第5節:鉄の咆哮
死を覚悟して、目を閉じました。
振り下ろされる銀光。私を「害虫」と断じた兵士の、感情の抜け落ちた瞳。
――来る。
けれど、私の身体が切り裂かれる代わりに響いたのは。
この世のものとは思えない、地を這うような咆哮でした。
『……ゴ、ォア……ッ!!』
それは、錆びついた肺胞が無理やり空気を吸い込む音。止まっていた巨大な時計の歯車が、錆を噛み砕きながら強引に回り出すような、生理的嫌悪を呼び起こす軋みでした。
「な、なんだ……!? 」
剣先が、私の喉元数センチで止まります。
私の背後。台車の上で、ただの鉄塊だったはずのアイゼンが、巨大な右腕を――ゆっくりと、確実に持ち上げていたのです。
ドクン。
右腕の黒い痣が、今までになく激しく脈打ちました 。恐怖ではありません。私の生存本能が、彼を求めたのです。
熱い。骨が軋むほどに熱い。触れていない。それなのに、私の内側にある色が、目に見えない管を通って彼へと流れ込んでいく感覚がありました。
「アイゼン……動くの? 私を……守って、くれるの……?」
答えはありません。
ゴリ、ゴリ、と。関節の錆を削り落とす不快な音を立てながら、彼は台車からその巨体をずり落としました。
ドォォォォンッ!!
巨大な鉄の塊が、ただ着地しただけ。それだけで石畳は砕け、土煙が舞い、周囲の兵士たちは嵐に遭った木の葉のようにたじろぎます。
「異端の……自動人形か!? 控えよ! 我らは塔の執行者だぞ!」
リーダー格の兵士が叫び、剣を構え直しました。その時――私の視界から、フツリと色が消えました。
灰色の石畳が、白に。兵士の鎧が、輪郭だけの影に。リアの銀髪が、薄い霧のように透けていく。
世界から、彩度が一枚ずつ剥がされていくような感覚。それと引き換えに、アイゼンの錆びついた鉄兜がゆっくりと上がり――暗い眼窩の奥に、消え入りそうな『青い灯火』が灯りました。
(……ああ、知っている)
あれは、私の色だ。私の体温。私の記憶。私が、私であるための何か。それが今、あの鉄塊の中で燃えている。
「ひ……ひぃっ……!」
兵士の悲鳴が、遠くで泡のように弾けました。
アイゼンは、逃げようとした兵士の胸倉を、巨大な五指で無造作に掴み上げます。避けない。躊躇しない。かつて彼の中にあった「教団への忠誠」は、私の色によって塗りつぶされ、今はただ――私を守るためだけの、歪んだ守護本能に変質していました。
ミシミシ、と。骨の砕ける音が、広場に響きます。
「……あ、が……っ!!」
その瞬間、右腕に、かつてない衝撃が走りました。
焼けた鉄を、直接血管に流し込まれたような激痛 。黒い痣がミチリと音を立て、手首を完全に飲み込み、その先の白い肌へと這い上がってくるのが見えます 。
進行した部位の感覚が急速に薄れていく不気味な感触 。呼吸をするたび、肺の奥でガラス片が暴れるような痛みが走りました。
「ましろおねえちゃん……? おねえちゃん、おかお、まっしろだよ……?」
リアの小さな手が、私の頬に触れました。けれど、その温かささえ、今の私には「アイゼンに与える燃料」にしか感じられない。
「……こないで。リア……」
私は彼女を突き飛ばすようにして、地面に崩れ落ちました。石畳に散った吐血だけが、色を失った世界で、異様に鮮烈でした。
その時――広場の向こうから、足音が押し寄せてきます。
「異端者を包囲せよ!」
「自動人形を鉄くずに変えろ!」
十人以上の兵士が、槍を構えてなだれ込みました。だめだ。私の命の残量では、これ以上――。
「……アイゼン……」
力なく呟いた、その時でした。私の足元で震えていたリアが、ふらりと立ち上がったのです。
「だめ……!」
止められない。もう、何も。リアは私とアイゼンを守るように両手を広げ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、兵士たちに叫びました。
「いじわるしないで! ましろおねえちゃん、わるくない!」
甲高い声が、広場に響き渡ります。
「おにいさんたちも……色が、たりないの……?」
――ああ。なんて、残酷な言葉でしょう。
リアは本気でそう思ったのです。この人たちがこんなに怒っているのは、色が足りなくて苦しいからなんだ、と。だから。
「アイゼンさん! おにいさんたちを……『きゅうさい』してあげて……!」
彼女は、「きゅうさい」の本当の意味を知りません。ただ、痛みを消す魔法の言葉だと、信じただけ。
リアの叫び。それはアイゼンにとって意味のある言語ではありません。けれど、彼女の指差す先には、明確な「敵意」がありました。そして何より、私の命が脅かされている。その事実だけで、彼が動く理由には十分でした。
そして、アイゼンにとって――それは、殲滅命令でした。
『ガ……ルォォォォォォォォッ!!』
咆哮が、衝撃波となって広場を叩き潰します。アイゼンは近くにあった石造りの柱を、メリメリと音を立てて引き抜きました。それは、人間にとっては攻城兵器のごとき圧倒的な質量。
「撃て! 弓兵、撃てぇッ!」
矢が雨のように降り注ぎ、装甲に弾かれます。次の瞬間。
ズガァァァァァァァンッ!!
投げ放たれた石柱が、兵士たちの密集地帯を押し潰しました。悲鳴すら、上がりません。白黒の世界に舞うのは、ただの黒い飛沫。
「わあ……!」
リアが、無邪気に歓声を上げました。彼女には見えていないのです。飛び散ったのが「人」であることを。ただ、悪いお兄さんたちが「きゅうさい」されて、きれいな色になったことだけを喜んでいる。
それが、リアの願った「きゅうさい」の結末でした。
私は、嘔吐すらできませんでした。
アイゼンは振り返り、膝をついた私の前に、片膝をつきます。血に塗れた巨大な両手が、壊れやすいガラス細工を扱うように、私とリアをそっと掬い上げました。
『ギ、ィ……』
軋むような駆動音が、私にはどこか、名前を呼ばれたように聞こえました。
兜の奥の青い灯火が、私を見下ろしています。熱い。私の命が、彼の中で燃えている。
「……ありがとう……アイゼン……」
意識が、そこで途切れました。
分厚い胸部装甲に頬を押し当てたまま、彼が私たちを抱え、壁を体当たりで粉砕し、夜の街へと駆け出していく振動を、遠い夢のように感じながら。
沈んでいく意識の底で、私は確かに感じていました。冷たいはずの鉄の身体が、私の体温で――ほんのりと、温かくなっているのを。




