってしまったんだ。


 ……それは大きな間違いだったと、私は嫌が応にも気付かされた。建前だったのだろう。


「おい、震えがあるだか何だか知らねぇけどよ。同じミスを何度もすんなって言ってるんだよ! ぶん殴るぞ、マジで」


「2日あれば治るだろ、普通……ホント猿以下だな、おまえ」


 言い過ぎたと言っていた人とは思えない、いつも通りの罵声と暴力を、私は受けた。その日は、1日中泣きっぱなしだった。


 そして……私は希望の光を見失ってしまった。


 何も感じなくなりたい、感情さえなくなればきっと今の仕事もまともにできる……マイナスのことしか考えられなくなってしまった。


 あきらめなければきっとってどこかで聞いたことはあるけど、それは嘘だったんだろうか?


 1つだけ決めたのは――休職しようということ。


 私はセンター長に休職届を提出し、2週間の休職期間をいただいた。センター長は、私が上司に暴力を振るわれていたことを知っていたため、「ゆっくり休んでくれ」と優しい言葉をかけてくれた。

そして「また元気になって戻ってきてくれ」とも言った。


 私はとりあえず、「ありがとうございます」と告げ、会社を後にした。


 罵声や暴力を受けない1日が送れるということは、素直に嬉しかった。だけど、それ以外に活路を見出すことは、その時の私にはできなかった。


 この後、私はどうすればいいんだろう。2週間経ったら、またあの生活が戻ってきてしまうだけなんだろうか? 傷を癒すために休職したのに、それではまた再発してしまう。


 かと言って、止めたらどうする? 職を失うことほど親不孝なことはない。


 頭の中で色んなことがグルグルと回り、私は何をどうすればいいか、全く分からなくなっていた。そして、私は次の日、風邪を引いてしまった。


 …………数日後、親から電話があった。


「とりあえず、地元に帰ってこい」とのことだった。


親には全ての経緯を説明してはいた。いつも大丈夫と強がりを言っていたが、今回ばかりはそれも通用しなかった。


 半ば強制的に、私は地元に帰省するのだった。


 地元に帰り、私は開口一番、家族に謝っていた。こんなことになって申し訳ない、自分が情けないと何度も謝っていた。


 だけど、家族は「何で謝るんだ」と言った。


 私は言葉を続けようとしたが、それは父の言葉によって遮られた。


「お前はよくやった。体がここまでボロボロになるまでよく耐えた。弱音を吐かないでこれだけの期間我慢するのはなかなかできたもんじゃない。俺なら、もうとっくにその会社を辞めてると思う。だけど、お前はあきらめないで続けてきた。それはすごいことだ。自分を褒めていいと思うぞ」


 ……普段、あまり褒めたり労ったりしない父がそんなことを言うとは思っていなかったため、私はどうリアクションをとっていいのか分からなかった。


「俺は確かに、大学を卒業したら自分の力で頑張るんだとは言った。でも、それは俺たち家族に頼るなって意味で言ったんじゃないんだ。社会人として立派に成長するには、そうしてみるのがいいと言っただけだ。お前のことだ、こうして無理にでも帰省させてやらないと、一人で抱え込んでしまうだろうと思ったんだ。俺たちは家族なんだ、もっと色んなこと相談して、色々打ち明けてくれていいんだぞ? それが親としての使命なんだから」


 父の発言に、母、姉、祖母も頷いていた。その言葉を聞き、私は号泣してしまった。


 そして、帰省している間、私は家族とたくさんのことを話しあった。そして――一つの決断をした。


 私は、統括に退職届を提出した。帰省中、何度か電話をし、その旨を伝え、休職明けにそれについて話し合いを行った。


 統括はセンター長から私の話を聞いており、どうして休職になっていたのかを知っていた。そして、それについて上司と話し合いもしていたらしい。だけど上司はその時に、


「振り払った手がたまたま当たってしまった」

「あまりにも仕事の覚えが悪いから怒鳴りはしたが、叩いたりはしていない」と供述したようで、付き合いが長いであろう統括は、その言葉を信じたようで、「最終的には君が悪かったんじゃないか?」ということで話をまとめていた。


 何となく、そういうことを言われるのは予想はしていた。上司は会社の右腕的存在、それを失うくらいなら、新人一人を犠牲にするほうが負担は軽くて済むだろうから。


 訴えれば勝てるレベル……医師はそんなことも言っていた。でも、私はそれをしようとは思わなかった。


 どんなことを言われようが、辞めることができれば何でもいいと思っていたのもあるが、何より精一杯頑張っている同期のことを考えると、大きな問題にしたくはなかった。


 つくづく皮肉なもんだと思う。


 大学時代に死にもの狂いで就活して、やっと手に入れた内定なのに、たった2か月で手放してしまうのだから。


 こんなことなら、もう少しリラックスしてやればよかったかな? と後になって考えてしまった。


 だけど、2週間の休職をして退職したことで、体の症状は大分収まってきていた。毎日受けていた恐怖感がさっぱり無くなった分、体の強張りがとれたのかもしれない。


 こうして、私は無職となった。


 家族には、少し仕事から離れて休んだらどうだ? と提案してもらった。だが、私はそれを断り、職安で仕事を探すことを選んだ。


 もちろん、仕事を離れて休むのもいいかな? と思った。だけど、励ましてくれた家族に、少しでも早く恩返しがしたい。今私ができる恩返しと言ったら、次の仕事を見つけ、給与を取得し、金銭面の負担を少しでも軽くすることではないか、と考えた。


「無理だけはしなくていい」


 父のその言葉を胸に刻み込み、私はしばらく、職安で自分に合っていると思う仕事を探した。


 良くか悪くか、拘束時間が非常に長かった分、どの仕事も前の仕事よりは良く見え、選択の幅は非常に広くなっていた。


 そしてその中で、ある仕事が私の目に付いた。


【学童保育補助指導員】


 小学校低学年の放課後の安全を守る仕事だ。幸い、私は大学時代に教員免許を取得しており、子供についての知識は多少持っていた。

また、友人にそのアルバイトをやっていた子がおり、話を聞いたところ、結構楽しい仕事だと言っていた。


 夏休み期間限定の仕事だし、仮に自分に合わなかったとしても短期間なら我慢することはできる――そう思い、私はその仕事の面接を受けてみることにした。


 結果、私はそれに合格し、仕事をさせてもらうことになった。


 初めてやる仕事というのもあり、初日はかなり緊張しながら仕事場に向かった。


 だけど、保育クラブに入るやいなや


「あ、新しい先生?」

「わ~、若い。しかも男の先生だ~」


 子供たちは笑顔で私を迎えてくれた。それを見ただけで、私はこの仕事は良い仕事だと感じていた。


 実際、補助指導員の仕事はとても楽しかった。子供と同じ目線になって一緒に遊んだり、物事を考えたりする……やることは単純だから、モノ覚えの悪い私でもすぐに覚えることができた。もちろん、子供たちが喧嘩をした時の仲裁の仕方など、難しい面もあったりするが、その辺はメインの指導員の先生がカバーしてくれた。


 やりがいを感じたし、何より私を慕って笑顔で集まってきてくれる子供たちに勇気を貰うことができた。指導員の先生たちも良い方たちばかりで、優しさの溢れた対応に、私は心が熱くなった。


 夏休みの間の仕事は、あっという間に過ぎていった。


 そして、私の雇用期間がわずかに迫っていた時、指導員の先生からこんなことを言われた。


「メインの指導員さんになってみない?」と。


 補助ではなく、メインとして子供たちを根幹から支えていく仕事のお誘いだった。補助の時とは違い、事務的な面や子供の管理など大幅に仕事が増えるということは、指導員の先生から時々聞いていた。だけど――


「普段の先生の仕事ぶりを見る限り、メインでもイケるんじゃないかな~って思ったの。もしよかったら、社会福祉の方に推薦のお電話入れてあげるよ」


 と、ありがたいお言葉をいっていただけた。


 今の自分に大切なことは、やっていて楽しいと感じれる仕事をやること。そう思った私は、是非お願いしますと指導員さんに頭を下げた。


 以前とは真逆の、人の温かみを感じれて、本当に嬉しかった。


そして、私は無事にメインの指導員として採用していただいた。その職場の方々には何度もお礼を言い、いつか恩返しをしようと心に誓った。


そして、10月1日より、私はメインの指導員として以前とは違う現場に配属された。


 そこの子供たちは、以前の保育クラブの子たちと違い、子供らしい子供たちがたくさんいた。


 同じことを何度も言っても聞かない、自分の思うようにならなければ気が済まない……地域によって子供の特色が全然違うんだと言うことに気付かされる。


 メインということもあり、補助の時よりも圧倒的に仕事量は増えた。子供たちの様子、出席管理、おやつ、消耗品の調達など、全てを事細かに管理することを要求される。


 最初は、上手くこなしていけるかな? と不安があったが、それも同じ職場の人たちがフォローしてくれたおかげで覚えていくことができた。

「先生が来てくれて、本当に助かってるわ」

「ありがとね、先生」


 人に感謝してもらえることがこんなに嬉しいと思えたのは久しくなかった。


 これが、仕事を行っていく上でのやりがいなんだろうと、私は感じた。


 そして――私は現在もメインの指導員として日々の生活を送っている。


 私は、この1年は今までで一番たくさんのことを学んだ1年になったと感じている。


 挫折……体の危険信号……人や家族の温かみ……仕事……。


 何も見えなくなった時もあった、何も感じたくないと、悲しみのどん底に落ちた時もあった。


 だけど、一度どん底まで落ちたら後は上がっていくことしかできない。それに気付けなかったら、今の私はいなかった。


 きっと、上司が別の人だったら、私は今もあの仕事を続けていただろう。だけど、結果的には辞めることができて正解だったのかもしれない。あそこで辞めていなければ、今の仕事に巡り合うこともなかったし、仕事にも楽しさややりがいがあると言ったことに気付けなかっただろう。


 この1年を、私は忘れないで生きていこうと思う。


 これから先、また同じような時期に直面するかもしれない。だけど、一度くぐり抜けてこれたのだから、次もきっと、乗り越えることはできるはず。


 色々あったけど、この1年は私にとって、かけがえのない1年だったと胸を張って言える。



 また明日も、頑張ろう――。



END


読んでいただいてありがとうございました。

気分を害してしまったら申し訳ありません。

来年もがんばりましょ~<m(__)m>

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― 新着の感想 ―
[一言] よくここまで自分の辛かったことや良かったことを書けるようになりましたね。パワハラでうつになる人も多い中、立派だと思います。前の仕事が辛かった分、新しい仕事が楽しいようで何よりです。
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