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悪役令嬢は王冠を望まない だからどうぞ、沈みゆく国でお幸せに

作者: シオン
掲載日:2026/09/12


第一章 完璧な悪役令嬢


「リディア・アルヴェイン。貴様との婚約を、本日この場をもって破棄する!」


王立学園の卒業記念舞踏会。


金色の燭台が照らす大広間で、王太子エドガーは高らかに宣言した。


楽団の演奏が唐突に途切れ、磨き上げられた床の上で踊っていた生徒たちは一斉に足を止める。


数百もの視線が、ひとりの令嬢へと集中した。


リディア・アルヴェイン公爵令嬢。


艶やかな黒髪に、冬の夜空を思わせる濃紺の瞳。深紅のドレスをまとった彼女は、今夜の主役と呼ぶにふさわしい美貌を備えていた。


そして同時に、学園で最も嫌われている令嬢でもあった。


冷酷。


傲慢。


完璧主義。


身分の低い者を見下し、失敗を決して許さない。


陰では「氷血の悪女」と呼ばれている。


もっとも、その噂を広めた者たちの多くは、リディアが実際に誰かを虐げている場面を一度も見たことがなかった。


「理由をお聞かせいただけますか、殿下」


リディアは静かに尋ねた。


声は震えていない。


彼女の前に立つエドガーは、勝ち誇ったように顎を上げた。


王太子にふさわしく仕立てられた白い礼装。しかしその腕には、場違いなほど簡素な桃色のドレスをまとった少女が縋りついている。


男爵令嬢マリア・ベルナール。


類いまれな光魔法の素質を見出され、半年前に学園へ編入した少女だ。


蜂蜜色の髪に潤んだ空色の瞳。儚げな容姿と素直な性格によって、瞬く間に学園中の人気者となった。


「まだ白を切るつもりか!」


エドガーが声を荒らげる。


「貴様はマリアを嫉妬し、陰湿ないじめを繰り返した。教科書を破り、階段から突き落とし、毒まで盛ろうとしたではないか!」


広間にざわめきが広がった。


「まあ、恐ろしい」


「公爵令嬢ならやりかねないわ」


「マリア様がおかわいそう」


リディアは周囲を見回さなかった。


濃紺の瞳を、ただエドガーへ向けている。


「証拠はございますか」


「マリアの証言こそが証拠だ!」


「証言は証拠の一部にはなり得ます。しかし、ひとりの言葉のみで公爵家の令嬢を犯罪者と断定なさるのですか」


「マリアが嘘をつくはずがない!」


胸を張るエドガーの隣で、マリアは小さく首を振った。


「違うのです、リディア様。私は、こんなことを望んでいませんでした」


「そうですか」


「ただ、皆様には真実を知ってほしくて」


「それならば、具体的に伺いましょう」


リディアは扇を閉じた。


乾いた音が広間に響く。


「教科書を破られたのは、いつですか」


「九月十七日の放課後です」


「その日、私は王妃陛下の命により王宮の慈善事業会議へ出席していました。議事録と出席者が証明できます」


マリアの頬が引きつった。


「で、でも、リディア様が誰かに命じたのです」


「誰に?」


「それは……」


「階段から突き落とされたという日は?」


「十月三日の昼休みです」


「十月三日、私は高熱で三日間欠席していました。医師の診断書があります」


「使用人に命じたのです!」


「学園内へ入れる公爵家の使用人は侍女一名のみ。その侍女は私の看病のため屋敷におりました」


「ど、毒を盛られたのは今月です!」


「何の毒でしょう」


「眠れなくなる毒です」


その言葉に、医薬学を学ぶ生徒たちが顔を見合わせた。


リディアは無表情のまま答える。


「それはおそらく、カフェインの過剰摂取です。あなたが毎晩、食堂で濃い珈琲をおかわりしていたことは給仕が証言するでしょう」


「そ、それでも!」


エドガーが割って入った。


「すべて貴様が裏で仕組んだことだ!」


「つまり、証拠はないのですね」


「マリアが怯えている姿を見ても、何も感じないのか!」


「感じることと、事実を確認することは別問題です」


「その冷酷さこそが、何よりの証拠だ!」


広間の空気が一瞬だけ凍った。


リディアは、ほんのわずかに目を細めた。


十年間。


彼女は王太子エドガーの婚約者として教育を受けてきた。


税制、外交、歴史、軍事、宮廷作法、語学、魔法学。


眠る時間を削り、友人を作る時間を諦め、王太子妃になるために努力した。


エドガーが遊んでいる間も、彼の失敗を補った。


彼が外国の大使に無礼を働けば、リディアが謝罪状を書いた。


彼が予算を浪費すれば、リディアが帳簿を整理した。


彼が会議を欠席すれば、リディアが議事録を作って届けた。


厳しく注意すれば、冷たい女と呼ばれた。


代わりに仕事を片づければ、出しゃばる女と呼ばれた。


そして今、事実を確認しようとしただけで、冷酷さが罪の証拠だという。


「なるほど」


リディアは静かに息を吐いた。


「殿下のお考えは、よく分かりました」


「ようやく罪を認める気になったか」


「いいえ」


リディアは指から婚約指輪を外した。


国王より下賜された、王家の紋章入りの指輪だ。


彼女はそれをエドガーへ差し出した。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


ざわめきが止まった。


エドガー自身も、予想外だったらしい。


「な……」


「殿下はマリア様を妃になさるのでしょう?」


「そ、そうだ。真実の愛で結ばれたマリアこそ、私にふさわしい」


「でしたら、末永くお幸せに」


深紅のドレスの裾をつまみ、リディアは優雅に一礼した。


それから父であるアルヴェイン公爵へ目を向ける。


「お父様。帰りましょう」


「よいのか、リディア」


「はい。私はもう、ここにいる必要がございません」


公爵はしばらく娘を見つめ、やがて深く頷いた。


「分かった」


リディアが出口へ向かうと、人々は波が引くように道を空けた。


背後からエドガーの声が飛ぶ。


「待て! まだ貴様への処分が終わっていない!」


リディアは振り返った。


「処分?」


「マリアへの罪を償うため、北の修道院へ行け!」


「お断りいたします」


「これは王太子命令だ!」


「私は公爵家の人間です。正式な裁判もなく、王太子殿下が独断で私を修道院へ送る権限はございません」


「貴様!」


「それに、婚約破棄を受け入れた時点で、私は殿下の臣下でも婚約者でもありません」


リディアの唇に、初めて淡い笑みが浮かんだ。


「どうぞ、ご自分の後始末はご自分でなさってくださいませ」


そう告げて、彼女は広間を後にした。


その背中を見つめる者たちは、まだ知らなかった。


王太子エドガーが失ったものは、ひとりの婚約者だけではない。


この国を支えていた、最後の柱だったのだ。


第二章 悪役令嬢の置き土産


馬車に乗った途端、リディアは背もたれへ身体を預けた。


張り詰めていた糸が切れ、指先が小さく震え始める。


向かいに座る父は、何も言わなかった。


夜の王都を抜け、公爵邸へ向かう馬車の車輪だけが規則正しく鳴っている。


やがて父が口を開いた。


「泣いてもよいのだぞ」


「泣きません」


答えた声は、思ったよりも弱かった。


「殿下に未練はございません」


「そうか」


「本当に、ございません」


十歳の夏、リディアはエドガーと婚約した。


初めて会った王子は、金色の髪を輝かせて笑う、美しい少年だった。


彼は彼女の手を取って言った。


いつか立派な王になる。


そのときは、隣で支えてほしい。


幼いリディアは信じた。


だから努力した。


努力して、努力して、努力し続けた。


いつからだろう。


エドガーが勉強を嫌がるようになったのは。


いつからだろう。


彼がリディアの助言を「小言」と呼ぶようになったのは。


いつからだろう。


自分が愛されていないと気づいていながら、見ないふりをするようになったのは。


「私は、何のために十年間も……」


言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。


父が隣へ移り、娘の肩を抱く。


「お前は十分に務めを果たした」


「でも、すべて無駄になりました」


「無駄ではない」


「私が学んだことも、準備したことも、もう何の役にも立ちません」


「リディア」


公爵は、幼い子を諭すようにゆっくりと言った。


「お前が身につけた知識も、その強さも、王太子のためだけのものではない。すべてお前自身のものだ」


リディアは顔を上げた。


「私自身の……」


「そうだ。お前は王太子妃になるためだけに生まれたのではない」


その言葉が、胸の奥へ染み込んだ。


生まれて初めて聞いた言葉のように思えた。


リディアは目を閉じた。


涙はしばらく止まらなかった。


それでも屋敷へ到着する頃には、彼女は再び背筋を伸ばしていた。


玄関では、公爵家の家令と使用人たちが待っていた。


学園での騒動は、早馬によってすでに伝わっている。


「今夜から撤収を開始します」


リディアは泣き腫らした目のまま命じた。


家令が目を瞬かせる。


「撤収、でございますか」


「王家へ貸与している公爵家私有の馬車、調度品、魔道具、書籍をすべて回収します。王宮へ出向している我が家の文官にも帰還命令を」


「すべてでしょうか」


「すべてです」


父が苦笑した。


「早いな」


「婚約が解消された以上、アルヴェイン公爵家が王太子殿下を私的に支援する理由はございません」


「王家への融資はどうする」


「契約どおり、期限を一日でも過ぎれば担保を差し押さえます。慈善事業は公爵家の事業として継続。ただし、王太子殿下の名義は外してください」


「殿下の執務を代行していた文官は?」


「即時撤収を」


「お前が管理していた王太子宮の予算は?」


「引き継ぎ用の資料を一部だけ残します」


父は眉を上げた。


「一部?」


「法的に提出義務のある資料のみです。それ以外は私が個人で作成したもの。殿下には必要ないでしょう」


「なぜそう思う」


「私の仕事は何もせず他人を責めるだけだったと、以前おっしゃっていましたから」


父はとうとう声を上げて笑った。


「徹底しているな」


「当然です。殿下は私との婚約を破棄なさいました。私の労働力だけ継続して利用できるとお考えなら、少々都合がよすぎます」


「では、これからどうする」


リディアは答えられなかった。


婚約破棄を受け入れる決断はできた。


王家への支援を断ち切ることもできる。


しかし、その先の人生については何も考えていなかった。


公爵令嬢として生まれ、王太子妃になるものと定められてきた。


未来は一本の道しかないと思っていた。


「しばらく考えたいです」


「そうするといい」


「お父様は、お怒りではないのですか」


「怒っているとも」


公爵の声が低くなる。


「娘を侮辱され、根拠のない罪を着せられた。今すぐ王宮へ軍を向けたいほどにな」


「軍はおやめください」


「分かっている。だから合法的に、王家が何を失ったか理解していただくことにする」


父娘は目を合わせた。


二人は互いに、よく似た笑みを浮かべた。


その夜、アルヴェイン公爵家から各所へ百通を超える命令書が送られた。


翌朝。


王太子宮から、三十七名の文官が一斉に姿を消した。


第三章 王太子の素晴らしい一日


卒業舞踏会の翌朝、エドガーは幸福だった。


目覚めると、愛するマリアが隣の部屋で待っている。


口うるさい婚約者はもういない。


これからは誰にも邪魔されず、真実の愛を育むことができる。


「殿下、おはようございます!」


マリアが柔らかな笑顔を浮かべ、エドガーへ抱きついた。


侍女たちは咎めなかった。


正しくは、咎める侍女がいなかった。


王太子宮に勤めていた侍女の半数近くは、アルヴェイン公爵家から派遣されていた。その全員が昨夜のうちに退職届を出していたのである。


「今日から私は王太子妃になる勉強を始めます!」


「無理をする必要はない。マリアはそのままで素晴らしい」


「でも、一生懸命頑張ります!」


「健気だな」


二人が微笑み合っていると、宮務官が慌ただしく入ってきた。


「殿下、至急ご決裁いただきたい書類がございます」


「後にしろ」


「すでに締め切りを三日過ぎております」


「ではリディアにやらせろ」


宮務官は沈黙した。


「殿下。リディア様との婚約は昨夜、破棄されました」


「だから何だ」


「これまではリディア様が予算案の修正を行い、公爵家の文官が各省庁との調整を担当しておりました。しかし全員、王太子宮を離れております」


「新しい者を雇えばよいだろう」


「予算がございません」


「予算を組め」


「そのための決裁書類でございます」


机の上に、分厚い書類の束が置かれた。


エドガーは露骨に顔をしかめた。


「多すぎる」


「こちらは本日中です。そして、こちらは昼まで。赤い紐の束は一刻以内にお願いいたします」


「リディアはこれを毎日やっていたのか」


宮務官が答える。


「いいえ」


エドガーは安堵した。


やはり大げさだったのだ。


「週に三日、殿下がなさるべき書類まで処理しておられました」


「……どういう意味だ」


「本日は少ない方でございます」


エドガーは書類の一枚を手に取った。


隣国から輸入する小麦への関税率。


南部河川の堤防修繕計画。


王都の衛兵への給与。


孤児院への補助金。


文章は難解で、どこに署名すべきかすら分からない。


「こんなもの、適当でよい」


「適当に決めますと民が飢えます」


「では専門家に任せろ」


「専門家が作成した案の中から、国家方針に最も適したものを選ぶのが殿下のお仕事です」


「私は次期国王だぞ。細かいことまでできるか!」


宮務官の表情から、わずかに敬意が消えた。


「国王陛下とは、国の細かいことにまで責任を負うお立場でございます」


その日、エドガーが処理できた書類は五枚だった。


そのうち三枚は署名箇所を間違え、二枚は内容を読まずに承認したため差し戻された。


昼過ぎには、さらなる問題が起きた。


「殿下、応接室の家具が運び出されております!」


「なぜだ!」


「アルヴェイン公爵家の所有物だからです」


「止めさせろ!」


「王家の所有物ではございませんので、止める権限がありません」


「新しいものを買え!」


「予算がありません」


「また予算か!」


夕方になると、王太子専用馬車まで回収された。


厨房から高級ワインが消え、温室から希少な花が運び出され、執務室から魔法通信機が撤去された。


それらはすべて、リディアが嫁ぐ際の持参品として、公爵家が用意していたものだった。


「卑劣な女め!」


エドガーは拳を机へ叩きつけた。


「私に恥をかかせるため、わざとやっているのだ!」


マリアが後ろから優しく抱きしめる。


「殿下、私がいます。豪華な家具も馬車もなくても、愛があれば幸せです」


「そうだな。マリアだけが私を理解してくれる」


二人は寄り添った。


その足元で、壊れた椅子がきしんだ。


王太子宮の職員たちは、誰も二人を祝福しなかった。


翌月の給料が、本当に支払われるのか。


皆、そのことを心配していた。


第四章 白銀の使者


婚約破棄から二週間後。


リディアはアルヴェイン領の港町にいた。


領地は王国西部にあり、海を隔てて複数の国と交易している。


王都で見る彼女は、常に華やかなドレスをまとっていた。


しかし今は白いシャツに紺色の乗馬用スカート、革のブーツという装いだ。


潮風に髪をなびかせ、積み荷を確認する姿は、誰にも悪役令嬢とは思えなかった。


「北部向けの小麦は第三倉庫へ。雨が近いので、積み下ろしを急いでください」


「分かりました、お嬢様!」


「南の織物は品質検査を二重に。先月、偽造品が混ざっていました」


「かしこまりました!」


作業員たちは生き生きと応じた。


リディアは幼い頃から年に一度、この港町を訪れていた。


王太子妃教育の傍ら、領地経営も学んでいたのだ。


「お嬢様」


商会責任者が駆け寄ってきた。


「西大陸連邦から使節団が到着しました」


「予定より三日早いですね」


「代表者は、クロード・レヴァンス公爵閣下です」


リディアは足を止めた。


西大陸連邦。


五つの国が共同で成立させた、新興の国家連合である。


なかでもレヴァンス公爵家は、国境防衛と外交を担う有力貴族だ。


「すぐに応接室へご案内して」


「お嬢様に直接会談を申し込んでおられます」


「私に?」


父ではなく、未婚の公爵令嬢である自分を名指しする理由が分からない。


疑問を抱きながら港の迎賓館へ向かうと、白銀の髪を持つ青年が窓際に立っていた。


年齢は二十代半ばほど。


長身で、深い緑の瞳には静かな知性が宿っている。


「お初にお目にかかります、レヴァンス公爵閣下」


リディアが礼をすると、青年は穏やかに笑った。


「ようやくお会いできました、アルヴェイン公爵令嬢」


「私をご存じなのですか」


「もちろん。あなたが作成された海運保険制度の論文を拝読しました」


リディアは驚いた。


二年前、海賊被害による商人の破産を防ぐため、リディアは新しい保険制度を考案した。


しかし王国の財務大臣から、女学生の机上論だと一蹴された。


その後、論文を外国の学術誌へ匿名で投稿したのだ。


「なぜ、私が著者だと?」


「独自に調査しました。無礼をお許しください」


「いいえ。それで、私にどのようなご用件でしょう」


「我が連邦で、その制度を導入したい」


リディアは瞬きをした。


「本気でおっしゃっているのですか」


「そのために海を渡ってまいりました」


クロードは鞄から数十枚の資料を取り出した。


導入予定の港。


対象となる船舶数。


想定される事故率。


保険金支払いの試算。


すべて綿密に調査されている。


「すでにここまで準備を?」


「あなたの構想が優れていたからです。ただし、実務へ移すには課題がある。ぜひ著者本人の力をお借りしたい」


リディアは資料をめくる。


胸が高鳴った。


自分の知識を必要としてくれる者がいる。


王太子の失敗を隠すためではない。


王妃になるためでもない。


リディア自身の考えが評価されている。


「私に、制度設計を任せてくださるのですか」


「私はお願いする立場です」


クロードは真剣な眼差しで告げた。


「無論、正当な報酬と権限をお約束します」


「女性でも?」


「能力と性別に、どのような関係が?」


あまりに自然な返答だった。


リディアは、思わず笑った。


それは令嬢として作った笑顔ではない。


驚きと嬉しさが、そのまま表れた笑みだった。


クロードはわずかに目を見開き、それから困ったように視線を逸らした。


「どうかなさいましたか」


「いえ。王国の噂は、まったく当てにならないと思いまして」


「どのような噂でしょう」


「あなたは一度も笑わない、恐ろしく冷酷な女性だと」


「あながち間違いではございません」


「今、笑っておられました」


「気のせいです」


「そういうことにしておきましょう」


リディアは手元の資料へ視線を落とした。


「一か月、準備期間をください」


「お引き受けいただけるのですか」


「はい。ただし、条件がございます」


「何でしょう」


「制度の対象に、女性船主と平民の商会を含めること。事故調査は貴族から独立した機関が行うこと。そして保険加入を理由に、事業者へ過剰な口出しをしないこと」


クロードは迷うことなく手を差し出した。


「すべてお約束します」


リディアはその手を取った。


「交渉成立です」


この日、リディア・アルヴェインは初めて、自分の未来を自分で選んだ。


第五章 真実の愛の代金


王都では、王太子とマリアの結婚準備が進められていた。


少なくとも、表向きは。


実際には何ひとつ進んでいなかった。


「王太子妃教育など、必要ありません!」


マリアは王妃教育係へ言い放った。


「エドガー様は、そのままの私を愛してくださっています!」


「王太子妃教育は、殿下に愛されるためのものではございません」


老婦人は冷静に答えた。


「外交儀礼、国家財政、慈善事業、宮廷管理を学んでいただくためのものです」


「難しい話ばかりで、頭が痛くなってしまいます」


「リディア様は十二歳で、現在の課程を終えられました」


その名を聞いた途端、マリアの表情が歪んだ。


「またリディア様ですか!」


「比較されたくないのでしたら、彼女以上に努力なさってください」


「私は光魔法が使えます!」


「舞踏会で外国大使を治療するご予定ですか」


「私の力があれば、皆を笑顔にできます!」


「条約交渉の席で笑顔だけを見せても、領土は戻ってまいりません」


マリアは泣き出した。


そこへエドガーが駆け込んでくる。


「マリアを泣かせたのは誰だ!」


「私は王太子妃教育を行っていただけです」


「マリアには厳しい教育など必要ない!」


「では、私は辞任いたします」


「勝手にしろ!」


「承知しました」


教育係は即日辞任した。


彼女は優秀な外交官でもあったため、その翌月には西大陸連邦から招かれた。


似たようなことが、王宮内で次々と起きた。


料理長は、マリアが厨房へ入り込み勝手に料理をしたことで辞職した。


侍女長は、マリアが侍女たちを親しみやすさの名目で呼び捨てにしたため辞職した。


王宮魔法師は、エドガーが魔法研究費を結婚式へ流用しようとしたため辞職した。


そして彼らの多くは、アルヴェイン公爵家か西大陸連邦へ再就職した。


「なぜ人がいなくなる!」


エドガーは執務室で叫んだ。


「皆、リディアに買収されているのだ!」


財務官は疲れ切った顔で報告した。


「それより殿下、結婚式の費用が不足しております」


「各貴族に献金させろ」


「すでに断られております」


「王太子の婚礼だぞ!」


「これまでは、アルヴェイン公爵家が費用の七割を負担する予定でした」


「では払わせればよい!」


「婚約を破棄されたため、負担する理由がないとのことです」


「リディアめ!」


「さらに公爵家から、貸付金の返済を求められております」


「待たせろ」


「期限は先月でした。今後は契約に基づき、一日ごとに利息が加算されます」


「王家に金を貸しておきながら、返せと言うのか!」


財務官は返答に困った。


借りた金を返すのは常識である。


しかし目の前の王太子には、その常識が通用しない。


「ほかの貴族から借りろ」


「王太子殿下がアルヴェイン公爵家との婚約を一方的に破棄されたことで、王家の信用は低下しております」


「私の何が信用できない!」


財務官は答えなかった。


何もかも、と言えるほど勇敢ではなかった。


その日の夜、エドガーはマリアの部屋を訪れた。


「結婚式は、少し質素になるかもしれない」


マリアは目を輝かせた。


「構いません。私は豪華な結婚式なんて望んでいませんから」


「そう言ってくれると思っていた」


「でも、純白のドレスと、千本の薔薇と、七段のケーキには憧れます。それから王都中を馬車で回って、皆様に祝福してほしいです」


「……豪華な式を望んでいるではないか」


「一生に一度ですもの。これくらい、普通です」


「その普通のための金がないのだ!」


マリアの目に涙が浮かんだ。


「私との結婚が嫌になったのですか?」


「そういう意味ではない」


「リディア様には、国宝の宝石を贈ったのに」


「あれは婚約の証として必要だった」


「私には贈ってくださらないのですか」


「金がないと言っている!」


マリアは泣きながら部屋を飛び出した。


エドガーは追いかけなかった。


机の上には、さらに増えた決裁書類が待っている。


その一番上には、北部で起きた不作への対応案が置かれていた。


以前ならばリディアが用意した資料を読み、彼女の提案どおりに署名するだけだった。


今は誰も答えを教えてくれない。


エドガーは悩んだ末、食料備蓄の放出を認めないと決定した。


備蓄を売却し、その収益を結婚式へ回すためだった。


この判断によって、北部の食料価格は三倍に跳ね上がった。


飢えた民衆が暴動を起こすまで、二か月もかからなかった。


第六章 偽りの聖女


リディアは西大陸連邦で忙しい日々を過ごしていた。


海運保険制度は、想定以上の速さで形になった。


会議には商人、船乗り、法律家、魔法師が参加した。


身分に関係なく意見を述べ、問題点があれば徹底的に議論する。


王国の会議とはまるで違っていた。


王国では、王太子の機嫌を損ねないことが最優先だった。


彼が黒と言えば、白い紙も黒だった。


西大陸連邦では、クロード自身の案であっても間違っていれば却下された。


「私の計算が誤っていました」


ある会議で、クロードは即座に非を認めた。


「リディア嬢の案を採用しましょう」


会議が終わった後、リディアは尋ねた。


「よろしかったのですか」


「何がでしょう」


「公爵であるあなたの案を、あっさりと取り下げて」


「間違いを認めず損失を出す方が恥ずかしいでしょう」


エドガーは一度も、自分の間違いを認めなかった。


誤りを指摘すると怒り出し、周囲に責任を押しつけた。


それが高貴な者の誇りなのだと、リディアは思っていた。


だが違った。


誇りとは、自分を大きく見せることではない。


背負うべき責任から逃げないことなのだ。


「リディア嬢」


クロードが彼女の顔を覗き込む。


「お疲れですか」


「いいえ。少し、昔のことを考えていました」


「王太子殿下のことを?」


「……はい」


「お好きだったのですか」


あまりに率直な質問に、リディアは目を見開いた。


「失礼しました」


「いいえ。好きだったのだと思います」


幼い日の約束。


初めて贈られた花。


授業を抜け出したエドガーを捜し、二人で雨宿りした日のこと。


幸せな記憶は確かにある。


「けれど私は、いつからか殿下の顔色ばかり窺っていました。怒らせないように、失敗させないように。あれが愛だったのか、今は分かりません」


「支えることと、犠牲になることは違います」


「以前の私には、その違いが分かりませんでした」


「今は?」


リディアは窓の外に目を向けた。


港には多くの船が停泊している。


自分が設計した制度によって、これから商人や船乗りの生活が守られる。


「今は分かります」


「それならよかった」


クロードは、それ以上何も聞かなかった。


その日の夕方、王国から緊急の書状が届いた。


差出人はリディアの父だった。


北部で大規模な暴動が発生。


王太子直属軍が鎮圧に失敗。


さらに王都では、マリアが聖女を名乗り始めたという。


光魔法は回復や浄化に適した希少魔法である。


しかし、使えるからといって聖女として認定されるわけではない。


神殿の審査と数年間の修行が必要だった。


ところがマリアは、神から選ばれたと宣言した。


そして治療と引き換えに高額な寄付を求めている。


しかも、実際に治癒を受けた者の中から症状が悪化する者が続出していた。


「これは……」


リディアは同封されていた患者記録を調べた。


すぐに異常へ気づいた。


マリアの魔法は治癒ではない。


一時的に痛覚を麻痺させ、生命力を無理に引き出している。


治ったように見えるだけで、病気や怪我そのものは残っている。


むしろ患者の体力を奪い、症状を悪化させる危険な魔法だった。


「この術式を、どこで覚えたのでしょう」


クロードが記録を横から見る。


「禁術に近い」


「ええ。本人が編み出したとは考えにくいです」


リディアはマリアの行動を思い返した。


破られた教科書。


階段からの転落。


毒。


すべて証拠はなかった。


それでもマリアは、リディアが犯人だと言い切った。


もしそれが、単なる嘘ではなかったとしたら。


もし彼女の背後に、別の人物がいるとしたら。


「王国へ戻ります」


リディアは決意した。


クロードが眉を寄せる。


「危険です」


「分かっています。ですが、父と領民がいます。それに、私に罪を着せた者を放置するつもりはありません」


「では、私も参りましょう」


「連邦の公爵であるあなたを巻き込めません」


「海運保険制度の責任者を失っては困ります」


「それは建前でしょうか」


「そう聞こえましたか」


クロードは少し笑った。


「あなたを守りたい。これが本音です」


リディアは言葉を失った。


「返事は今いただかなくて結構です。ただし、同行はいたします」


「かなり強引ですわね」


「あなたほどではありません」


リディアはため息をついた。


しかし不思議と、嫌な気持ちはしなかった。


「それでは、お願いします」


「喜んで」


白銀の公爵率いる連邦使節団とともに、リディアは半年ぶりに王国へ戻った。


彼女を待っていたのは、荒れ果てた王都だった。


第七章 帰還した悪役令嬢


王都の門をくぐったリディアは、言葉を失った。


街路にはごみがあふれ、閉店した店の扉には板が打ちつけられている。


税金が引き上げられ、多くの商人が王都を去ったという。


広場では、痩せた子どもたちが食料配給の列に並んでいた。


王宮だけは以前と変わらず輝いていた。


いや、以前以上だった。


遠くからでも分かるほど大量の花が飾られている。


「今日は何か式典が?」


クロードが尋ねる。


リディアは日付を確認した。


「マリア様の聖女認定記念日だそうです」


「神殿は認定していないのでは」


「殿下が認定なさったのでしょう」


「王太子に聖女を認定する権限は?」


「ございません」


「……この国は大丈夫ですか」


「大丈夫ではないので、戻ってきたのです」


王宮へ到着すると、リディアたちは大広間へ通された。


半年前、婚約破棄を告げられた場所だ。


玉座の手前には、派手な桃色のドレスをまとったマリアが立っていた。


頭には聖女にしか許されない白金の冠を載せている。


その隣にいるエドガーは、見る影もなくやつれていた。


「リディア!」


エドガーの顔が明るくなる。


「ようやく戻ったか!」


「西大陸連邦の使節として参りました」


「そのようなことはどうでもよい。早く執務室へ来い。書類が山ほどある」


「お断りいたします」


「なぜだ!」


「私は殿下の婚約者でも、王国の官僚でもございませんから」


「国が危機に陥っているのだぞ!」


「その危機を引き起こしたのは、殿下ではございませんか」


エドガーの顔が赤くなった。


「すべてお前が職務を放棄したからだ!」


「私は職務を放棄しておりません。そもそも、王太子殿下の執務を公爵令嬢が無償で代行すること自体が異常だったのです」


「黙れ!」


エドガーが腕を振り上げる。


その手首を、クロードが掴んだ。


「女性に手を上げることが、こちらの国の礼儀ですか」


「離せ! 外国の公爵風情が!」


「その外国から食料を輸入しなければ、来月にも王都で餓死者が出ると伺いましたが」


エドガーの動きが止まる。


西大陸連邦の使節団は、援助交渉のために招かれていた。


連邦側の交渉責任者はリディアである。


彼女の承認なしに、小麦は一袋も入ってこない。


マリアが不安そうにエドガーの腕へ縋った。


「エドガー様。リディア様は、まだ私を恨んでいるのです」


「マリア……」


「私が聖女になったから、嫉妬しているのですわ」


リディアは彼女へ向き直った。


「神殿の認定を受けていないあなたが、聖女を名乗る根拠は何ですか」


「神のお告げを受けました」


「どちらの神でしょう」


「この世界をお作りになった女神様です!」


「我が国の創世神は男神として伝えられています」


マリアの表情が固まった。


「女神様もいるのです!」


「その名は?」


「名前なんて関係ありません!」


「関係はございます。存在しない神の名を利用し、信者から寄付を集めれば詐欺罪に当たります」


「私は人々を治しています!」


「治してはいません」


リディアは患者記録を広げた。


「あなたの魔法は、痛覚を一時的に麻痺させ、生命力を強制的に燃焼させるものです。治療を受けた百三十二名のうち、八十六名が悪化。十九名が現在も意識不明。十一名が亡くなっています」


広間に衝撃が走った。


マリアが後ずさる。


「嘘よ!」


「連邦の魔法研究所と王国神殿、双方の調査結果です」


「私は悪くない!」


マリアの声が甲高くなる。


「教えられたとおりにやっただけよ!」


リディアはその言葉を逃さなかった。


「誰に教えられたのですか」


「それは……」


「マリア、何の話だ」


エドガーも困惑している。


マリアは青ざめた顔で周囲を見回した。


そのとき、広間の扉が開いた。


黒い法衣をまとった壮年の男が入ってくる。


王国神殿の枢機卿バルモント。


マリアを聖女と認めるよう、最初に神殿へ圧力をかけた人物だった。


「もうよいでしょう、マリア様」


バルモントは穏やかに笑っていた。


「あなたのお役目は、ここまでです」


マリアの胸から、黒い光が噴き出した。


人々の悲鳴が響く。


光は無数の鎖となり、エドガーと王宮の貴族たちへ巻きついた。


「何をする!」


エドガーが叫ぶ。


「殿下には王位を継いでいただきます」


バルモントは告げた。


「我々の操り人形として」


第八章 黒幕の計画


バルモントの目的は、王国の乗っ取りだった。


彼は十年以上前から、王宮内部に協力者を増やしていた。


浪費家の貴族へ金を貸し、弱みを握る。


神殿への寄付を使って商人へ圧力をかける。


そして判断力が乏しく、感情に流されやすい王太子を次期国王に据える。


最大の障害がリディアだった。


彼女は王太子を補佐しながら、王宮の不正を次々と見抜いていた。


王太子妃になれば、バルモントの計画は実行できない。


そこで彼は、マリアを利用した。


孤独だった男爵令嬢へ近づき、特別な力を持つと信じ込ませる。


王太子へ近づく方法を教え、リディアを排除するための嘘を吹き込む。


「では、教科書を破ったのも、階段から落としたのも……」


リディアが問うと、マリアは床に崩れ落ちた。


「私がやったの」


「毒は?」


「眠れないと訴えれば、リディア様が何かしたことになると言われた」


「私に罪を着せれば、王太子妃になれると?」


「だって、私はヒロインなのよ!」


マリアが突然叫んだ。


「愛されるはずなの。王子様と結ばれて、聖女になって、皆から大切にされるはずなのよ!」


リディアは悲しげに彼女を見た。


「誰も、あなたの人生を物語どおりに進めてはくれません」


「あなたには分からない!」


「分かりません。ですが、望むものを得るために他人を陥れてよい理由にはならない」


マリアは何も言い返せなかった。


バルモントが黒い杖を掲げる。


「茶番は終わりです」


広間の床に巨大な魔法陣が広がった。


王宮全体から魔力が吸い上げられていく。


バルモントは神殿の地下にある古代魔道具を作動させ、王都の民から生命力を奪おうとしていた。


集めた力によって王国軍を支配し、周辺諸国へ侵攻するつもりなのだ。


「実に愚かな王太子でした」


バルモントはエドガーを見て笑う。


「女に夢中になり、優秀な婚約者を自ら捨ててくださるとは」


「私を利用したのか!」


「あなたに利用する以外の価値がありますか」


エドガーの顔から血の気が引いた。


「私は次期国王だぞ」


「書類一枚まともに読めない国王など、傀儡としては理想的です」


半年前、リディアが何度説明しても理解しなかったことを、敵の言葉によって初めて理解したらしい。


王太子という地位は、本人の能力を証明するものではない。


ただ王家に生まれただけで、無条件に敬われると思っていた。


しかし地位を失えば、エドガーには何も残らない。


「リディア!」


エドガーが叫んだ。


「私を助けろ!」


リディアは彼を見た。


「ここまでされても、命令なさるのですね」


「今は過去の話をしている場合ではない!」


「いいえ。大切なことです」


リディアは濃紺の瞳を細めた。


「あなたは、ご自分の行いを一度も謝罪していない」


「分かった。謝る。だから早く助けろ!」


「それは謝罪ではなく、命乞いです」


「王太子を見捨てるのか!」


「民は救います」


リディアは静かに言った。


「ですが、あなたの地位と名誉まで守るつもりはございません」


リディアが指を鳴らすと、広間の窓が一斉に割れた。


西大陸連邦の魔法師たちが突入する。


同時に、王国神殿の騎士団が反対側の扉から現れた。


先頭に立つのは、神殿最高位の大司教だった。


「枢機卿バルモント。禁術使用および国家転覆の罪により、あなたを拘束します」


バルモントが目を見開く。


「なぜ魔法陣が完成していない!」


「完成していました」


リディアは答えた。


「ただし、あなたが描いたものとは別の形で」


王宮へ来る前、リディアは父の協力を得て王都の地下水路を調査した。


魔法陣の存在に気づき、構造の一部を書き換えていたのである。


本来なら民の生命力を吸い取る魔法陣は、逆にバルモントの魔力だけを吸収する形へ変えられていた。


「貴様!」


バルモントが杖を振り上げる。


黒い炎がリディアへ向かう。


クロードが剣を抜いた。


炎を切り裂き、リディアの前へ立つ。


「彼女には触れさせない」


バルモントは二撃、三撃と魔法を放った。


しかし魔法陣に力を吸われ、威力は急速に弱まっていく。


最後には小さな火花しか出なくなった。


神殿騎士が彼を取り押さえた。


「離せ! 私は神に選ばれた者だ!」


「先ほど聞いた台詞ですね」


リディアは冷ややかに告げる。


「神に選ばれたと名乗る者ほど、神の名を都合よく使うものなのでしょうか」


バルモントは連行された。


黒い鎖が消え、エドガーたちが床へ倒れ込む。


大広間には静寂が戻った。


エドガーがふらつきながら立ち上がる。


「終わったのだな」


「はい」


「よくやった、リディア」


エドガーは、まるで臣下を褒めるように笑った。


「今回の功績に免じ、貴様の罪を許そう。そして再び私の婚約者にしてやる」


誰も言葉を発さなかった。


クロードまで呆然としている。


「ただし、マリアを側妃に迎えることは認めてもらう。彼女も利用されただけだからな」


マリアが涙ぐんだ。


「エドガー様……」


二人は感動的な再会を演じているつもりらしい。


リディアは、ゆっくりと息を吐いた。


「殿下」


「何だ」


「お断りいたします」


「遠慮する必要はない」


「遠慮ではございません。心の底から、お断り申し上げております」


エドガーの笑顔が消えた。


「私と結婚できるのだぞ」


「それが何か?」


「王妃になれる!」


「王冠に興味はございません」


「女なら誰でも、王妃に憧れるはずだ!」


「あなたは本当に、私の言葉を一度も聞いてくださらないのですね」


リディアは彼の前を通り過ぎた。


そして玉座の隣に立つ国王へ一礼する。


病のため静養していた国王は、今回の騒動を受けて王宮へ戻っていた。


「陛下。西大陸連邦との食料援助交渉について、条件を提示させていただきます」


「申してみよ」


「王太子エドガー殿下の廃嫡。そして、今回の事件と北部暴動に関する公開裁判です」


「リディア!」


エドガーが怒鳴る。


国王は目を閉じた。


長い沈黙の後、力なく頷く。


「受け入れよう」


「父上?」


「お前は王太子として、決して許されぬ過ちを犯した」


「私は騙されただけです!」


「騙された結果、民を飢えさせ、国庫を空にし、国家転覆の危機を招いた。王は、騙されたと言って責任から逃れることはできぬ」


エドガーの膝が崩れた。


「そんな……私は次の王に……」


「なれぬ」


国王の声は、はっきりとしていた。


「この時をもって、エドガーを廃嫡する」


床へ座り込むエドガーの頭から、王太子の冠が落ちた。


金属音を立てて転がった冠は、誰にも拾われなかった。


第九章 公開裁判


裁判は王都中央広場で行われた。


国の未来を左右する事件であるとして、国王は広く民衆へ公開することを認めた。


被告席には、バルモント、マリア、そして元王太子エドガーが並んでいる。


バルモントは国家転覆、禁術、殺人、詐欺、横領など、二十を超える罪で終身刑を宣告された。


彼が神殿へ隠していた財産は没収され、犠牲者と遺族への補償に充てられる。


次はマリアの審理だった。


「私は利用されただけです!」


彼女は涙ながらに訴えた。


「悪いのはバルモントです! 私は何も知りませんでした!」


裁判官が尋ねる。


「リディア公爵令嬢へ濡れ衣を着せたことは認めますか」


マリアは唇を噛んだ。


「……はい」


「教科書を自ら破り、階段から故意に落ち、虚偽の毒害を訴えた」


「でも、そうしろと言われたから!」


「拒否できない状況でしたか」


「幸せになりたかったんです!」


「それは質問への答えではありません」


「私は男爵令嬢で、誰からも相手にされなかった! リディア様は何でも持っていたじゃない!」


傍聴席にいる人々がざわめく。


マリアはリディアを指さした。


「高い身分も、美貌も、王子様との婚約も、家族の愛情も! ひとつくらい私にくれたっていいじゃない!」


リディアは証言台へ立った。


「あなたが望んだものを持っていたからといって、私から奪ってよい理由にはなりません」


「あなたは努力しなくても、全部持っていた!」


「いいえ」


リディアの声は静かだった。


「私は王太子妃になるため、十年間学びました。一日十四時間勉強し、休日も公務に参加しました。失敗すれば公爵家の恥、女性には無理だと笑われました。それでも努力を続けました」


「お金があったからできたのよ!」


「環境に恵まれていたことは認めます。だからこそ、私はその環境に責任を持つべきだと考えました」


「きれいごとよ!」


「あなたは、環境を改善するために何をしましたか」


マリアは口を閉ざした。


「男爵家の事業を手伝いましたか。光魔法を正しく学びましたか。王太子妃教育を受けましたか。困っている人々を、無償で治療しましたか」


「……していないわ」


「あなたが望んだのは幸せではありません。他人が築いた地位と成果を、努力せず手に入れることです」


マリアは俯いた。


もう反論はなかった。


マリアには、詐欺、傷害、虚偽告発の罪で十二年の犯罪者矯正院送りが言い渡された。


身分は剥奪され、刑期中は治療施設で働く。


ただし魔法の使用は禁じられた。


最後はエドガーだった。


「私はバルモントに操られていた」


彼は繰り返した。


「責任はすべて、あの男にある」


裁判官が北部の食料備蓄について尋ねた。


「売却を承認したのは、あなたですか」


「書類の内容を理解していなかった」


「署名は?」


「私のものだ。しかし意味を知らなかった!」


傍聴席から怒声が上がった。


北部から来た母親が立ち上がる。


「うちの息子は飢えて死んだんだ!」


「知らなかったのだ!」


「知らなければ、人を殺しても許されるのか!」


衛兵が女性を落ち着かせる。


しかし、その叫びは広場にいるすべての者の胸へ突き刺さった。


裁判官が問う。


「王太子として、ご自身に責任があったと認めますか」


エドガーは長い間、黙っていた。


ここで認めれば、王位へ戻る道が完全に断たれる。


彼はまだ、自分が許される可能性を信じていた。


「私は悪くない」


その言葉によって、最後の機会も失われた。


エドガーは王族の身分を剥奪された。


国庫へ与えた損害を返済するため、王家直轄の鉱山で二十年間働くことになった。


判決を聞いた彼は、初めて泣き叫んだ。


「私は王子だ!」


誰も振り返らなかった。


「リディア! 私を助けろ!」


リディアは傍聴席から立ち上がり、出口へ向かった。


「待ってくれ!」


エドガーが衛兵を振り切ろうともがく。


「私たちは十年間、一緒だっただろう!」


リディアは足を止めた。


ほんの少しだけ振り返る。


「ええ。ですから十年間、何度も助言いたしました」


「今度こそ聞く! 心を入れ替える!」


「あなたは今でも、ご自分が助かるための言葉しか口にしていません」


「愛している!」


半年間、一度も言われなかった言葉。


婚約していた十年間でさえ、ほとんど聞いたことがなかった言葉。


けれど今のリディアの心には、何も響かなかった。


「あなたが愛しているのは、あなたの代わりに責任を背負ってくれる私です」


リディアは前を向いた。


「さようなら、エドガー様」


これが、彼女が彼の名を呼んだ最後だった。


第十章 王冠よりも欲しいもの


事件から二年後。


王国は大きく変わった。


高齢の国王は退位し、王弟であるレオナードが即位した。


新王は貴族院の監督権限を強化し、王族であっても公費を私的に使えない制度を導入した。


アルヴェイン公爵家の支援と西大陸連邦からの食料輸入によって、飢饉も終息した。


北部には大規模な穀物倉庫が建てられた。


倉庫には、責任者としてリディアの名が刻まれている。


一方、リディアが設計した海運保険制度は連邦全域に広がった。


嵐や海賊によって船を失っても、商人と船員たちは生活を立て直せる。


女性や平民も融資を受けやすくなり、新しい商会が次々と誕生した。


リディアは西大陸連邦初の女性通商管理官へ任命された。


人々は彼女を「海路を守る公爵令嬢」と呼んだ。


かつての「氷血の悪女」という名を覚えている者は、もうほとんどいない。


春の午後。


リディアは連邦首都にある執務室で、最後の書類へ署名した。


「終わりました」


「お疲れさまです」


向かいの机にいたクロードが顔を上げる。


彼も二年間、制度の整備を支えていた。


「今夜の祝賀会には出席されますか」


「欠席したいところですが、責任者がいないわけにもまいりません」


「では、私と踊っていただけますか」


「仕事のお願いでしょうか」


「個人的なお願いです」


クロードは立ち上がり、リディアの前へ歩み寄った。


二年前より、二人の距離はずっと近くなっていた。


ともに航海し、会議で衝突し、時には夜明けまで資料を作った。


リディアが無理をすれば、クロードが休ませた。


クロードが責任をひとりで抱え込めば、リディアが半分を奪った。


互いの弱さを知っても、失望することはなかった。


支えることと、支えられること。


二人の間では、そのどちらも当然のように存在していた。


「リディア」


クロードが彼女の名を呼ぶ。


「この国へ来て、後悔したことはありますか」


「ございません」


「王妃にならなかったことも?」


リディアは窓の外を見た。


港には色とりどりの帆を持つ船が浮かんでいる。


国籍も身分も異なる人々が行き交う街。


自分で選び、自分で築いた居場所だ。


「私は王冠を望んでいたのではありません」


「では、何を?」


「必要とされたかったのだと思います。誰かの失敗を隠す道具としてではなく、私自身を見てもらいたかった」


クロードは彼女の手を取った。


「私は、あなたが必要です」


「制度の責任者として?」


「ひとりの女性として」


彼は片膝をついた。


手には、王家の紋章も巨大な宝石もない。


波を模した銀細工の指輪があるだけだ。


「リディア・アルヴェイン。私と人生を歩んでいただけますか」


リディアはすぐには答えなかった。


かつての彼女なら、結婚の利益を計算しただろう。


家格。


領地。


外交上の影響。


将来の立場。


けれど今、彼女が考えたのは別のことだった。


この人と朝の珈琲を飲みたい。


意見が違えば議論をして、間違えたときは謝りたい。


疲れた日は支え合い、嬉しい日は一緒に笑いたい。


誰かに決められた役割ではなく、自分の意志で隣に立ちたい。


「ひとつ、条件があります」


「いくつでも」


「私が仕事を続けること」


「もちろん」


「意見が違っても、王国を滅ぼしかねない禁術は使用しないこと」


クロードは吹き出した。


「それは結婚条件に入れる必要がありますか」


「先例がございますから」


「では約束します」


リディアは笑って、左手を差し出した。


「お受けいたします」


指輪が薬指にはめられる。


クロードが立ち上がると、リディアは彼の頬へ口づけた。


「今のは、契約成立の印ですか」


「個人的なものです」


「もう一度お願いしても?」


「それは今夜の舞踏会で」


二人は笑い合った。


その夜、祝賀会には各国から多くの客が集まった。


リディアは深い紺色のドレスをまとっていた。


かつて好んだ深紅ではない。


王太子妃候補として目立つ必要も、自分を強く見せる必要もなくなったからだ。


クロードに手を取られ、彼女は中央へ進む。


楽団が優しい曲を奏で始めた。


「そういえば」


踊りながらクロードが言った。


「初めてお会いしたときの噂を覚えていますか」


「私が一度も笑わない、冷酷な女性だという?」


「ええ」


「今でもそう思いますか」


「まったく」


クロードは彼女の腰を引き寄せた。


「ただ、敵に回したくないとは思っています」


「賢明な判断です」


「それでも、あなたが悪役令嬢なら」


音楽がゆっくりと高まっていく。


「私は喜んで、悪役の共犯者になりましょう」


リディアは笑った。


王太子に褒められるための笑顔ではない。


噂を否定するための笑顔でもない。


幸せだから、笑った。


ただそれだけだった。


終章 沈みゆく国でお幸せに


鉱山で働くエドガーのもとへ、一通の新聞が届いた。


一面には、西大陸連邦の通商管理官リディア・アルヴェインと、クロード・レヴァンス公爵の結婚が報じられている。


写真の中のリディアは、見たことがないほど幸せそうに笑っていた。


「その笑顔は、私の隣で見せるべきだった」


エドガーは呟いた。


だが、自分が彼女を笑わせようとしたことがあっただろうか。


思い返してみても、何ひとつ浮かばない。


褒めたことも。


労ったことも。


感謝したことも。


彼女なら何でもして当然だと思っていた。


なくして初めて、彼は気づいた。


リディアがいなければ国を動かせなかったのではない。


彼女がいたから、自分でも国を動かせる人間なのだと勘違いできていただけなのだ。


別の欄には、マリアの消息も小さく載っていた。


矯正院で治療助手として働き、初めて自分の手で金を稼いでいるという。


彼女は被害者遺族へ謝罪の手紙を送り続けていた。


許されたわけではない。


それでもようやく、自分の罪と向き合い始めているらしい。


「私だけが、何も変わっていないのか」


エドガーは新聞を握りしめた。


やがて監督官の声が飛ぶ。


「休憩は終わりだ!」


エドガーは立ち上がった。


誰も彼を殿下とは呼ばない。


命令すれば誰かが従う生活は、二度と戻ってこない。


彼の前にあるのは、採掘を待つ暗い岩壁だけだった。


一方、海を隔てた連邦では、新しい船が出航しようとしていた。


船首には、銀色の文字で名が刻まれている。


《リディア号》。


船上では、リディアとクロードが並んで海を見つめていた。


「次は東の三国との通商条約ですね」


リディアが言う。


「新婚旅行の行き先としては、少々忙しすぎませんか」


「仕事と新婚旅行を同時にできて効率的でしょう?」


「やはり、あなたは変わりませんね」


「残念でしたか」


「まさか」


クロードは彼女の手を握った。


「あなたがあなたのままでいてくださることが、私は一番嬉しい」


汽笛が鳴る。


帆が風を受け、大きく広がった。


岸壁に集まった人々が手を振っている。


リディアも片手を上げて応えた。


彼女はもう、誰かに用意された道を歩いてはいない。


王冠を戴くこともなかった。


王妃と呼ばれることもない。


それでも彼女は、かつて想像していたよりも多くの人々を救い、多くの未来を変えた。


悪役令嬢と呼ばれた女は、誰かを踏みにじって幸福になったのではない。


ただ、自分を踏みにじる者の隣から立ち去った。


自分の価値を証明するために、元婚約者の後悔を必要ともしなかった。


彼女の幸福そのものが、彼らにとって最も鮮やかな「ざまぁ」だった。


「行きましょう、クロード」


「どこへでも、あなたとともに」


船は港を離れ、光る海へ進んでいく。


その先にあるのは、誰にも決められていない未来。


リディアが自ら選び、自ら切り開く人生だった。


そして彼女はもう二度と、振り返らなかった。


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