第1節:『熱病のハンドル』
遅い。遅い。遅すぎます。
こんな速度では、いつまで経っても次の色に着きません。
「……もっと。もっと速く回ってよ」
私はハンドルを握りしめ、ペダルを深く踏み込みました。ヴィオラさんが設計した「鉄の柩」の機関部が、苦しげな唸り声を上げます。
ゴォォォォォ!!
車体が激しく振動し、砂利を跳ね上げながら荒野を疾走します。
「おいマシロ! 飛ばしすぎだ! 水温計を見ろ、レッドゾーンに入りかけてるぞ!」
隣のヴェールさんが、青ざめた顔で叫びました。彼はさっきから、シートの取っ手を命綱のように握りしめています。
「大丈夫ですよ。この子はヴィオラさんが作ったんです。これくらいで壊れるほど柔じゃありません」
「限度があるって言ってんだよ! この悪路で風景が溶けるほど飛ばす奴があるか、自殺志願者かお前は!」
「死にませんよ。死なせません……私が、目的地に着くまでは」
私は短く答え、さらにペダルを踏みました。景色が線になって後ろへ流れていきます。
気持ちいい。
身体の中を駆け巡る「赤」の熱量が、機関部の激しい鼓動と同期して、私を急き立てています。
ドクン、ドクン。
エンジンの振動が、アイゼンの心音に聞こえる。
排気音が、彼の呼吸に聞こえる。
(アイゼンなら、これくらい平気だった)
(アイゼンなら、こんな岩場なんてものともしなかった)
この車は、今の私にとってアイゼンの代わりです。鉄でできていて、頑丈で、私を運んでくれる箱。なら、これくらい耐えてもらわなきゃ困ります。
「マシロおねえちゃん……こわい……っ」
後部の座席から、細い声が聞こえました。運転席の鏡越しに見ると、リアが毛布を被って震えています。度重なる衝撃で、小さな身体が座席の上で跳ねていました。
「……気持ち悪いよぅ……」
「我慢して、リア。すぐに着くから」
私は鏡から視線を外し、前だけを見据えました。
リアの泣き声が、どこか遠くに聞こえます。まるで分厚いガラスの向こう側みたいに、私の心はピクリとも震えませんでした 。
可哀想ですが、止まるわけにはいきません。一分でも、一秒でも早く次の結晶を手に入れて、アイゼンを治さなきゃいけないんです。そのためなら、多少の無理は必要なことでしょう?
「おい、聞いてんのか! 前! 段差があるぞ!」
ヴェールさんの警告。
目の前に、古い水路の跡と思われる大きな亀裂が迫っていました。
緩める? いいえ、緩める暇はありません。
「飛び越えます」
「はあ!? 馬鹿野郎、足回りがイカれるぞ!」
「邪魔だぁぁッ!!」
私は叫びと共に、ハンドルを強引に引き上げました。バキッ、と何かが軋む音がしました。ステアリングの軸をねじ切らんばかりの力で、無理やり車首を持ち上げたのです。
グォン!!
数トンの鉄塊が、物理法則を無視して宙を舞いました。浮遊感。
そして、着地の激震。
ドッッッガァァァァン!!
凄まじい音が響き、車内が嵐の中の小舟のように揺さぶられました。棚から荷物が崩れ落ち、散弾のように飛び交います。
「きゃああああああっ!!」
リアの悲鳴が聞こえました。ドン、と何かが壁にぶつかる鈍い音。
「――ッ! リア!!」
ヴェールさんが身を守るための革ベルトを外し、後部座席へ飛び込みました。
私はそこでようやく我に返り、ブレーキを蹴りつけました。
キキーッ!!
タイヤが悲鳴を上げ、車が急停止します。
振り返ると、リアが、床に投げ出されていました。荷物の下敷きになり、おでこから血を流しています。
「あ……っ!」
私はシートベルトを外し、リアの元へ駆け寄ろうとしました。その時です。
グシャリ。
足裏に、嫌な感触がありました。硬いものが、無惨にひしゃげる音。
私が足をどけると、そこにはリアが大切にしていた「鉄屑の花」が、見る影もなく踏み潰されていました。花びらの銅線は千切れ、雌しべのボルトは歪み、ただのゴミに戻っていました。
「あ……」
私は息を呑みました。顔を上げると、ヴェールさんに抱きかかえられたリアが、額から血を流して私を見ていました。その瞳は、痛みと、そして何より――「大好きなお姉ちゃんに宝物を壊された」という絶望で、揺れていました。
「う、うあぁぁぁ……ん!!」
火がついたような泣き声。
「マシロ! てめぇ、いい加減にしろ!!」
ヴェールさんの怒声が飛んできました。彼はリアを抱きかかえ、血走った目で私を睨みつけました。
「アイゼンを治すためなら、リアが死んでもいいのかよ!?」
――え?
その言葉に、冷水を浴びせられたように頭が冷えました。熱病のような高揚感が、スーッと引いていきます。
「……あ、わたし……」
私は自分の足元――踏み潰した花を見下ろしました。手が、震えています。
プスン。プスン。
酷使された機関部が、最期の咳をするように止まりました。前方の隙間から、真っ白な蒸気がシューシューと噴き出しています。
オーバーヒート。限界でした。車も、そして私の心も。
私はハンドルから手を離しました。手のひらが、赤く腫れ上がっています。静寂が戻った車内に、リアの泣き声だけが響いていました。
「……ごめん、なさい……」
私はアイゼンを求めて走っていたはずでした。
けれど、私がやっていたのは、大切な家族を鉄の箱に詰め込んで、死に向かって転がしていただけだったのです。




