上に立つべき者
極力音を立てないようにしながら横向けになった同級生達の間を歩く。漸く目が暗闇に慣れてきたようだ。これまでよりずっと鮮明に景色が写る。
目線を下に向けただ一人の男だけを探す。他は全てどうでもいい。後でまとめて彼が起こすことになる。否、そうしなければいけない。
数分探し回ってやっと彼を見つけた。湧き上がる安堵と焦燥。事態は悪い方へと傾いたが彼がいたことは紛れもない僥倖だ。
彼の倒れていた場所はその他大勢が横になっている開けた方ではなく、周囲を囲む木々の近く。
これ幸いと彼を引き摺り木立の裏へ回る。まだ誰も目覚めていないことを確認し、彼の肩を揺すった。
「光、起きてくれ」
幾度か声を掛けるとまだ意識がはっきりしていないのだろう。薄目を開け、緩慢な仕草で周囲を見、自分の肩に手をかけている僕に問うた。
「葵……? ここは……」
その様子に少しだけ苛立ちが募る。今は一秒でも時間が惜しい。この瞬間にもクラスメイト達が目を覚ますかもしれないのだ。
「いいか、よく聞け。僕達の命に関わる大事な話だ」
努めて真剣な声音で告げる。命に関わる、という部分で余程のことだと察したのだろう。自分で頬を叩いて眠気を吹き飛ばした。
「わかった」
本当に、つくづく優秀な男だ。だからこそ信頼できる。
「まず、前提として此処は地球ではない」
「……は?」
気持ちは凄くよく分かる。僕だって目覚めていきなりそんなことを言われたら同じ反応をしただろう。
「その証拠に、空を見て」
僕が指差した通りに光は空を見上げ、絶句した。そのほうけた顔を見て、思う。
彼の反応が恐らくは正常なものだ。あの夜空を見上げて涙を流した自分は、やはりおかしいのだろうか。
「これで分かったね? 此処は地球じゃない」
「俗に言う、異世界ってやつか?」
「たぶんね。僕にもよく分からない」
異世界。これを題材にしたネット小説の台頭で一躍有名になった言葉。ファンタジー小説が好みだから実際僕も幾つか読んでいる。現状を照らし合わせたらこれは『異世界転移』に分類されることだろう。
異世界系といえばスキルや魔法。幻想を象徴するそれらに想いを馳せ、映像化されたものを見る度に落胆した。自分の頭の中で思い描いたそれよりも、美しくないから。要求レベルが高過ぎることも、作者や制作会社の思い描くものが自分と違うことも分かっているけれど、でも割り切れなかった。
此処に彼女さえ居なければ僕だって魔法できるかな?と目を輝かせながら幻想に浸っていた筈だ。
「さて、此処からが重要だよ。より多くの人間が生き残る為の最善策を伝えるから、質問があったら聞いてね」
光の肯首を見届けて今後の方針を語る。
「この時点で日本に帰るのは諦める。近辺に拠点を作ってしばらくは生活するべきだ」
日本への帰還を諦めると聞いて、俄かに彼が狼狽えた。
「何で、諦めるんだ……」
当然の疑問だ。物語の主人公達の最初は故郷へ帰る手段を探す。見知らぬ土地では不安も多く、あっちには家族だっている。普通は帰る方法を探そうとするだろう。
だが、それは甘いと言わざるを得ない。
「いい? 僕達は突然耳鳴りと眩暈に襲われて気がつけば此処に居た。全く同じ場所で同じことがそう何度も起こると思う? 何者かが意図的に僕らを連れてきたとして、まるで気配がない。何も与えられず、夜の山奥に放置だ。外に人間の文明があったとして、身分も何もない僕らに協力してくれる可能性も薄いと思う。今は帰ることを目的として動くべきじゃない」
そう、僕らは何も知らないのだ。此処に居た理由も、外のことも。この世界のことを何も知らない。何の準備もしないまま未知へと踏み出すことほど愚かしいことはない。
「じゃあ、どうするんだ?」
「最優先は水源の確保。人数が多いからね、川でも見つけないと話にならない。ご丁寧に水筒諸共転移したわけじゃないだろうし早く見つけないと全員死ぬ」
人間、食べなくても一週間は生きていけるのだ。ただし水分は摂らなければ二日三日でくたばる。生き延びる為には何よりも先に水を確保しなければいけない。
「次点で食料と火の確保。食べないと満足に動けないからね。火に関しては獣避けが主な理由。此処は山奥だろうから猪とかに近い動物がいるかもしれない。僕らには剣も魔法もないんだ。出会ったら負けだと思って。それに——」
地面から一枚、葉を拾い上げる。それは既に若々しい緑色ではなく黄色く染まっていた。これが示す事実はただ一つ。異世界とて変わりない。
「この葉を見て。もう季節は秋なんだ。数ヶ月の内に冬がくる」
その言葉で光の顔に明確な焦燥が浮かぶ。どうやら彼は状況を正しく理解してくれたらしい。そう、此処は自分達が暮らしていた日本ではない。住処を持たない僕らにとって冬とは死を覚悟しなければならないのだ。
「だいぶ、不味いな……」
「光君が正しく理解してくれて良かったよ。僕達には時間が無いんだ。できるだけ早く大量に食料を集めて、その上で乾燥でも燻製でもして保存食を作らないと冬には飢え死にする」
「じゃあ、早く皆を起こして——」
立ち上がり皆の方は走り出そうとした彼の腕を掴む。強く、行かせるつもりはないと確かな意識を込めて。
驚いた顔をする光。彼は確かに優秀だが異常事態に巻き込まれてやはり冷静ではないのだろう。私の真意に気づけない。
「何の為に皆から引き離したと思ってるの? 本題は此処からだよ、光」
顔に浮かぶのは微かな困惑と、恐怖。その反応を見て自分の顔に触れ、口角が上がっていることに気づく。
笑っている。
突然異世界に飛ばされ、夜の山奥で目覚め、冬と云う危機がすぐ近くに迫って、それでも自分は笑っている。
これでは確かに気味が悪い。光の表情にも頷ける。狂っていると思われても仕方がないだろう。
今、光と関係性が悪くなることは避けねばならない。いつも通りの真顔に戻そうとするも、できなかった。
そして漸く、自覚する。
楽しいのだ。どうしようもなく、この状況を『楽しい』と思っている。
「光、これから先、必要になるのは何だと思う?」
「……拠点や食料、水は前提として……武器、戦う技術とかか?」
「違う、違うよ、光。最悪、戦闘なんて人数に任せて押し潰せば何とかなるんだ。そんなものより先に作らないといけないものがある」
楽しい、本当に。先を見据え、考えを巡らせることは、楽しい。自分が夢見た幻想に触れていることも影響しているのだろう。今までにないほど高揚し、ハイになっているのが分かる。そういえば今日は一度もどもっていないし、面と向かって誰かを名前呼びしたの初めてだ。
今の僕は、おかしい。
「必要なのは、統率。明確な立場とそれを基にした団結。こんな所で自分勝手な振る舞いをされても困るからね。誰かを上に据えて、その人物の下で動いてもらう」
「その『誰か』が俺ってことか」
彼の出した答えに微笑を浮かべ軽い拍手を送る。
「正解。やっぱり光は優秀だね」
「何で、俺なんだ」
「君が適任だと思ったからだよ、生徒会長」
酷く饒舌に、僕の口は言葉を紡ぐ。喋り方も、やはりおかしい。
「成績も運動も。顔も性格も良い。部活のキャプテンとして二年年、生徒会長として一年、人の上に立つ経験がある。フレンドリーで話し易く、人望がある。光は、適任なんだよ、この役に」
絵に描いたような人格者。この状況に於いてこれほど理想的な男も他にいない。彼のカリスマは、光は、人を惹きつけ纏め上げる。
「何で俺だけにこの話をした? 皆を起こした後でも別に——」
「ダメなんだよ、それじゃあ」
彼の言葉を遮って否定の声を上げる。これも、普段の自分なら到底やらないことだ。
「今、皆を起こしたら、どうせ数人の馬鹿が異世界だなんだと騒ぎ立てる。それを不謹慎だと誰かが咎め、言い合いになって場が混乱し統率が取れなくなる。時間が無いんだこれは避けるべき。起こす順番も考慮した方がいい。そして、何よりも重要になるのが、誰か起こすか、だ」
訝しげな表情で首を傾げる光。本当に重要なのか? それ。と顔が物語っていた。
「仮に、起こしたのが僕だとしようか。見知らぬ場所で不安を抱えながら目覚め、最初に目にしたのはいつも無表情で喋らない『ロボットみたい』と評される天竺葵。誰よりも先に目覚め、自分を起こしたのがそんな奴じゃ不安になる」
「そんなことは——」
「なるよ、絶対に。声に、顔に出さなくても、心の中では絶対にそう思う」
学校は公共の場だから、迷惑をかけないように。幼い頃に何故かそう考えて、実践してきた。真面目が染みついて家と学校とでは本当に同じ人間かと自分で疑うほど、僕は優等生だった。
授業中、たとえグループになっても無駄話をしない。クラスメイトをおちょくることもない。
昼休み、教室を走るのはダメだと言われたから、本を読むようになった。皆は、廊下で走って怒られていた。
自習の時間、真面目に勉強をしていなさいと言われたから、僕は真面目に勉強した。皆は構わずお喋りをして、結局バレて怒られた。
彼らが怒られる度に、僕は思った。
馬鹿なんじゃないか、と。
してはいけないからダメと言われるのだ。それを破ったら怒られるのは当然で、なのにどうして繰り返すのか本当に理解できなかった。
昔から、僕と彼らには隔たりがある。
「僕ではなく、光が起こしたとしよう。見知らぬ場所で不安を抱えながら目覚め、最初に目にしたのはイケメンで人柄も良い、頼りになる生徒会長。こんな状況でも冷静で、皆を纏めようとしてくれる。僕と光では信頼の度合いが、安心感が違うんだよ」
男子からすればいつも自分達の中心にいる、いて当たり前の人物。女子からすれば格好良くて優秀な憧れの的。彼が「自分が中心になって纏める」といえば反対意見などでない。奴らは無意識の内に、光は『上に立つべき者』と思っているから。
彼の肩に手を置いて、懇願するように言った。
「頼む、光が皆を纏めてくれ。君しか頼れる人がいないんだ」
僅かな時間、流れる沈黙。それでも不安は抱かない。光は断れないから。人の上に立つと云う経験が、彼に否定の言葉を吐かせることはないから。
「分かった。俺がリーダーとして皆を纏めるよ」
返ってきたのは予想通りの言葉。やっぱり、彼は信頼を裏切れない。
「ありがとう。その代わりといってはなんだけど、考えることは任せて欲しい。必ず、生き残らせてみせるから」
すらり、と口を突いて出る綺麗事。これから先を考えるのは当然のことで、そもそも彼らがどうなろうと知ったことではない。一部を除いて信用もしないし期待もしない。ただ、最悪の想像が現実になることを防ぐ為に秩序を維持したいだけ。
「そっちは任せる。だからこっちは俺に任せろ。……絶対に皆を守って見せる」
「——うん。そうだね」
優秀が故に、やっぱり甘い。彼はまだ、現実が見えていない。
光や『彼女』がいる時点で僕らの学年全員の転移が確定した。総勢七十五名。この人数をまともな準備もない状態で守り切れる筈がない。
自分達は、アニメや小説の主人公ではなく、ただの中坊であるという事実を理解し切れていない。普通の子供が自然相手に一人も命を落とすことなくこの先生きていけると本当に思っているのか。
未だ倒れ伏したままの同級生達の方へと歩く光の背を眺めながら思う。
僕らは薄氷の上に立っている。一度小さなヒビが生まれれば加速度的に崩壊するだろう。僕らが作れるのはその程度の団結に過ぎない。保てるかどうかはこの男にかかっている。
奴らに勘づかれてはいけない。僕と彼が生み出す秩序が仮初でしかないことに。
奴らに気づかれてはいけない。此処には法がないと云う事実に。
法がない、秩序がないと云うことは、暴力で捩じ伏せることができる、と云うことだ。少数ならまだ対応できる。
数で抑え込めばいい。しかし、略奪が効率的と勘づいた輩が半数を越えれば、後に待っているは地獄だ。
薄氷の秩序が崩れることがないよう、最善を尽くさねばならない。
宙を見上げ、祈りの真似事をしてみる。
彼女だけはどうか、元の世界に帰してください。彼女がいなくなれば、僕の見た『最悪』に怯える必要もなくなるから。
どうせ、神様なんていないだろうし、彼女を此処へ飛ばしたカミサマなんてクソッタレだけれど。
神とは心の拠り所となる偶像か、或いはただの傍観者であればいい。願い、縋る実体なき対象であればいい。
それでも、善良な神が助けてくれる様を夢想するのは僕の心が弱いからか。
祈らずには、いられない。
——彼女をどうか、酷い目に遭わせないでください。




