第6節:温かい鉄と、冷たい朝
目が覚めたのは、カビと古い埃の匂いがする暗闇の中でした。
どれくらい、意識を失っていたのでしょう。遠くで鐘の音が響いていますが、追跡者の足音はありません。ここは、打ち捨てられた教会の地下室――あるいは、大きな墓所の一角のようです。
「……ん……」
身体を動かそうとして、うめき声が漏れました。
全身の関節が錆びついたように重く、鉛を飲まされたような倦怠感が、思考を泥のように濁らせています。視界はまだ、色を取り戻していません。
カチャ。
微かな金属音がして、頬に触れていた硬い感触が離れました。見上げると、そこには見慣れた巨大な鉄兜がありました。アイゼンです。彼は膝を折り、自身の巨体で外からの視界を遮るようにして、私とリアを守る「壁」となっていました。
けれど、その眼窩の奥にあったはずの青い灯火は、今はもう、完全な暗闇に戻っています。
「アイゼン……」
私は手を伸ばし、彼の胸部装甲に触れました。
冷たい。数時間前、私の命を燃料にして動いていた時のあの温もりは、夜の冷気に奪われて完全に消え失せていました。
『……』
軋む音すら、もう鳴りません。彼は私とリアをこの安全な場所に運び終えた瞬間、最後の力を使い果たし、再び「ただの鉄塊」へと戻ったのです。
「……ごめんね。無理、させちゃった」
痛む右腕の袖を、ゆっくりと捲り上げます。暗闇に目が慣れてくると、そこに刻まれた「代償」の深さがはっきりと分かりました。
黒い痣は、手首のラインを完全に飲み込み、その先の白い肌へと這い上がっていました 。昨日よりも、確実に範囲が広がっている。
黒く染まった肌の部分だけ、感覚がありません 。まるで冷たい石に変わってしまったかのように、そこだけが私の体であって、私の体ではないような不気味な違和感がありました。
(……ああ、もう、次はないかもしれない)
次、彼を動かせば。その瞬間、私の命はまた大きく食い破られる。自分の死期が、明確な「距離」として提示されたことで、不思議と恐怖はありませんでした。あるのは、ただ静かな諦観だけ。
「ましろおねえちゃん、おはよう」
背後で、リアの声がしました。彼女は目をこすりながら起き上がると、私の無事な左手に、自分の小さな手を重ねました。
「おそと、しずかになったね。おにいさんたち、もうねちゃったかな?」
声は、いつもと同じように明るい。けれど、私の左手を握るその小さな手は、昨日よりもずっと強く、小刻みに震えていました。
「……ねえ、ましろおねえちゃん」
彼女は何かを言いかけて、口をつぐみます。
広場で見た「黒い飛沫」のこと。アイゼンの咆哮のこと。彼女は、死というものを正しく理解していないかもしれません。ただ、本能で「自分が何か悪い魔法を使ってしまった」と感じている。それを言葉にしたら、私が離れていってしまいそうで、怖い――。幼い子供の、精一杯の強がりでした。
「……そうだね。でも、アイゼンが守ってくれたから、もう大丈夫だよ」
私は、彼女を責める言葉を飲み込みました。
リアに「きゅうさい」の意味を教えなかったのは、私。アイゼンを凶器に変えたのは、私の『色』。全部、私の罪なのですから。
「いく? おうち、かえる?」
リアの無邪気な問いかけ。彼女は、また三人で「おうち」に帰れると思っているのでしょう。私は、答えの代わりに立ち上がりました。
「……うん。でも、この街には、もういられない」
教団の兵士を大勢殺してしまった以上、あの褐色の街に私たちの居場所はありません。ここから先は、塔からの本格的な追手が差し向けられるはずです。私はゆっくりと振り返り、リアの目を見つめました。
「……リアは、ここに残るのよ」
私は、できるだけ優しく、けれど強い口調で言いました。
「え……?」
リアの大きな瞳が、見開かれます。
「私たちは、これから追われる身になる。あなたを危険な目に遭わせるわけにはいかない」
私は、彼女の小さくて温かい頭に手を置きました。
「街が落ち着いたら、誰か優しい大人を見つけなさい。きっと、助けてくれる人がいるから」
リアは、黙ったまま俯きました。その小さな肩が、微かに震えています。
――ああ、わかっているのです。これが正しい選択だと。テオを壊してしまった私が、また子供を巻き込むわけにはいかない。
「……やだ」
「え……?」
「やだよぉ。ましろおねえちゃん、いっちゃいやだぁ……」
リアが顔を上げました。その瞳には、大粒の涙が溜まっています。
「おとうさんも、おかあさんも、いなくなった。みんな、いなくなった。ましろおねえちゃんまでいなくなったら……リア、ひとりぼっちだよぉ……」
彼女の小さな手が、私の服の裾を強く、強く握りしめます。
「おねがい。リアも、つれてって。リア、いいこにする。じゃましない。だから……おねがい……」
涙声で必死に訴えるリアを見て、私の決意はあっけなく崩れ去りました。
(……ああ、だめだ)
私は、この子を置いていくことができませんでした。テオを救えなかった。けれど、この子だけは、側にいてほしいと言ってくれている。
「……わかった。一緒に、行こうね」
私はリアを抱きしめました。これは、正しい選択ではないかもしれない。また、この子を壊してしまうかもしれない。それでも――私は、この温もりを手放せませんでした。
「……その代わり、私の手を離さないでね。……もう、置いていかないから」
「ましろおねえちゃん……だいすきぃ」
リアの小さな声が、私の胸に染み込みます。
*
「アイゼン。もう少しだけ、一緒に歩いてくれる?」
声なき鉄の騎士に問いかけます。返事はありません。
頼みの綱だった台車は、広場に置いてきてしまいました。私は地下室の隅で、辛うじて息をしていた瓦礫運搬用の古い猫車を見つけました。
腐りかけた木枠に、錆びついた小さな車輪が一つ。私は地下室にあった古いロープと革紐を即席で結び合わせ、アイゼンの巨体をその鉄板の上へと強引に乗せました。
重い。あまりにも重い。
車輪が悲鳴を上げ、地面を削るような不快な音を立てます。自分の命そのものになった鉄の塊を、一歩、また一歩と引きずり始めました。
(……無理だ)
数メートル進んだだけで、息が上がります。これでは、街を出る前に日が暮れてしまう。追手に見つかるのも時間の問題です。
それでも。止まるわけにはいきません。
朝の光が、地下室の鉄格子から差し込みます。私の目には、その光すらも、色あせた灰色にしか映りませんでした。
私を侵食する黒い痣。
あと何回、彼を動かせるだろう。あと何人、「救って」しまうのだろう。
――そして、最後に私が見る世界は、何色なのだろう。
(あの、目が痛くなるほどの黄金色だったら――)
不意に、脳裏に浮かんだ光景。見たことがないはずの、鮮やか過ぎる世界。私は首を振り、その幻影を追い払いました。
「リア、行こう」
ギギギ、と耳障りな音を立てて。
私たちは灰色の朝に、再び歩み出しました。
第3章 「赤錆の救済」 完




