第2節:灰の上のピクニック
私とアイゼンが、リアの案内でこの街に来てから、六日が経っていました。
ここは、かつて教会だったと思われる崩れかけの塔の最上階。天井にはぽっかりと穴が空き、そこから鈍色の空が見えます。床には古びた毛布や、かき集められたらしい乾いた草が敷き詰められていました。
「どう? わたしのおうち、すてきでしょ!」
リアは得意げに胸を張り、部屋の隅にあるガラクタの山――欠けたガラス玉や、色褪せたリボンの切れ端――を指差しました。
両親がいないという彼女が、この荒廃した街で一人、どうやって生き抜いてきたのか。その過酷さは想像に難くありませんが、彼女の顔には悲壮感など微塵もありませんでした。
「ええ、とても……温かい場所ね」
私は心からそう言いました。
雨風を凌げる場所。正式な許可証のない私たちが隠れ潜める場所。そして何より、私を「魔女」だと石を投げない人がいる場所。灰の村を追われてからずっと張り詰めていた神経が、泥のように溶けていくのを感じていました。
「ふふっ。……ねえアイゼンさん、きょうはなにして遊ぶ?」
リアが、部屋の中央に鎮座する巨大な鉄の鎧に抱きつきました。
ピクリとも動かないアイゼン。本来なら子供が怯えて泣き出すような無骨な巨体ですが、リアにとっては「寡黙で大きなぬいぐるみ」と同じようでした。
彼女は落ちていた炭の欠片を拾うと、アイゼンの装甲に何かを描き始めました。覗き込むと、そこには歪ですが愛らしい、笑顔のマークが描かれていました。
「ほら、わらった! おねえちゃんもかく?」
「……ふふ、そうね。少しだけ」
私はリアの隣に座り、アイゼンの冷たい鉄の足元に、小さな花を描き足しました。
テオの村では、アイゼンは「中に怪物がいる」と恐れられました。けれど、この子は彼を愛でてくれている。そのことが、私には自分のことのように嬉しかったのです。
「ねえおねえちゃん、アイゼンさんって、なんで動かないの?」
「……病気、みたいなものかな」
「びょうき? じゃあ、塔の人に『色』をもらえば、なおるの?」
その言葉に、私の手が止まりました。
塔。色を奪う者たち。彼らに頼れば、アイゼンは動くかもしれない。でも――その代償は?
「……ううん、リア。塔の人は、きっと助けてくれないよ」
「どうして?」
「あの人たちは、『色』を分けてくれる人じゃないから」
リアは不思議そうに首を傾げましたが、それ以上は聞きませんでした。
『…………』
風が吹き抜ける音。相変わらず彼は沈黙したままですが、私には、アイゼンが困ったように、けれど少しだけ嬉しそうに笑っているような気がしました。
「はい、リア。これ、お昼ご飯」
私は荷袋から、干し肉と少しばかりの木の実を取り出し、リアの小さな手に乗せました。
「わあ! いいの?」
「うん。リアには、案内してもらったお礼がまだだったから」
干し肉はカチカチに乾燥していて、リアの歯では噛み切れそうにありません。彼女は困ったように、肉と私を交互に見つめています。
「……かたいよぉ」
「ふふ、貸してごらん。これはね、こうやって食べるの」
私は少し得意げに干し肉を受け取ると、ナイフの背でコンコンと叩いて繊維をほぐし、小さく千切ってあげました。実はこれ、灰の村でテオがやっていたのを真似ただけ。でも、リアの前では「頼れるお姉ちゃん」でいたくて、私はさも熟練の旅人のような手つきを装いました。
「はい, どうぞ」
「わあ! おねえちゃん, すごい! ものしり!」
リアの尊敬の眼差しが、くすぐったいです。今まで「守られる側」だった私が、誰かに何かを教えてあげられる。それがこんなに誇らしくて、胸が温かくなることだなんて知りませんでした。
「……んーっ! おいしい!」
リアは千切った肉を頬張ると、そのままコロンと私の膝に頭を乗せてきました。
小さく、温かい体温。まるで日向ぼっこをしている仔猫のような無防備さに、私は一瞬、戸惑いました。忌み嫌われ、石を投げられるのが当たり前だった私に、こんなふうに体重を預けてくるなんて。
(……変な子)
けれど、その重みは不思議と心地よくて。私はおずおずと、彼女の薄汚れた銀髪を撫でていました。
「……リアは、ずっとここで一人……なの? お父さんとお母さんは?」
私が何気なく尋ねると、リアは口をもぐもぐさせながら、あっけらかんと言いました。
「うん! おとうさんとおかあさんね、『選ばれた人』になるために、塔へ行ったの」
「……え?」
「自分たちの『色』をぜんぶ捧げたら、壁の中で暮らせるんだって。だからリアに『ここでいい子にして待ってなさい』って。……もう、ずっと前」
リアは、足元に転がっていた「赤い結晶」を愛おしそうに指先で転がしました。
「だからリア、ここで待ってるの。この赤い石とか、かべの中から捨てられる食べ物を拾ってるの。……おとうさんたちが迎えに来たとき、おなか空いてたらかわいそうだもん」
彼女は誇らしげに笑いました。
その笑顔があまりに純粋で、残酷すぎて。私は返す言葉を失いました。
捨てられたのです。
「選ばれた市民」になるための手形として、命を差し出し、邪魔な子供をゴミ捨て場に置いていった。それをこの子は「待っている」と言い換え、ゴミを漁って今日まで生き延びてきたのです。
「おねえちゃんのおてて、つめたいね」
「ごめんね」
怒りで震えそうになる手を、私は必死に抑え込みました。
「ううん、きもちいいよ。……おねえちゃん、ずっとここにいてね」
微睡の中で呟かれたその言葉に、胸の奥がキュッと締め付けられました。
ずっと、ここに。
ああ、それはどれほど甘美な誘惑でしょうか。『世界の果ての塔』など目指さず、この子と、動かないアイゼンと、この小さな部屋で静かに朽ちていく。それもまた、一つの結末なのかもしれません。
私は窓辺へ視線を向けました。
窓の向こう、高い防壁の向こう側には、赤褐色の灯りが灯る灰砂街の中心部が見えます。一見すると平和に見えますが、よく見れば道端には、まるで置物のように動かない人々が点在していました。彼らは怠けているのではありません。命が足りなくて、もう生きる気力を失っているのです。
壁に守られた街全体が、ゆっくりと死に向かう巨大な病室のようでした。
一方で、私たちのいる防壁の外側――この廃墟の街には、瓦礫と継ぎ接ぎのテントが広がるスラム街がへばりついていました。こちらは病室ですらありません。ただの墓場です。今日を生き延びるために奪い合い、灰に埋もれていく人々。親に捨てられた子供が、孤独に親を待ち続ける場所。壁の中も外も、地獄の形が違うだけ。
ここも決して、安住の地ではありません。そして私自身も――。
ズキリ、と右腕が痛みました。
服の下、黒い痣がまた数ミリ、心臓に向かって伸びているような熱さがありました。
私はどうなるの? それでも、ほんの少しだけ。
「……おやすみなさい、リア」
私は眠りについた少女の背中を優しく叩きながら、もう少しだけ、このまどろみの中に留まることを許しました。




