風が吹き、雷がなる
夜の闇に飲まれたといえど、かって知ったる学校内、地の利は容易に得ることができる。
耳を麻痺させるような無音のなか、心音だけが激しく鼓動していた。少し走っただけなのに、全身汗びっしょりで、殺されるかもしれないという恐怖心は、確実に彼を蝕んでいった。
夢の中の殺人鬼なんていつか観たホラー映画そのまんまだ。鉄の爪がアイスピックに変わっただけのB級ホラー、現実にも影響を与えるとか、設定だけなら間違いなく放映前に待ったがかかるだろう。
複雑に校内を走り回ったお陰で追撃者は簡単にまくことができた。休憩といきたいところだが、目的はまだ達成できていない。前進を拒否する自らの両脚部を叱咤し、息も絶え絶えに歩みを進ませる。
学校という閉鎖された空間を逃亡場所に選んだのは有効打を浴びせられる武器を入手するためだ。
たしか、ここら辺に……。
稲葉の夢は確かなものだったらしい。暗闇で映える、エマージェンシーを伝える赤。
消火器は両手でちょうどいいくらいの重量だった。
扱いにくい消火器より校内にはもっとましなものがありそうなものだが、ヒマワリから受け取ったヒントではストーリーで使用された物は必須らしい。
「とりあえず、これで」
力無く呟いて、くぐせになりながらも引きずるように鈍器としては落第生の消火器を持ち上げた。
勝率がゼロに近いことを、物語の作者は誰よりも理解していた。アイスピック男はセオリーを詰め込んだ、 B級ホラーの怪人なのだ。あがいたところで、理不尽な最期が、残酷に口を開けて待っている。
ネガティブに呑まれそうになりながらも必死で精神分析の名を冠した希望的観測を続ける。
バッドエンドを望まない彼女が、俺を苦しめるはずがない、そう信じよう。
アイスピック男の本文、主人公が怪人と対峙してこれを撃退した、物語の山場の1つを結城は思い出していた。煙幕を浴びせてから顔面に消火器の底を叩きつける。相手の動きは攻略サイトに記されているラスボスの行動パターンより明確にイメージすることができた。
油断して、死を確認しなかったことが主人公の敗北に繋がったのだから、俺は確実なとどめを浴びせればいい。そこで、完結すればハッピーエンドだ。
息を整える。死地にしないための覚悟は思っていたよりすんなり固まった。
正面に夜の闇をまとった包帯まみれの男が立っていた。手には細長いアイスピックが握られていてわずかな光源が不気味に刃を光らせている。男はいぶかしむようにゆっくりと歩いてきていた。
逃げずに向かい合い、希望を込めて消火器を持つ手に力をいれた。興奮した雄牛の鼻息のような笑い声が小さくに廊下に響いた。結城の持つ消火器の殺傷能力を軽視しているのだろう。
物語を終わりにするため、彼の脚は迅速に動く。
「うおっおおぉ!」
飢えた獣が如く雄叫びを一喝とばかりに身をひきしめらせながら駆け出した。
予めピンを抜いてあった消火器のホースを男にむけ、レバーを力一杯握る。白い粉塵が轟音とともに吐き出され一気に相手を飲み込んだ。悲鳴はない、ホラーの怪人足るもの常に余裕綽々であれ、ルールに従っての沈黙であるが、安心感は得られなかった。
これで怯んだはず、結城は噴射を止め幾分軽くなった消火器を振りかざし、粉塵が舞う煙の中に飛び込んだ。
あとは、簡単だ、顔面に、これを……。
「あがっ!!」
シミュレーション通りの進行を行おうと勢い込んでいた彼の肩に電撃めいた激痛が走った。すべての痛覚が、集中しているのではないかと疑いたくなるほどの、強烈な傷み。
失敗した!
思うより早く二撃目が頬を掠める。重心がぶれていたため、偶然にも避けられたみたいだが、それを喜べるほど右肩の傷みは尋常ではなかった。貫通している?いやいやいや、血が血が!
「うっぐぅぅぅっっ!」
力が入らず、持っていた消火器を落としてしまう。左手で傷口を押さえつけながら、結城は消火剤が撒き散らかれた廊下に倒れこんだ。
顔の横で綿ボコりみたいに白い煙が舞っている。暗闇でも、なんだか明るく感じられた。
夢だろ、これは夢、なのになんでこんなに痛いんだよ!
舞っていた消火剤の細かい粒子はすべて廊下におちたらしい。
シャツは赤く染まり、止めきれない血液がベットリと廊下に垂れた。苦悶で閉じかける瞳を何とか見開くと、アイスピック男は、水溜まりで溺れる蟻を観察する子どものような純粋さでこちらをジッと見ていた。
絶え間なく続く痛みのリズムに歯を食い縛り、愉しそうに歪むアイスピック男の瞳を、ふらふらと立ち上がりながら睨みつける。
握力一杯まで出血を抑えようと肩に添えていた左手を放し、血で濡れた握り拳をつくる。もうズッシリとした消火器は握れそうもない、ならば、徒手空拳しかないだろう。
「うらぁぁぁ!」
自らを鼓舞するために叫んで、包帯のまかれたアイスピック男の顔面に、左拳をふりつけた。
だがダメージを与える前に腹部を蹴られ、横の教室のドアをぶち抜き吹き飛ばされた。
呼吸がまともにできない。惨めだった。喧嘩はもとより殴りあいなんて初めてだ、ましてや殺しあい。
勝てるわけないだろう。
揺らぐ視線が、天井の白熱灯を捉える。ぼんやりしかけたが、直ぐに気を取り直し、視線を教室の入り口に向ける。床に倒れたドアを踏みつけ、アイスピック男が教室に入ってきているところだった。立ち上がる気力はない、万事休すだ。
「いなばぁ……」
呼吸の隙間で彼女の名前を呼んでいた、瞬間だった。
「迅雷耳をおおうに暇あらず!」
声が響いたかと思うと、稲光のような閃光が走り、アイスピック男は吹き飛ばされて彼の視界から消え失せた。
何事か、と目を見開いてみると、入り口には大柄の男の代わりに華奢な少女の矮駆があった。暗くてよくわからないが、助けてくれたのだろう。
「立てますか?」
早口に気遣いの言葉をかけると彼女は結城に駆け寄った。なんだ、どうやって、いまのは、疑問がふつふつと沸いたが、現れた少女に込み上げた安心感のほうがでかかった。
「桃、ちゃん……」
「無事で何よりです」
差しのべられた手を、現実世界でのいざこざからか、素直に受けとることが出来なかった。
「どうやって、来たんだ?ヒマワリが干渉がうまくいかないって」
「少し強引な手を使いました」
追い詰められての助っ人に心底感謝しつつも、男としてのプライドを守るためなんとか一人で立ち上がろうとした。
「薬で一時的に催眠に引っ掛かりやすい状態に調整しました。冥利の波に乗れるかは賭けでしたが、なんとかうまくいったみたいです」
ガクンと力がぬけ、そのまま崩れかけた彼の腰に手を回し桃は平然と言葉を続けた。
「ですがあまり期待をしないでください。招かれざる客の私の干渉度は高くありません。オンラインゲームでいう接続が落ちやすい状態にあります」
「いや、それでも、有り難いよ。ほんとすまない、助かる」
何より先に掠れ声で礼を告げる。痛々しい少年の姿に桃は顔をしかめながら、彼に肩をかして立ち上がらせた。
「さっきのがアイスピック男、ですか」
「ああ」
頷いて、柔らかい少女の体つきに頬を赤らめた。助けてくれたのに不謹慎だと、思いつつも、ちょっとした役得だ。そんな結城に気付かず、桃は真剣な眼差しで、ぽっかり開いた教室の入口を警戒している。
「グロテスクな様相ですね。作者のセンスを疑います」
「……すみません」
「弱点みたいなものは無いんですか?ホラーの怪物がモデルなのでしょ」
「特にそういうのは設定してないんだ」
耳元で溜め息をつかれる。
「しょうがないだろ!こんな状況になるなんて予想してなかったんだから」
「やむを得ません。強行手段です」
桃は小さく呟くと目付きを鋭く懐から数枚、長方形の紙を取り出した。
「冥利の想定しているストーリーから外れます。現実に何らかの影響が起こるやもしれませんが、被害を抑えるためは他に方法がありません」
「できるのか、そんなこと。俺が言うのもなんだが相手は無敵の猟奇殺人犯だぜ」
「あくまでもこの世界は夢、なんでもありです」
自らに言い聞かせるように呟くと、桃は大きく息を吸った。
「肩、怪我してますよね」
「ん、ああ、刺されたんだ」
「強く思いこんで下さい、所詮夢の中の出来事だと」
「いや、さっきからやってるけど、傷みは全然引かないぞ」
「脳は簡単に騙されます。そのほとんどが視覚によって得られた情報がもとで、です。いいですか、ユーユーさん、冥利の夢に騙される前に、自分で自分を騙すんです」
「そうはいっても、かなり痛いし」
勢い任せに肩をアイスピックで思いっきり刺されたのだ、痛くないわけがない。
「一種の幻肢痛みたいなものです。目を閉じて」
言われるがまま、素直に彼女の言葉に従う。
「そのまま、これは夢だと思いこんで下さい」
「……ん」
これは、夢だ。
「……」
「どうですか?」
「めちゃくちゃ痛い」
「まあ、コツがいりますから」
多少呆れがちに桃は続けた。
「ともかく私が行うのは、それとおんなじことなのです。睡眠中といえど、聴覚や嗅覚は機能し、外界からの影響は夢見に少なからず影響を与えています。現実のヒマワリと力をあわせ、内と外、この冥利の世界で120パーセント力を発揮できるよう調整を行います」
「ヒマワリと?」
「電話できたでしょう」
「あ」
「メカニズムはわかりませんが今までとは比べ物にならないほどリアリティのあるこの夢ならば可能です。それに私たちは意思を睡眠中でも伝えられるよう日頃から訓練しています」
おしゃべりの最中、身体の芯まで響くような足音を立てアイスピック男が教室に顔を覗かせた。影になっているはずなのに、白く濁った眼球が不気味に光っている。
恐怖に身を固まらせた結城の横で、桃は至って冷静に言葉を紡いだ。
「PTSDで悪夢を反復している人に内容を操作する明晰夢のやり方を教えることでトラウマを解消させる手法が研究中だそうです。私の夢と冥利の夢をぶつかり合わせるのは、気乗りしませんが……」
桃は小さく鼻で息をはいてから、手に持っていた四角い紙を男に向けて差し出した。
「おい!そんなお札みたいな紙を掲げたところで意味なんてないだろ!早く逃げろ!」
「みたいな、とは失礼な。お札をイメージしたんですけど」
子どもっぽく頬を膨らませると同時に、札の一枚が光を放ち宙に浮かび上がった。結城はその手品のような出来事に目を丸くする。
「迅雷耳をおおうに暇あらず!」
呟くと札は青い電撃となって、目にも留まらぬ速さでアイスピック男を突き刺さった。
土砂崩れのような轟音とともに閃光に押し出される形でアイスピック男は廊下の壁にぶつかった。
「焔焔を滅せずんば炎炎をいかんせん!」
また呪文のような言葉を並び立てると、別の一枚が光りだし、火柱が男の体を包み込んだ。
「な、な」
ファンタジーのような出来事に口をぱくばくさせる結城に桃は注釈を加えるようにささやいた。
「冥利の夢に無理矢理私の夢をぶちこみました。荒っぽい手段ですが、状況が状況、やむを得ません。あとは現実に現れる影響が少ないことを祈るばかりです」
地の底から響く畜生の断末魔のような声をあげ、炎を取り払おうと必死でもがいていたが、やがて力を失ったように男は崩れ落ちた。
「し、死んだのか?そ、それにしてはあまりにも呆気ないが」
確認するまでもないだろう。黒い煙はやがてたち消え、辺りに嫌な臭いだけが残った。
「一人で平気ですよね?」
あんぐりと口を開ける結城から桃はそっと離れると、横たわる黒ずんだ死体に獲物を狙うハンターのような慎重さで近づいた。
「あ、おい!」
傷口を押さえつつ彼女の隣に立つ。
「な、なんなんだよ、いまの、お前の夢って」
「雷除けの札があるんだから招雷の札があってもおかしくないでしょ?古来よりタケミカヅチやワケイカヅチやら日本には雷神様多くいらっしゃいます。お力をわけていただいて効力を発揮するのにお札は最適な手段なのです」
しれっと頭を抱えたくなるようなことを言う。
「……という設定です」
能力系バトル漫画にありがちな展開に、若干引きかけた結城の視線に桃は仄かに頬を染めた。
「所詮は夢、自覚さえあればコントロールは可能ですから」
「か、勝ったんだよな?」
黒い塊と化したアイスピック男はピクリともせず廊下に倒れたままである。気を払いながら近くで確認してみても、生きているのが奇跡みたいな状況だ。
「ええ、強制終了です。おそらくこれで、」
彼女より先に結城は気づいたが、手のだしようがなかった。
にこやかな言葉は最後まで紡がれることなく、代わりに短い悲鳴が起こった。
背後から頭部めがけて切りつけられたのだ。幸い掠めただけだったが、続く二撃目の横殴りの攻撃をまともにくらい彼女は石ころのように吹き飛ばされた。終わっていなかったのだ、なにもかも。
「桃ぉっ!」
慌てて駆け寄り、身体を起こさせる。
肩を大きく揺らしながらアイスピック男は二本の足でしっかり立っていた。
「大丈夫か!?」
「私はいいからあいつをっ!」
焦げた臭いをまといアイスピック男は自らの武器を携えた。
それを背後で感じながら、引きずるようにして桃を背負い、男と距離を取ろうとヨタヨタ廊下を歩く。
逃げ切れるはずがない。憎々しげな声をあげ、半狂乱なアイスピック男が襲いかかってきた。
「うがっ!」
脇腹に鋭い痛みが走った。桃を支えていた結城は彼女とともに倒れ込む。刺さったままだったアイスピックが引き抜かれ、再び振りかざされたのを横目で確認しながら桃を力一杯突き飛ばした。攻撃を加えた彼女より、どういうわけか俺がメインターゲットらしい、そう判断しての行動だ。
「結城、さん!」
悲痛な叫び声が耳に届く前にアイスピックが最初と同じ左肩に突きたてられた。
「あがぁぁぁ!!」
男は馬乗りになって執拗に結城に攻撃を加えている。腕を振り上げられるたび、肉がひっばりあげられグッチョグッチョとグロテスクな音が耳についた。
尋常でない痛みの連続、二回、三回、スコップで砂場遊びをしているように肩が貫かれる。
喉が嗄れるほど、結城は絶叫し続けた。
もう死んだほうが楽なんじゃないかと思う一方、まだ死にたくないと強く思う自分がいる。
「風に従いて呼ぶ!」
身体の上に小型台風のような塊が弾け、アイスピック男は回廊の暗闇に消えていった。
「無事ですか!?」
「いたい、かたが、もう」
「結城さん……」
意識が朦朧として、ろくに返事が出来なかった。
「目を閉じて」
「もう、だめだ、なにもかも、桃ちゃん、稲葉に謝って」
「目を閉じろと言ってるんです!」
桃の怒鳴り声に反論する気も起きず、素直に従った。瞼の裏の視界はなんだか赤く染まり、肩の痛みはますます激しくなっていく。
「これからあなたに治癒魔法をかけます。一瞬で傷みがなくなる回復呪文です」
「冗談はもういい、疲れたんだよ、なんか」
「信じて!!」
事態は逼迫していた。桃は泣いているのだろう、微かに声が震えている気がした。
「……わかった」
気を失いそうになる傷みのなかで結城は何とか頷いた。




