第1節:紫の煙
ネオンの毒々しい色彩が、足元の排水溝に吸い込まれて消えていく。ヴェールさんの後を追い、私たちは地下街のさらに「底」へと降りていきました。そこは、もはや街ですらありませんでした。
頭上を走る無数の太いパイプからは、時折、蒸気が悲鳴のように噴き出しています。漂っているのは、饐えた油の匂いと、何かが焦げ付いたような鉄の匂い。そして――微かに混じる、あの不快な「消毒液」の匂い。
「……チッ、ここもかよ」
ヴェールさんが舌打ちをして、足を速めました。迷路のようなパイプの隙間を抜け、私たちは巨大な、歪んだ円形の隔壁扉の前になんとか辿り着きました。かつては防壁の一部だったのか、厚い装甲板には「立入禁止」の文字がかすれて残っています。
「……ここ、とってもくらいね。おねえちゃん、てぇ、つないで……?」
リアが不安そうに、私の服の裾をギュッと握りしめました。彼女の黄金の瞳が、暗闇の中で小さな灯火のように揺れています。
「大丈夫よ、リア。アイゼンも、ヴェールさんもいるから」
私はアイゼンの冷たい指先に触れ、自分に言い聞かせるように答えました。青いリボンを結んだ彼の腕を引き、私たちは扉の前に立ちます。ヴェールさんが、懐から取り出した旧式の工具を隔壁扉の隙間にねじ込みました。
その時でした。背後の通路の奥から、白い霧が這うように迫ってきました。霧の向こうに、白一色の防護鎧を着た騎士たちの影が見えます。無音の行進。彼らが通った場所から、色彩が消え、真っ白な無菌室へと塗り替えられていくのが見えました。
(……見つかる!)
距離はもう、数十メートルもありません。リアが私の服を握りしめて震えています。ガリッ、と金属が噛み合う音がしました。しかし、重厚な扉はすぐには開きません。
「くそっ、開けよボロ扉が!」
ヴェールさんが焦りから声を荒らげ、工具を強引に回した瞬間です。
ゴゥン……!
重い音と共に、扉のロックが外れました。まだ数センチしか開いていない隙間から、紫色の煙が漏れ出します。
次の瞬間。隙間から「人の手」が伸びてきました。油汚れと傷だらけの、華奢な女性の手。その手が、ヴェールさんの襟首を強引に掴みました。
「――――ボサっとしてんじゃないよ、馬鹿ども!」
低い、不機謙な女性の声。ヴェールさんが中に引きずり込まれ、続いて私とリアが隙間に飛び込みました。しかし、アイゼンを乗せたソリが扉の枠に引っかかり、嫌な金属音を立てます。
「……アイゼン! 来て!」
私が必死に革紐を引くと同時に、女性が「チッ、重いねえッ!」と毒づきながら、アイゼンの装甲に足をかけ、強引に蹴り込みました。
ガゴンッ! 内側から即座にレバーが引かれ、扉が密閉されます。ロックされる音が、心臓の音よりも大きく響きました。
「……はぁ、……はぁ」
薄暗い部屋の中で、ヴェールさんが尻餅をついたまま荒い息を吐いています。その目の前に、紫煙を燻らせた小柄な影が立っていました。
油染みたツナギに、雑に羽織った白衣。右目には、複数のレンズが回転する複雑なモノクル。彼女は、壁のモニターに映る「扉のすぐ外を通過していく白い騎士たち」を忌々しげに睨みつけると、私たちを見下ろしてニヤリと笑いました。
「いい度胸だね、ヴェール。私の家の前まで『掃除屋』を連れてくるなんて」
「……うるせぇ。お陰で商談相手を連れてきてやっただろ、クソババア」
ヴェールさんが、震える手で前髪をかき上げながら悪態をつき返しました。彼女――廃材の魔女ヴィオラさんは、呆れたように肩をすくめ、煙を吐き出しました。
「ようこそ、私のゴミ溜めへ。……あと一秒遅かったら、あんたたちも『漂白』されてたよ」




