第5節:パン強奪事件と大人げない共犯者
結局、ヴェールさんの仲裁でアイゼンは解放されました。けれど、騒ぎでお腹が空いた私たちは、彼の案内で街のメインストリートへ食事に出かけることになったのです。アイゼン(青いリボン付き)が後ろを歩くだけで、周囲の酔っ払いたちは蜘蛛の子を散らすように道を開けてくれます。
「わあ……! おいしそうなにおい!」
屋台の前で、リアが足を止めました。鉄板の上で焼かれているのは、合成肉と香草を挟んだパンです。リアは物欲しそうに指をくわえ、焼けるパンと私を交互に見つめています。
(……何か、してあげなきゃ)
私は焦りました。リアに「頼れるお姉ちゃん」としての姿を見せたい。けれど、私は「買い物」なんてしたことがありません。灰の村での食事は、配給でもらうか、あるいは誰かと奪い合うものでしたから。
私は周りを見渡しました。ガラの悪い男たちが、店主に怒鳴るように注文しています。そうか……。ここでは、ああやって強く言わないといけないんだ。
私は意を決して前に出ました。精一杯、眉間に皺を寄せ、ドスの効いた低い声を作ります。
「……おい。パン。早く」
ドン、とカウンターに手を置きました。屋台の親父が、ぎょっとして私を見ます。……あれ? 反応がありません。もっと強く言わないとダメなのでしょうか。
「だから……パン。三つ。……いますぐ」
さらに睨みつけてみました。これなら、きっとスラムの住人に見えるはず。しかし、親父は怯えるどころか、不気味なものを見るような目で私を見下ろしました。
「あぁ? なんだそのツラは。……銭はあるのかよ、嬢ちゃん」
「ぜに……?」
予想外の言葉に、私の「悪い顔」が崩れます。お金。そういえば、ヴェールさんが言っていました。ここでは通貨が必要だと。でも、そんなもの持っていません。
「……私の命を少し、分ければ……そのパン、もらえるのかしら」
私は自分の右腕――黒く染まった痣を見つめ、本気でそう呟きました。その瞬間、横から呆れたようなため息と共に、ペシッ、と頭を軽く叩かれました。
「バカかお前。こんな場所でその『濃い色』を見せてみろ。パンどころか、お前の命ごと鍋に放り込まれるぞ」
「……あ、ヴェールさん」
ヴェールさんが呆れ顔で私の前に割り込みました。彼は懐から数枚のくすんだ硬貨を取り出し、親父に放り投げます。
「へい、毎度!」
「……ったく。睨みつければ飯が出てくると思ってんのか。野生動物かよ」
「だ、だって……みんなそうやってたから……」
私が顔を赤くして俯くと、ヴェールさんは鼻で笑い、焼きたてのパンを3つ受け取りました。
「ほらよ、チビ。落とすなよ」
「うん! ありがとう、おじちゃん!」
「だからおにいちゃんだっつってんだろ!」
リアは嬉しそうにパンを両手で抱え、大きな口を開けました。その時でした。
「っと、もらい!」
人混みから飛び出してきた影が、リアの手からパンをひったくりました。チンピラ風の男が、ニヤニヤしながらパンを齧っています。
「あ……! わたしの……!」
リアが悲鳴を上げます。地面に落ちたパンの欠片を見て、彼女の瞳が潤みました。――カッ、と頭に血が上りました。リアの楽しみを、ささやかな幸せを、踏みにじるなんて。ヴェールさんが「お金」という対価を払って手に入れた、この子への贈り物を。
「……許さない」
私は無意識に、懐のナイフを抜いていました。切っ先を、黒い痣の走る手首に向けます。対価が必要なら、今ここで払ってあげる。私の命を使えば、あんな男、一瞬で消し炭に――。
「おい、待て」
ガシッ、と強い力で手首を掴まれました。ヴェールさんです。
「……離して。リアが泣いてる。対価なら、私が払うから」
「だから、お前の『色』を安売りしてんじゃねえって言ってんだろ。……いいか、お前の血は、もっとデカブツの絶望をひっくり返すための命綱なんだ。こんなカス相手に使う価値はねぇよ」
彼は私のナイフを強引に鞘に戻すと、呆れたように、けれどどこか真剣な目で私を睨みました。
「……マシロ。こういう時の対価はな、拳で払うもんだ」
ヴェールさんが男の方へ向き直ります。
「おい兄ちゃん。……ガキの餌取って、美味いか?」
「あ? なんだお前。文句あっか――」
男が言いかけた瞬間でした。――ドゴォォォォォンッ!!
轟音と共に、男の身体が路地裏のゴミ箱まで吹っ飛びました。魔法ではなく、ヴェールさんの拳が、男の顔面にめり込んだのです。
「いってぇ……! な、なんだお前!?」
「あ? 文句あっか?」
ヴェールさんは首をボキボキと鳴らし、男の胸ぐらを掴み上げました。
「おい、パン代だ。……利子込みでな」
ヴェールさんは男の財布をひったくると、ゴミのように彼を放り捨てました。直後、彼は「……はぁっ、……クソ、響くぜ……」と短く吐き捨て、胸元を強く押さえました。その指先から、陽炎のような「色」がわずかに漏れ出し、甘ったるい死の匂い(色漏症)がふわりと路地に漂います。彼は自分の命を削ってまで、リアのパンを取り返してくれたのです。
「……おじちゃん、だいじょうぶ?」
「……うるせぇ。おにいちゃんだ。……ほらよ、マシロ。新しいパン買ってこい。今度はちゃんと『カネ』を払えよ」
ヴェールさんは奪い取った小銭を私の掌に押し付けました。
「……ふふっ」
ヴェールさんに叱られ、リアに「おじちゃん、さっきすっごくわるいかおしてた」と引かれ、肩を落とす彼を見て、私は思わず吹き出してしまいました。
世の中のルールも、お金の使い方も、私にはまだ難しいけれど。
手の中のパンは、少ししょっぱくて、とても温かかったのです。




