その2
この学校の敷地全体が、周辺道路よりも掘り下げられて造られている。小規模な盆地地帯のような感じの地形である。大雑把に表せば、北側に運動場、南側に校舎。運動場の中央がサッカー・コート、東側に野球場、西側にハンドボール・コート、そして問題のテニス・コート場。
木村は、テニス・コート場辺りを見回したが、人がすぐに隠れるような場所はない。問題は、外部からの侵入者だが、土地を掘り下げてあるため、テニス・コート場は、土手に囲まれた状態である。おまけに防犯と飛散ボール防止のため、高さ三メートルほどのネットが張り巡らせれている。もし、外部から侵入しようとするならば、一旦道路から土手を降り、とても強度の弱いネットを、破らないようにユラユラ揺れながらを三メートルの高さまで登り、それをまた下る。帰りはその逆の行動繰り返す。(あり得ないよなぁ。)
さっき少年がいたと思われる場所に立ち、自分がいた方向を眺めた。間違いなくこの場所に少年はいた。
そろそろ夕闇が運動場を包み始めるころだ。納得できない状況だが、木村は探索を諦め、職員室に戻ることにした。
職員室に戻った木村は、和田をはじめ、まだ残っている数名の教諭に状況報告をした。野球部の担当は、三十分ほど前に帰宅してしまったので、生徒の特定はできなかったが、家庭から生徒の足取りを問う電話やメールは無いので、この場は、事故・事件性はないものと判断され、各々帰宅することになった。木村の勘違いかもしれない。しかし、教頭は褒めてくれた。問題を見過ごして事後報告されるより、勘違いで後に笑い話になるくらいの方がましであるとのことだ。木村は久しぶりに人に褒めてもらった気がした。生徒を褒めて育てるように、学生時代に教えられたが、確かに褒められると嬉しいものだ。明日から、もう少し生徒を褒めてみよう…木村は教師として一歩進んだ気がした。望んでいるわけではないが。
職員室も閑散としてきたが、教頭と生活指導担当は、一応念のために、まだしばらく残るとのことだった。
木村は、通勤用の自転車にまたがり、駅に向かった。学校の近くにアパートを借りることも可能だったが、小さな町である。オフの時まで、生徒やその家族に会う機会が頻繁にありそうなので、あえて電車で四十分ほどのところに住処を借りた。駅に着いても、知っている顔に会いたくないので、いつも下向き加減で行動する。人付き合いが悪いと思われているだろうが、職場の誘いも一切断り続けている。とにかくイヤなのだ…教員をやっていることが。
電車に乗り込んで、進行方向を背に二人掛けの席の窓側に座った。さほど混んでいはいない。席もまばらに空いている。立ったまま音楽プレイヤーを聞いている者、おしゃべりに夢中になっている女性グループなど、普段と何も変わらぬ平日の夜の風景である。
木村は徹底していた。改札口も日々変え、ホームで電車を待つ位置も毎回変え、座る位置も毎回変える。ここまで徹底してるのは、常連の顔を覚えたくない、覚えられたくないからだ。いつもビジターでいたいのだ。
家に着いたら、大学時代の友だちとくだらない内容をチャットで会話して、ネットゲームをして、ごく普通の若者のままの姿でいたい。「先生」なんて肩書きはいらない。
木村は自然と視界に入る夜景を無関心に眺めていた。車窓のガラスに反射で映る車内の様子も気を引くことはない。
…はずだった。木村は、びっくりし過ぎて、目を丸くしてガラスに映る車内を見た。少年だ。
木村は、体ごと車内の方へ向き直った。少年が立っている辺りを凝視した。
いない。もう一度窓ガラスに映る車内を確認した。いない。錯覚?夕方の潜在意識が錯覚を見させたのか?でも、今のは少年の顔まで分かった。知らない顔だった。無表情に野球部の真っ白のユニホームを着て直立不動で立ってこちらを見ていた。しかし、車内のその位置には、女子高生三人がそれぞれ携帯を片手に大騒ぎしているだけだ。確かにこの三人もガラスに映っていた。少々うるさかったので、気になっていた。もし、少年が本当にいたとすれば、あまりに似つかわしくない情景だ。
それもほんの一瞬、この車両から急に移動することは不可能だ。
その時、背筋に電気が走った。
俺は、見てはいけないものを見てしまったのか?