第8節:鉄の寝息と、凍える指先
深夜。酒場『赤錆亭』の喧噪も、厚い床板を隔てて微かな地鳴りのように響くばかりです。屋根裏の狭い窓から差し込むのは、月光ではなく、消えることのない地下街の毒々しいネオンの残光でした。私は眠れず、静かにベッドを抜け出しました。階段を降り、裏口の薄暗がりに向かうと、そこには変わらずアイゼンが鎮座していました。
「……まだ起きていたのか、お前」
アイゼンの傍ら、空の木箱に腰掛けていたヴェールさんが、気怠げに視線を向けてきました。彼は上着を脱ぎ、薄いシャツ一枚の姿でした。暗がりでもわかるほど、彼の肌は透き通り、浮き出た血管が痛々しく青く見えます。
「あなたこそ……。寒くないのですか?」
「寒いさ。……年中、骨の髄までな」
彼は自嘲気味に笑い、懐からあの『奪色の短剣』を取り出しました。鞘に収まっているというのに、その魔道具は周囲のわずかな光さえ吸い込んでいるように見えます。
「俺の病気……『色漏症』はな、バケツに穴が開いてるようなもんだ。注いでも注いでも、命が外へ漏れていく。だから、他人から奪って継ぎ足すしかねぇ」
ヴェールさんが細く、傷だらけの指先をアイゼンの装甲に滑らせました。
「お前は『与えて』壊れていく。俺は『奪って』かろうじて繋ぎ止めている。……皮肉なもんだな。マシロ、お前のその『濃い色』を少しでも分けてもらえば、俺は一月は安眠できるだろうよ」
冗談めかした口調。けれど、その瞳の奥には、昼間の『洗礼』で見せた、喉の渇きに似た激しい飢えが潜んでいました。
「……いいですよ」
私が迷わず右腕を差し出すと、彼は一瞬、息を止めました。手首を真っ黒に染め上げた私の呪い。彼はそれを一瞥し、乱暴に視線を逸らしました。
「……フン、冗談だよ。そんな死にかけの泥水を啜るほど、俺は落ちぶれちゃいねぇ」
彼は立ち上がると、アイゼンの兜を軽く小突きました。
「お前のその腕……。それ以上進めば、もう引き返せねぇぞ。……ヴィオラの婆さんのところへ行く。あいつなら、そのデカブツの修理も、お前の腕を止める方法も、何かしら知ってるはずだ」
「ヴィオラ……?」
「ああ。……このクソ溜めのさらに下、ゴミ捨て場に住み着いてる偏屈な魔女だ」
ヴェールさんが歩き出す際、一瞬だけ私の肩に手が触れました。それは、やはり氷のように冷たく――けれど、突き放すような冷酷さは、もうそこにはありませんでした。
「……魔女」
私はその言葉を、口の中で転がすように繰り返しました。
(……教団の人も、ハルさんも、私をそう呼んだ。ただアイゼンを動かしたいだけの、空っぽの器なのに……)
「私と同じ……なの?」
「さあな。……あいつは色を操るんじゃなくて、死んだ機械に『色』を吹き込んで叩き起こす。……お前がアイゼンにしてることと、似てなくもねぇよ」
彼はそう言うと、よろりと立ち上がりました。彼の身体から、陽炎のような緑の光――漏れ出す命の欠片が、夜の闇に吸い込まれて消えていきます。
「……ヴェールさん、やっぱり冷たい。私の……」
「しつけぇな。寝ろと言っただろ、狂人」
彼は振り返らず、階段の方へと歩き出しました。けれど、去り際にぽつりと落とすように呟いたのです。
「……お前の色は、重すぎるんだよ。……俺みたいなスカスカの奴が触れたら、それだけで溺れちまう」
その言葉は、拒絶というよりは、自分への戒めのように聞こえました。
私は独り、地下街の極彩色の光を浴びるアイゼンの隣に残されました。明日、私たちはもっと深い闇へと潜る。そこで待っている「魔女」は、私の腕を救ってくれるのでしょうか。それとも、アイゼンをただの鉄屑に戻してしまうのでしょうか。私はアイゼンの首元に結んだ青いリボンを、もう一度だけ強く締め直しました。
第5章 「ネオンの灯りと偽りの夜」 完




