第4節:『鉄と蒸気の迷宮』
暴徒たちを退け、廃墟を抜けた先。空の色が、鉛色からどす黒い赤へと変わり始めました。気温が上がり、肌を焼くような熱気が車内にも伝わってきます。
その場所は、まるで世界の傷口のようでした。
灰色の荒野の果てに突如として現れたのは、空を覆い尽くすほどの巨大な鉄骨の森です。
錆びついたパイプが血管のように絡み合い、何百という煙突が、腐った歯のように乱立しています。
そこから吐き出される黒煙と蒸気が、空をどす黒い赤色に染め上げていました。
「旧・第一重工業区」
地図にはそう記されていますが、人々はこう呼ぶそうです。
――「赤の炉」
私たちは「鉄の柩」を廃工場の入り口近く、崩れた瓦礫の影に隠しました。
車を降りた瞬間、むっとするような熱気と、硫黄の臭いが鼻をつきます。
「……ひどいにおい。こげてるにおいがする」
リアが鼻をつまんで、私の背中に隠れました。
リアの指が、私の服を強く掴みました。
「……こわい」
その震えが、私の背中越しに伝わってきます。
けれど次の瞬間、リアはそっと手を離しました。
逃げる代わりに、小さな足で一歩だけ前に出ます。
「……でも、おねえちゃんが、こわいのはイヤ」
その言葉に呼応したように、迷宮の奥の地響きが一段だけ重くなりました。
蒸気の向こうで、赤い光が“点”ではなく、鼓動する“塊”として輪郭を持った気がしました。
私も思わず袖で口元を覆います。
ここは静かではありません。
ズゥン、ズゥン、と地響きのような音が、絶え間なく足裏から伝わってくるのです。
それはまるで、地下深くに眠る巨人の心音のようでした。
「気をつけろよ。ここはまだ『生きてる』」
ヴェールさんが短剣を抜き、油断なく周囲を警戒しながら歩き出します。
「人間はいなくなったが、自動化された機械どもだけが、まだ主人の命令を守って動き続けてやがる。……三百年も、何も作らないラインを動かし続けてな」
彼の言葉通り、崩れかけた工場の壁の向こうでは、巨大な歯車が軋みながら回転し、蒸気ハンマーが誰もいない作業台を叩き続けていました。
ガシャン、ガシャン。
その規則正しいリズムは、狂気じみていて、どこか悲しげでした。
私たちは、迷路のように入り組んだ通路を進んでいきました。
足元には、黒く変色した油が水たまりを作っていました。
頭上を走るパイプからは、シューッという音と共に高温の蒸気が噴き出し、視界を白く遮ります。指で触れると、ぬるりとしていて、鉄のはずなのに生温かい。
(……怖い)
私は、自分の右手を強く握りしめました。
先ほど、暴徒を破裂させた感触が、まだ掌に残っています。
油のぬめりが、あの時の血の感触を思い出させました。
拭っても拭っても、指先から「赤」が取れないような気がして、吐き気が込み上げてきます。
『――こっちよ』
不意に。
蒸気の向こうから、甘い声が聞こえました。
「え?」
私は足を止め、周囲を見回しました。
ヴェールさんもリアも、気づいた様子はありません。
『可哀想なイリス。怖かったでしょう? 寒かったでしょう?』
耳ではありません。脳髄に直接、蜂蜜を垂らされるような響き。
カルミナの声です。
けれど、いつもの冷徹な響きとは違う、もっと熱っぽくて、粘り気のある声。
『早くおいで。私を食べて。そうすれば、もう二度と怯えなくて済むわ』
『誰にも負けない、誰も寄せ付けない、最強の魔女になれる』
ドクン、ドクン。
声に合わせて、工場の地響きが大きくなったように感じました。
いいえ、違います。
これは私の心臓の音? それとも、この迷宮の奥にある「何か」の鼓動?
「……マシロ? どうした」
ヴェールさんが怪訝な顔で振り返りました。
私はハッとして、首を振ります。
「……いえ、なんでもありません。ただ、少し目眩がして」
「顔色が悪いぞ。……さっきのことが堪えてるのか」
彼は少し言い淀んでから、不器用な慰めを口にしました。
「気にするなとは言わねえ。だが、お前がやらなきゃ俺たちは死んでた。それだけの話だ」
「……はい」
私は曖昧に頷きました。
言えません。
殺してしまった罪悪感よりも今、奥から聞こえる「甘い誘惑」に、胸が高鳴ってしまっているなんて。
視界の端、蒸気の隙間から見える工場の最深部。
そこにある巨大な高炉の隙間から、ドロドロとした赤い光が漏れ出しているのが見えました。
あれが、アイゼンを助けるための結晶。
いいえ、あれは――。
(……私の、心臓?)
そんな奇妙な直感が、私の足を無意識に早めていました。
怖いのに、近づかずにはいられない。
まるで、迷子が母親の背中を見つけた時のように。




