玉ねぎ
串カツの玉ねぎ
三十年以上前の話である。
小学二年生のわたしは、駅から一人、自宅への道を歩いていた。
商店街は買い物客で溢れ、気の早い街灯がともり始める。活気のある店主の声。客の笑い声。揚げ物の芳ばしい香り。甘い果物の匂い。
騒然とした通りを抜けると、川沿いの道にでる。さらに川上に向かって五分ほど歩くとわたしの家があった。
川幅は五メートル程で、コンクリートで護岸されている。水は黒緑色に濁り、淀んで泡立ている。洗剤の容器やビニール袋が随所に浮かび、生臭い。
対照的に、夕焼けが美しかった。強い北風が吹いている。家々が三角や四角の黒いシルエットになり、紅く暮れていく空を鋭く縁どる。シルエットの中で、ところどころ明かりが灯り、中での団欒を想わせる。
早足になりながら、当時の流行歌を口ずさんでいた。冷たい風が頬を叩く。
わたしの通っていた私立吉川学園は電車で五駅目のところにある。学校が終わると、駅前にある塾へ寄る。そこで二時間ほど勉強し、帰りはいつもこの時間になる。
突風がわたしの帽子を吹き飛ばした。
詰襟に半ズボンという制服に学生帽をかぶるのが決まりだった。学生帽は輝く空に軌跡を残しながら、暗い川の中へ落ちてしまった。かろうじて、土が堆積した場所へ落ちたのだが、手を伸ばしても届きそうにない。どうしたものか。途方に暮れ何もできず、その場にしゃがみ込み、ただ帽子を眺めていた。
「帽子、落ちちゃったのか?」
体格の良い、スポーツ刈りの少年がわたしを見下ろしていた。
少年は近くにあった枯れ枝を拾うと、帽子を瞬く間に拾い上げ、泥のついたそれを自分のセーターで拭いてからわたしに手渡した。
これがよしのり君との出会いである。よしのり君は六年生。二年生のわたしからすれば四歳年上は、大人のようで、たくましく頼りがいのある姿に見えた。
よしのり君の家は、私の家の三百メートルほど手前にある川沿のアパートだった。帰りの時間がほぼ同じで、どちらからともなく声を掛け、一緒に話しながら帰るようになった。
「そうか、電車に乗って学校に行くなんて凄いな。毎日塾通いってのは悲惨だけどな」
よしのり君はいつもそんなことを言っていた。
わたしには何が凄くて、何が悲惨なのかよく分からなかった。ただ、そういうものなんだと思っていた。
「よしのり君は今の時間までなにしてるの?」
「おれは仕事してるんだ」
「仕事って、小学生でしょ?」
「まあ、大人の事情ってやつだな」
よしのり君の大人の事情という言い方が、なんだかとても大人っぽかった。
よしのり君はわたしの三歩ほど先を歩いている。
「なんの仕事してるの?」
「新聞」
よしのり君の大きな背中は素っ気なく言った。
先を行くよしのり君には見えなかっただろうが、わたしの目は爛々と輝いていた。
二年生のわたしには、新聞の仕事といえば新聞記者以外思い付かなかった。新聞記者がどんなことをするのかもよく知らなかったが、新聞記者以外に新聞に関する仕事があるなんて考えもしなかった。
よしのり君は早朝と夕方に新聞の仕事をしていた。
わたしにとって、よしのり君は少年新聞記者であり、少年探偵団や世界を救う少年ヒーローと同等の憧れの的だった。
よしのり君のランドセルの横には、大きなバッチが付けられている。新聞の仕事の人にもらったらしい。父さんが読んでいる新聞と同じマークのバッチだった。
そのバッチは、新聞記者の証のようなものなんだと思った。
よしのり君はお母さんと二人暮らしだった。
「お父さんはいないの?」
一瞬、よしのり君の表情が沈んだような気がした。幼いながら、余計なことを言ってしまったと思った。
「もうひとつ家族があって、今はそっちの家族と住んでる」
よしのり君は明るく大きな声で、まるで楽しいことを話すように言った。
家族が二つあるということはよく分からなかったけれど、テレビで時々やっている大家族みたいなものなんだと、勝手に想像していた。
「大人の事情ってやつだ」
今度は、聞き取れないような小さい声でよしのり君は言った。
わたしは、よしのり君は来年は中学生になるのだし、新聞の仕事もしているのだがら、多分、子供よりもどちらかといえば大人の方に近いのだろうと思っていた。
よしのり君は川沿いの道に出てから追いついてくることもあるし、商店街の中で会うこともある。
商店街の中で会うと、よしのり君は決まって野田精肉店に立ち寄る。そこでコロッケかメンチカツのどちらかを二枚だけ買う。
「晩ご飯いつもコロッケだね」
「でも、ここのコロッケはサクッと揚がってて旨いんだぞ」
肉屋のおばさんが黄色い油紙に包まれたコロッケをお釣りと共によしのり君に渡す。
「サラダとかは?」
「そんなもんないよ」
よしのり君はお釣りを数えながら言った。
「ワーすごい! それって最高だよ」
ハンバーグやカレーライスが食べられなくなるのはちょっと辛いけれど、それでもサラダを食べずに済むのはわたしにとって魅力的なことだった。
「よぉ!」
商店街の中で、よしのり君に声を掛けられた。
二月の下旬の寒い日だった。耳や鼻、指先が痛みを感じるほど冷たくなっている。
「ちょうどいい時に会ったな。今日は給料日だから盛大だぞ」
白い息を吐きながら、上機嫌である。
いつものように野田精肉店に向う。
「おばちゃん。メンチ二枚と串カツ一つね」
「あれ! 今日は給料日かい」
たぶん、おばちゃんは大人なので大人の事情が分かっていたんだろう。
「串カツにはソースかけてね。たっぷりだよ」
たっぷりだよ。という言い方が大人みたいで、やっぱり凄いなと思った。
「ここの串カツは最高だぞ。でも、だから、給料日だけの贅沢なんだ」
よしのり君はそう言うと、ベトベトにソースのかかった、茶色い串カツの先端にかぶりつく。
「あっちっちっち…… うっめ~~!」
白い息を吐きながら、絶叫。
「お前も食ってみ」
わたしは串カツを手渡される。串にソースが垂れてきて、ベトベトしている。その先にかぶりつく。
「あっちっちっち…… うっうっめえ~~!」
よしのり君の仕草を真似て、白い息を吐く。
冷え切った身体中に熱が伝わっていく。
肉汁が口中に広がる。
芳ばしい油の香り。甘めのソースの味。
「なっ。うまいだろ?」
「うん。最高! 今まで食べた物の中で一番おいしい」
「そうだろ。うまいよな。そうだよな」
よしのり君は満足そうにうなずいた。
「次の玉ねぎ。これも甘くてとろけて最高なんだぜ」
目で、わたしに先に食べていいよと合図する。
「ぼく、玉ねぎ嫌い」
「えっ。うまいから食べてみなって」
「いやだ」
よしのり君は信じられないものを見るように、わたしのことを見つめた。
「ちょっとだけでいいからかじってみなよ。絶対うまいから」
「絶対にいやだ」
よしのり君は玉ねぎの部分をおいしそうに食べ終わると、肉の部分を全部食べていいとわたしにくれた。
そして最後の玉ねぎを愛おしそうに食べた。
よしのり君は彼の最高の喜びを、共有できなかったことが残念で仕方なかったようだ。
「今度、玉ねぎが食べられるようになったら、このバッチやるよ」
「本当に?」
わたしにとってそのバッチは正義のヒーローの証のようなものだった。正義のためなら玉ねぎなんてどうにかなる。
そんな気がした。
数日後の帰り道、よしのり君が先に歩いていた。スーパーボールを地面にたたきつけ、それをキャッチしながら歩いている。
わたしが追いつくと、お前もやってみな。とスーパーボールを貸してくれた。
スーパーボールを地面にたたきつける。
高くバウンドしたところをキャッチする。
たたきつける微妙な角度でバウンドが変化する。
後ろの川へ落としたら大変なので、結構なスリルがある。
夜、風呂に入るときにポケットの中によしのり君のスーパーボールが一つ残っていることに気がついた。
翌日は日曜、朝によしのり君の家へ返しに行くことにした。
いつも前を通っているアパートだが、こうして一人で前に立ってみると、壁は染みだらけで、二階に上がる外付けの階段は錆びていた。お化け屋敷、という言葉が頭をよぎる。一瞬、入るのをためらった。
錆びた階段を上り、二階に上がると扉がある。それを開けると薄暗い廊下が奥まで続いていた。テレビの音が廊下に響いている。突き当たりに共同の便所があり、その臭いが廊下中に漂っている。
一番奥の部屋だと聞いたことがある。床は踏み込むたびにギーギーと音をたてた。前にテレビでやっていた極彩色の鳥の鳴き声に似ていた。トイレの隣の扉に山田と板にマジックで書かれた表札がかかっている。
確かよしのり君の苗字は山田だ。
扉の前でどうやって中に入ろうか躊躇する。その気配を感じたのか、
「遅いんだよ。グズグズしないで早く入ってこいよ」
中から女の人の声がした。
わたしは女の人がそんな言葉を使うのをはじめて聞いた。驚いてしまい、言われるまま扉を開け中に入った。
中に入ると、酸っぱいような臭いがした。廊下の臭いと混じり合い、気分が悪くなる。
ゴミが散乱し、下着や洋服が脱ぎ散らかされている。
部屋は六畳くらいの一間で布団が敷かれたままになっていた。その布団の上にやせ細った女の人が向こうむきに胡坐をかいて座っている。
「買っってきたかっ」
ろれつが回っていない。ゆっくりとこちらを振り向く。
髪はバサバサで絡まり、顔色は目の前を流れる川のように、薄暗く濁っていた。眼の下はさらに黒く落ち窪んでいる。
顔をこちらに向けるが、瞳は淀み、わたしのことを見ているのか、後ろの扉を見ているのかわからない。
見てはいけないものを見てしまった。そう思った。
わたしは恐ろしくなり、後ずさりし、そして走って逃げだした。
外の階段を降りたところに、よしのり君が立っていた。腕に焼酎の瓶を抱えている。
「よ。どうした」
よしのり君は驚いたように声をかけた。
わたしは返事ができず、顔を見ることもできず、自分の家に向かって駆け出した。
次の日、よしのり君はいつものように声をかけてきた。
電車に乗って学校へ通うことや、毎日塾に行くことがわたしにとって普通のことであったように、よしのり君にとってはあのアパートでの生活こそが普通のことだったのだろう。
それからもわたし達は変わることなく、小石を蹴りながら、スーパーボールを弾ませながら、時には、川に落ちたスーパーボールを拾って、ズボンをビシャビシャに濡らしながら、川沿いの道を共に歩いた。
春休みに入ると、塾の時間は昼間になり、帰りによしのり君と会うことはなくなった。
遊びに来いよと、よしのり君は言っていたが、あのアパートにもう一度行く勇気はなかった。
よしのり君を家に誘うことはしなかった。
わたしの両親はよしのり君が遊びに来ることを快く思わないのではないか、そんな予感があった。
春休みが半ば過ぎたころ、夜中に目を覚ますと、パトカーのサイレンが鳴っていた。
外が騒がしく、赤いライトが点滅している。なんだろうと思いながらも、わたしは再び眠りの中に戻っていた。
それから数日後、わたしが自分の部屋で本を読んでいると、母がドアをノックする。
「知らない子があなたのこと訪ねてきてるわよ」
訝しげな表情でそう言った。
玄関のドアを開けると、そこによしのり君が立っていた。左眼の周りが紫色に変色して腫れている。
「その目、どうしたの?」
「まあ、ちょっとな」
「痛いの?」
「ぜんぜん」
門の脇に植えてある大きな桜の木が満開だった。よしのり君は咲き乱れる桜を背景に、引きつったような笑顔を作っている。
「母さんが病院に入れられることになったんだ」
よしのり君は玄関前の敷石に話しかけるように言った。
「役所の奴らが来て、俺も施設に入らなくちゃならないんだって」
「なんで?」
「一人で大丈夫だって言ったんだけど、そういう決まりらしい。大人の事情ってやつだ」
「お父さんのところへ行けばいいじゃん」
よしのり君は敷石を見つめている。
南からの強い風が桜の枝を揺らし、無数の花弁がわたし達を包み込む。
よしのり君の口がわずかに動いた。
舞い落ちる花弁の音に掻き消され、その言葉はわたしのところまで届かなかった。
家の玄関から川の音が聞こえることに、わたしはそのとき初めて気が付いた。
「中学もそこから通うことになるから、しばらく会えなくなると思う」
よしのり君は言葉を搾り出すように言う。
「どこに行くの?」
「ここの駅から二つ目の滝川ってところ」
「そこなら僕毎日通ってるよ。じゃあ、すぐに会えるよ」
「そうだな」
よしのり君は再び引きつった笑顔を作ろうとしていた。顔がクシャクシャになり、目は赤く潤んでいる。
わたしは左目の傷が痛み出したのかと心配になる。
「このバッチやるよ」
よしのり君は新聞社のバッチをわたしに差し出した。
「でも、まだ玉ねぎ食べられるようになってないよ」
「今度会う時までに、食べられるようにしておきな。約束だぞ」
今度会うときっていつなのだろう。漠然とした疑問を抱えながら答えた。
「わかった。約束する」
「串カツの玉ねぎは、とろけて甘くて最高にうまいんだから」
よしのり君は顔をわたしに向け、今度は満面の笑顔を見せた。
あの日以来、よしのり君とは会っていない。
新聞社のバッチはどこにいったのだろか。多分、実家のどこかにしまってあると思うのだが。
あの寒い日に食べた串カツの味は忘れられない。
その後、約束通り玉ねぎ嫌いは克服することができた。
よしのり君が言っていたように、とろけて甘くて、串カツの玉ねぎは最高だった。
先日、新聞を読んでいると、アフガニスタンの貧困について書かれた記事が載っていた。
緻密な取材を重ね、洞察も鋭く、興味深い記事である。
その記事の最後には、山田義則という記名がされていた。
よしのり君の名前がどんな漢字を使うのか、わたしは知らない。
山田よしのり
実にありふれた名前である。
読んでいただきありがとうございます。
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