第三部・第8話 たぶん、動いた
影野蒼汰は、
自分の腕を見下ろしていた。
白いガーゼ。
その下に、
もう痛みはほとんど残っていない。
医務室のベッドは硬く、
天井の白がやけに眩しい。
「……大げさだよな」
独り言は、
誰にも届かない。
かすり傷だ。
本当に、それだけだ。
文化祭準備は、
影野が戻るまで中断された。
そのことが、
少しだけ、気になっている。
「待たせて、ごめん」
教室に戻った影野に、
誰かがそう言った。
責めるでもなく、
笑いながら。
「いや……
俺が勝手に前に出ただけだから」
「でもさ」
別の生徒が続ける。
「危なかったよな。
助かった」
助かった。
その言葉が、
胸の奥に引っかかった。
影野は、
どう返せばいいか分からず、
曖昧に頷く。
自分の席に戻ると、
端末が静かに光った。
通知ではない。
自動更新。
評価ログの、
数値欄。
生徒ID:K-071
現在実効値:
ほぼゼロ → 0.01(暫定)
「……え?」
影野は、
一瞬だけ目を疑った。
ゼロ点一。
誤差だ。
切り捨てられるレベルの数字。
これが本当に意味を持つのか、
誰にも分からない。
すぐに、
注記が付く。
備考:
外部要因による一時的変動の可能性
再現性なし
つまり——
評価に値しない。
影野は、
息を吐いた。
「……だよな」
期待してはいけない。
そういう能力だ。
だが、
違和感は消えなかった。
さっきの言葉。
「助かった」
誰かが、
自分を見て、
そう言った。
それは、
好感だろうか。
それとも、
ただの社交辞令か。
分からない。
分からないから、
数値も動かない。
——いや。
ほんの一瞬だけ、
動いたかもしれない。
神崎紫陽は、
少し離れた席から
影野の様子を見ていた。
端末を見つめる視線。
すぐに逸らす仕草。
「あいつ……
何かあったか?」
隣の紬に、
小さく聞く。
紬は、
首を振った。
「分かりません。
でも……」
「でも?」
「“何も起きなかった顔”
してないです」
紫陽は、
それ以上追及しなかった。
追及すれば、
壊れるタイプのものがある。
放課後。
影野は、
誰もいない廊下を歩いていた。
文化祭の準備音が、
遠くから聞こえる。
楽しそうな声。
笑い声。
影野は、
それを避けるように歩く。
端末を、
もう一度見る。
数値は、
元に戻っていた。
現在実効値:
ほぼゼロ
やっぱり、
何もなかった。
そう思おうとした。
だが。
ガーゼを巻いた腕を、
そっと握る。
あの時、
前に出た理由を
自分でも説明できない。
評価のためでも、
誰かに褒められたくてでもない。
ただ、
身体が動いた。
——それだけだ。
影野は、
端末をポケットにしまう。
数値が動いたかどうかなんて、
どうでもいい。
ただ一つ、
確かなことがある。
「何も起こらなかった」わけじゃない。
たとえ、
誰にも証明できなくても。
たとえ、
次に動くのが
いつか分からなくても。
影野蒼汰は、
その日初めて、
もしかしたら、
俺の能力は
“ゼロじゃない”のかもしれない
そう、
思ってしまった。
それが、
希望なのか、
呪いなのかは、
まだ分からない。




