第三部・第21話 わずかに、ずれた
変化は、
音もなく起きた。
爆発も、警報も、
誰かの悲鳴もない。
ただ、
数字が一つ、ずれた。
管理棟の端末が、
短く振動する。
技術担当が、
反射的に画面を見た。
「……?」
瞬き。
再確認。
「……おい」
声は低い。
「八乙女いろはの
能力効率、
再計測かかってる」
「自動?」
「いや、
手動でもない」
周囲が、
一斉に集まる。
画面には、
見慣れたグラフが表示されていた。
出力上限。
消費率。
再現精度。
どれも、
これまでほとんど動いたことがない。
だが、
一点だけ。
効率係数が、
0.98から0.97に下がっている。
「……誤差?」
「違う」
別の担当が、
即座に否定する。
「測定誤差は
±0.005まで」
「これは、
確定値だ」
沈黙。
0.01。
数字としては、
取るに足らない。
だが、
ここに至るまで、
彼女の能力は
“動かなかった”。
「トリガーは?」
「不明」
「戦闘後の疲労?」
「スタミナ消費、
ほぼゼロ」
「精神負荷?」
「……安定」
「なら、
なんで下がる?」
答えは、
出ない。
同時刻。
学園の廊下。
八乙女いろはは、
一人で歩いていた。
服は、
昨日洗われたもの。
白く、
きれいだ。
彼女は、
無意識に袖を引き、
汚れがないか確かめる。
ない。
それを確認して、
少しだけ肩の力を抜く。
——それだけ。
教室では、
紫陽と紬が
端末を見ていた。
「……下がってる?」
紬の声が、
小さく揺れる。
「わずかに、な」
紫陽は、
数値を見つめたまま答える。
「戦ってない。
消耗もない。
なのに……」
「戻ってない
でもありません」
紬が言う。
「下がったまま、
固定されています」
それが、
一番不気味だった。
管理側は、
即座に判断を下す。
・能力暴走の兆候なし
・戦闘不能リスクなし
・経過観測を継続
理由は書かれない。
書けないからだ。
「……精神状態と
相関がある可能性」
誰かが、
慎重に口にする。
「だが、
精神波形は安定している」
「“不安定”じゃなくて、
変化かもしれない」
「何が?」
その問いに、
答えは出ない。
その頃。
いろはは、
ベンチに腰掛けていた。
隣に、
誰もいない。
ランドセルを抱え、
少しだけ考える。
(……きれい)
服が。
それだけで、
落ち着く。
胸の奥の、
ざわつきが、
少し薄れる。
——そして、
その瞬間。
彼女の能力は、
“必要がなくなった”。
ほんの一瞬。
管理棟の端末に、
追記ログが残る。
・効率低下は
一時的ではない可能性
・回復条件、未特定
誰かが、
小さく呟いた。
「……強さって、
減るんだな」
それは、
当たり前の事実だ。
だが、
彼女の場合——
減った理由が、
“満たされたから”
かもしれない。
その可能性に、
誰も気づいていない。
夕方。
紫陽は、
校舎の影から
いろはを見る。
彼女は、
服を大事そうに整え、
静かに立っている。
強くなろうとは、
していない。
弱くなろうとも、
していない。
ただ、
安心している。
その結果、
能力が下がった。
——そんな理屈は、
どの評価表にも
載らない。
数字は、
0.97のまま動かない。
たった、
0.01。
だが、
その差は、
戦場よりも深い。
力は、
不幸から生まれることがある。
そして——
幸せは、
力を削ることがある。
この日、
それが初めて、
“数値”として
記録された。




