表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/129

第三部・第18話 八乙女いろは、前に出る

――理由は、共有されない


雪は、まだ残っていた。


戦場を覆っていた氷片の嵐は止まり、空気は冷たいままだが、破壊の連鎖だけが途切れている。誰も動けずにいた。次の一撃が来ると信じて身構えたまま、時間だけが伸びていく。戦場で最も不安なのは、沈黙だ。


指揮系統は混乱していた。


攻撃が止んだ理由が分からない。エネルギー反応は健在。能力の制限にも引っかかっていない。撤退の兆候もなく、誘導もない。ただ、止まっている。それだけだ。


だから、誰も予測できなかった。


その沈黙を破ったのが、

最も前に出る理由を持たないはずの存在だったことを。


「……前に出ます」


通信に、細い声が割り込んだ。


一瞬、誰のものか分からなかった。幼い声だったからだ。確認が遅れ、制止の言葉が出るより早く、前線のカメラが小さな人影を捉えた。


「八乙女!?

 待て、出るな!」


制止は届かなかった。


八乙女いろはは、雪の残る地面を踏みしめ、ゆっくりと前に進んでいた。走らない。急がない。逃げる様子もない。戦場に立つ人間の動きではなかった。むしろ、学校の廊下を歩くときと同じ速度だった。


紫陽は、息を詰めた。


(……なんで)


誰も、彼女に前に出る役割を与えていない。作戦にも、想定にも、彼女の単独行動は含まれていなかった。それでも彼女は、迷いなく歩いている。


理由を聞く暇はない。


戦場は、理由を待ってくれない。


雪花の方向から、動きがあった。


巨大な雪の花が、わずかに揺れる。攻撃再開の兆候かと誰もが身構えたが、次の一撃は来ない。代わりに、雪花の周囲の結晶が、ゆっくりと形を変えていく。


防御でも、攻撃でもない。


観察に近い挙動だった。


「……見てる?」


誰かが呟いた。


雪花は、前に出てくるいろはを、確かに見ていた。だが、地球側の誰もが理解できる“敵意”は、そこになかった。


八乙女いろはは、立ち止まった。


距離は、まだ遠い。だが、ここが彼女の“線”だった。


彼女は、自分の袖を見下ろす。雪が付着し、白く染まっている。払い落としても、完全には戻らない。見た目が、崩れている。


それだけを確認して、顔を上げた。


「……」


何かを言うように見えたが、声は出さなかった。通信も使わない。ただ、そこに立っている。


戦場に、奇妙な緊張が走る。


「攻撃、来ません」


前線オペレーターが報告する。


「……雪花、

 行動を停止しています」


その言葉が、かえって混乱を広げた。


停止?

誰に?

なぜ?


紫陽は、理解できなかった。


いろはが前に出た理由も、雪花が止まった理由も、何一つ説明されていない。ただ結果だけが、積み上がっていく。


——攻撃は、完全に止まった。


「……撤退の指示は?」


誰かが問う。


指揮官は、即答できなかった。


これは勝利ではない。だが、敗北でもない。理由の分からない停止は、撤退の判断を鈍らせる。


その間も、いろはは動かない。


恐怖の色はない。強がりでもない。ただ、我慢している様子とも違う。彼女は、自分の基準で“ここまで”と決めて立っている。


その姿が、異常だった。


小学生のそれではない。

英雄のそれでもない。


ただ、譲れないものを前にした人間の立ち方だった。


数分後。


雪花の周囲の雪の花が、完全に解け始めた。消滅ではない。静かな収束。戦場から力が引いていく。


「……退いた?」


「違う。

 “終えた”に近い」


誰かの分析が、場の空気を締める。


雪花は、攻撃を再開しなかった。


理由は、誰にも共有されないまま。


八乙女いろはは、くるりと踵を返した。


振り返るとき、彼女は一度だけ、自分の服を見た。雪の跡が、まだ残っている。少し、眉をひそめる。


それだけだった。


「……戻る」


通信に乗った声は、いつも通り静かだった。


誰も、理由を聞かなかった。

聞けなかった。


戦場では、結果だけが記録される。


この日、記録に残ったのは——


雪花、初陣。

攻撃中断。

原因不明。


そして、

八乙女いろはが前に出た事実だけだった。


理由は、誰の共有物にもならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ