真夜中のグシャグシャ
両親が共働きの結城家では、母親は夕方になるまで帰ってこない。兄弟は今年大学生になった姉が一人いるが、サークル活動が忙しいらしく帰宅はいつも夜になっていた。
サボりを見咎められることなく、自室に辿り着いた結城はだらしないほどはっきりとしたふて寝をし始めた。制服から着替えぬまま、ベッド倒れこんだ彼の鼓膜が、骨が軋ませる残響に揺らされる。毛布も被らず、現実から逃げるように開始された睡眠。単にやることがなかったからというのもあるし、意識をシャットアウトしなければ自らの最低行為に対しての自責の念を強くしてしまうからでもある。
夢は見なかった。
疲れているからか。何日かぶりの平穏とした眠り。身体の芯までリラックスしているのを無意識下で感じる。
なのになぜだか、少し寂しかった。
目を冷ましたのは、数時間後、時計を見ていないので正確な時刻はわからないが、開け放たれたカーテンの向こうの空は暗く、既に夜を迎えているようだった。耳が痛くなるほど静かな夜だ。
「っ、はぁ」
呻くようなため息をついてから、上半身を起こす。枕の横に置いておいた携帯をポケットに突っ込みゆっくりと立ち上がると、視界の端が立ちくらみの黒いもやにじんわりと侵食されていった。ろくに寝返りをうたなかったのだろうか、身体の節々が凝り固まっていて、血流が滞っている気がする。季節は初夏といえど、毛布を羽織らなかったので身体の芯は冷えていた。そのくせ制服のシャツは汗で背中に張り付いている。
鈍く痛む額に手をあて汗ばんだ足の裏でペタペタと、階下のリビングにむかう。
「母さん、ご飯は」
室内は不気味なくらい静まり返っていて、ぼんやりと夜の色に染められていた。首を捻りながら、壁に備え付けのスイッチを入れると、数回瞬いてから暗闇を切り裂く明りが灯る。
まだ帰ってないのか。
当たり前の結論に至った結城は、時刻が気になり水槽の上の壁掛け時計に目をやった。
アナログ時計の短い針は12を少し過ぎたところ、1時17分。電池でも切れているのだろうか。そんな時間でこんなに暗いはずがない。ましてや午前なんてことはありえないだろうし。
めんどくさいが仕方がないと、ポケットから携帯を取り出して、液晶に表示された時刻を確認してみる。電波で受信する時間に間違いがあるはずがない。
「ん?」
13:17。
デジタル表示が、点滅しながら彼に時刻を教えていた。背筋にうっすら寒気が沸いてくる。偶然、偶然だ、と混乱しながらも、秒数表示に切り替える。点滅しているのなら、時間は前に進んでいるはずだ。
ところが、07秒から08秒に進むことはないみたいだ。
「基地局がやられたのか」
何に?
「新手のスタンド使い?」
ばかな。
「......」
意味のない独り言は、静まり返った空気に、ゆっくりと溶けていった。
冷静になるよう、自ら言い聞かせる。
意味不明な状況の唯一の救いは明かりが灯っていること、電気は通ってるんだ。そうだ、何の問題もない。電話だって通じるだろうし、携帯の電波状況はバリ3だ。
聞いたことがある。少し前にイタリアのシチリア島で時間が15分ほど早く表記される謎の現象が起こったそうだ。電力網になんらかの影響が与えられて発生した事案だそうだが、いや、あれはたしか、デジタル時計オンリーだったか......。
「テレビ、テレビは」
呟くと同時に、テーブルの上の新聞と一緒に放置されたリモコンに手を伸ばし、希望を込めて電源ボタンを強く押す。彼の一僂の望みを裏切るように本体の30インチはウンともスンともいわなかった。
その認めたくない現実が、続々と脳裏に嫌な予感を植え付けていく。
稲葉冥利。
彼女の名が浮かぶのに時間はかからなかった。
この空間はあまりにも都合が良すぎる。電灯は灯るのにTVはつかない。時計の針は進まないが、時間の流れを意識することはできる。
俺が睡眠をとっている間に稲葉の催眠誘導能力とやらが発動したのだろう。
夢か現か、実際の感覚として曖昧なのがあいつの力の恐ろしいところだ。
「くそっ」
関係を断ち切るような別れ方をした手前、今更彼女とかかわり合いになるのはひどく億劫で、煩わしい出来事でしかない。
結城は舌打ちをし、ソファーに腰を下ろした。
ほっとけば、向日葵たちが助けに来てくれるだろう。だから、今はなにもかんがえずに、呆けていればいい。
他人任せな希望的観測を結論に、長いアクビで締めようとしたとき、ふとした疑問が沸いてきた。
この家は、俺の見慣れた空間だ。
「……」
今まで彼女が造り出した空間の共通点は全て稲葉冥利のイメージするそれっぽい情景という点だ。一番初めは2年1組の教室を具現化してはいたが、あれは実際の空間を彼女が知っていたからイメージするのは容易かっただろう。だけど、ここは、確実に俺の家だ。間取りから家具の配置、壁の染みや、三歳のときにつけた柱の傷まで、いくら彼女の想像力がたくましかろうと、ここまで詳細に作り込むことは不可能だろう。ましてや、女子をウチに招待したことも、結城にはない。
なのに、なぜ、なんで、どうして、あり得るはずがない。知りもしない稲葉冥利に、結城裕也の世界を構築することなんて不可能なのだ。
血の気が引く、とはこの事をいうのだろうか。半分以上、ホラー小説の導入だ。
すがるように携帯をネットワークに繋げようとするが、画面は接続中から移動することはなく、キーが汗でぬるぬるになるだけだった。
俺は、イマドコにいる?ここはほんとに家なのか?起きているのか?寝ているのか?何で時間が止まってるんだ?なんで誰も帰ってこないんだ?なんで、なんで、なんで……!?
こんな自問を続けていては、狂ってしまう。手っ取り早く確かめてみよう。
自動車の音も、風が木の葉を揺らす音もしない。無音。そんな世界に飛び出すのは勇気がいるが、なにもせずに、あれこれ思考を巡らせるよりましだろう。結城は玄関でローファーを履き、現実を確認するため、外出を開始した。
煌々と、街灯が夜道を照らしている。
それ以外、世界は異常で満たされていた。
まず、音がしない。風がない。青葉の豊かな香りがしない。人がいない。
例え深夜だとしても、虫の声さえないのは異常であろう。草木も眠るなんて表現があるが、あれは只のものの喩えだ。
歩けば、歩くほど、結城は目眩を覚えた。
ひとつの救いは地理的には、彼の住む羽路市の見慣れた町並みという点、だからこの先どこに何があるのかもわかっている。
入り込みミラーで作られた鏡面世界のようだった。
自分の知ってる界隈なのに、拡がるのは見慣れぬ景色。頭がどうにかなりそうだった。
「あっ、人?」
中途半端に国道を照らすオレンジ色の光りが、薄暗闇にぼんやりと人形の影を浮かび上がらせていた。歩道の真ん中で立ち尽くすその人物、一瞬作文部の誰か誰かかと思ったが、どうやら違うらしい。
大柄な男だった。遠くで顔はうかがい知れないが、その体格は中学生のものではあり得ないほど、がっしりとした筋肉質だ。
もちろん怪しいとは思った。この空間が稲葉の造り出したものだとしたら、それに存在している時点でただ者ではあるまい、向日葵たちや桃と同じような夢に干渉する能力を持ったものか、稲葉冥利の想像上の人物か、の二択である。
わかってはいるが、一般的な遭遇を、結城は素直に喜んだ。
「すみません、あの……」
会話の出だしに何を選べばいいのかわからなかったが、純然たる安堵を抱いてその人物に話かけてみることにした。
正面から男と顔を合わせる。
「ここって羽路市内ですよね?」
男の顔面はくすんだ包帯が巻かれていて、作業服のようなビブ・オーバーオールを着込んでいた。アメリカの農夫がよくある格好みたいなものだ。紺色はオレンジに照らされ褐色じみた色になっていた。
「っ」
「……」
不気味な様相に結城は絶句する。質問には答えず、男は大きな腹ポケットに右手を突っ込んで引き上げた。
「あ、あんた、は」
その格好には見覚えがあった。正確には、綴ったことがあったのだ。ジェイソンやフレディのようなスプラッタホラーに登場するビザール殺人鬼を意識して造り上げられた、キャラクター。
男の手にはアイスピックが握られていた。
「おいおい、冗談だろ!」
男は尚も無言。
アイスピック男は結城裕也が創作した架空の怪人である。稲葉冥利に読まれた自作小説の題材の登場人物の一人だ。
最大の特徴は名前にもある凶器のアイスピック、そして、小説の中での設定では、彼はイカれた連続殺人鬼。
男はしなるような腕の動きで、まっすぐ躊躇する様子なく、先端の尖った部位を結城の喉目掛けてつきだした。
夢の中で傷つけば、現実にも――。
間一髪避けた彼の脳裏に耳にタコができるほど聞かされた向日葵の忠告が甦る。
「嘘だろ!」
死への恐怖か、はたまた自分の妄想の痛々しさか、結城は泣きながら踵を返して、走り出した。
アイスピック男も、結城に続くように走り出したのが、足音でわかる。ホラー映画の怪人同様足は早くないので簡単に巻くことができたが、突き当たった問題は悪化の一途を辿っていた。




