第3節:赤き聖針
穏やかな時間は、唐突に終わりを告げました。
隠れ家に備蓄していた雨水と、手持ちの食料が完全に尽きたのです。
私たちは今日の分の水と食べ物を探すため、街の中心部へと向かうことにしました。
「こっちだよ! 今日は、ひろばのほうで、なにか配ってるかも!」
雨上がりの路地を、リアは水たまりを避けもせずにぴょんぴょんと跳ねていきます。
その背中は、この淀んだ街で唯一、風が吹いているように軽やかでした。
「待って、リア。あまり離れないで」
私はアイゼンの台車を押しながら、少し焦って声をかけました。
以前なら「色が散るわよ」と冷めた忠告をしていたでしょう。
けれど今は、この無防備な背中が視界から消えることが、たまらなく不安でした。
街の様子がおかしいのです。
いつもなら死んだように静まり返っている路地に、人の気配がありません。
代わりに、遠くの広場から、ざわざわと波のようなノイズが聞こえてきます。
「……おねえちゃん、見て! 人がたくさん!」
リアが立ち止まり、路地の角から顔を覗かせました。
追いついた私もまた、息を呑んでその光景を見つめました。
広場の中央。
そこには、この煤けた街には到底似つかわしくない、純白の法衣。
その上から、まるで返り血を浴びたように鮮烈な『赤』の甲冑を纏った男たちが立っていました。
「……塔の、兵士」
灰の村でテオの運命を狂わせた、徴収官と同じ気配。
ですが、彼らが纏う空気はもっと異質で、儀式じみていました。
「――刻は満ちた。迷える子羊たちよ」
甲冑の男が、芝居がかった声で両手を広げます。
その瞬間でした。
広場を取り囲んでいた街の住人たちが、誰に命令されるでもなく、一斉にその場に跪いたのです。
ザッ、と泥を踏む音が重なります。
彼らは恐怖しているのではない。
ただ、そうすることが日々の食事と同じように「当たり前」になっているのです。
その統率された沈黙が、私には何より恐ろしく映りました。
「秩序なき世界に、救済の光を。貴様らの汚れた生を、我らが清算してやろう」
男は恭しい手つきで、ビロードの布に包まれた器具を取り出しました。
それは武骨な武器ではありません。
繊細な彫刻が施された、銀色の杭――いや、『聖針』とでも呼ぶべき祭具でした。
「選ばれし幸運を噛み締めなさい」
広場の中央、縛り上げられた男の首筋に、冷たい銀の針が添えられます。
「色は塔へ」
「「色は塔へ」」
兵士の先導に合わせ、周囲の群衆がうつろな瞳で唱和します。
それは祈りというより、感情のない呪詛のようでした。
「灰は土へ」
「「灰は土へ」」
「――救済!」
叫びと共に、針が突き立てられました。
男の身体がビクリと跳ねます。ですが、悲鳴はありません。
代わりに、男の身体から微かに残っていた褐色が、煙のように吸い上げられていきます。
カサ、カサカサッ……。
乾いた音が響きました。
皮膚は瞬く間に灰色へと変色し、まるで最初から砂細工であったかのように、ボロボロと形を崩して地面へと散らばっていきました。
そこにはもう、人間はいません。ただの、乾いた砂の山があるだけ。
「わあ……きれい」
隣で、リアが呑気な声を上げました。
彼女が見ていたのは、死んだ男ではありません。
絞り取られた命が、ガラスの筒の中で鮮やかな真紅の液体となって輝いていたからです。
命を奪うこと。
それを「救済」と呼び、美しいと讃える狂気。
――ああ、嫌だ。吐き気がする。
私はとっさにリアの目を手で覆い隠そうとしました。
けれど、手が止まりました。
(あなたを救うためだから)
かつて、私もそう言って、世界の理をねじ曲げたのではなかったでしょうか。
彼らの独善的な理屈を、私は「知っている」気がしてしまったのです。
右腕に刻まれた黒い痣が、まるでその罪を肯定するように、ドクンと熱く脈打ちました 。




