第7節:煤を落とす、かりそめの体温
「……マシロ、お前」
路地の影で、ヴェールさんが自分の指先を見つめたまま立ち止まりました。先ほど私の手首に触れた彼の指は、まだ微かに震えています。
「……いや、なんでもねぇ。おい、いつまでアイゼンを撫で回してんだ。さっさと来い」
彼は吐き捨てるように言うと、宿の裏手にある精製パイプの影から、湯気の立つバケツを引っ張り出してきました。
「これを使え。……泥だらけの女とガキを連れて歩くのは、俺の美学に反するんだよ」
彼が背後から、古びた鉄のバケツを差し出してきました。中には、地下の精製炉から漏れ出た蒸気で温められたのであろう、熱いお湯がなみなみと注がれています。
「お湯……? 貴重なんじゃ……」
「さっさと洗え。マシロ、お前も、そのガキもだ」
案内された屋根裏の隅には、薄汚れたカーテンで囲われた一角がありました。天井から滑車で吊るされた無骨な漏斗が、この街における「浴室」のすべてなのでしょう。ヴェールさんはバケツのお湯をその上のタンクへ注ぐと、無愛想に背を向けました。
「わあ……! おゆだ! あったかーい!」
リアが歓声を上げ、自分からボロボロのシャツを脱ぎ捨てました。私は彼女の小さな身体をカーテンの奥へ招き、丁寧に、優しく煤を落としていきました。お湯が触れるたび、リアの肌がマシュマロのような本来の白さを取り戻していきます。
「おねえちゃん、きもちいいねぇ……。リア、おゆなんて、はじめてかも」
「そうね……。風邪を引かないように、よく温まって」
リアの黄金の瞳が、湯気の中で潤んでいます。彼女を洗い終え、今度は自分の番。私は独りになり、湿った空気がこもる仕切りの奥で、ゆっくりと服を脱ぎました。カビ臭い鏡に、自分の裸体が映ります。
「……っ」
私は自分の右腕を見て、息を呑みました。指先から始まり、手首を完全に飲み込んだ『黒い痣』。それは無機質な鉱石のように硬く、冷たく、私の白い前腕へと数センチ這い上がっています 。血管を黒いインクが逆流しているような、おぞましい光景。お湯をかけても、そこだけは何も感じません 。温かさも、水の重みも、すべてが「無」に吸い込まれていく。鏡の中の私は、美しく整えられた「白」と、心臓を狙う「黒」に分たれた、壊れかけの器のようでした。
「……マシロ、生きてるか。……のぼせて死ぬなよ」
カーテンの向こうからヴェールさんの声が聞こえ、私は慌てて右腕を隠しました。
「……っ! 大丈夫、です……」
バケツの底に残った最後のお湯を、私は頭から被りました。一瞬だけ感じた温もりは、けれどすぐに、心臓の奥から湧き上がるような『漂白の寒気』にかき消されていきました。




