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許氏の塢  作者: 熊谷 柿
第2章
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「美味い!」

 山盛りのべい(パン)が吸い込まれるように平らげられていた。干し肉と野菜を入れて煮込んだ汁物もき込まれていた。

 老夫とは思えない食いっぷりに、主の許淵きょえんと膳を用意した許定きょてい、そして、老夫を運んできた張平ちょうへい薛宇せつう唖然あぜんとした。

 餅は、許林杏きょりんあんが製粉して水でね、かまで焼いたものだった。汁物も許林杏が許定の指示を仰ぎながら作っている。見ず知らずの老夫に朝食を振舞ふるまっていた。

「命拾いしたわい。それも、こんなに美味い餅は初めてじゃ。がたや、有り難や」

 銅鑼どらのような声音こわねだった。拝むようにした老夫に、許林杏はにこにことした。

「申し遅れた。わし方士ほうし。方士の元緒げんしょと申す」

「方士さま……なのか」

 許淵は、怪訝けげんそうに元緒の身形を上から下まで眺めた。

 方士――。祭祀さいし祈祷きとう卜占ぼくせん、呪術、占星術、不老長生術、煉丹れんたん術、医術など、神仙方術を以って災禍を除き、福を招く能力者のことである。

れと諸国を旅しておったが、はぐれてしまってのう。食うにも困り果て、気づけばこの有り様じゃ」

 頭を掻きながら言うと、元緒は呵呵かかと大笑した。

 そこへ、巨軀きょくを揺らして、のっそりと姿を現したのは、許褚きょちょだった。ほこらへの供え物と掃除を終え戻ったようだった。

「おう、褚も挨拶しねえか。方士の元緒さまだ。幸い、空腹で倒れただけみてえだが」

 許淵が許褚に挨拶を促すと、元緒も許褚を見遣みやった。

「ん」

 言葉数は少ないが、慇懃いんぎんに頭を垂れた許褚を元緒は見遣った。魁偉かいい風貌ふうぼうだった。

「ほう。お主は、祠を掃除しておった者じゃな。殊勝しゅしょうなことじゃわい。世に出れば、豪傑とうたわれるほどの天稟てんぴんを備えておるようじゃが、惜しいかな……」

「…………?」

 元緒は、許褚に目を見張るや否や、残念そうに首を左右に振った。

 それを気にも留めず、許褚はきびすを返して畑に向かったようだった。代わりに、許淵と許定が元緒の落胆振りに眉をひそめた。

「それはそうと、ここは随分と見事なだのう」

 腹が満たされた元緒は、思い出したように称え始めた。

「塢……?」

 聞き慣れない言葉に、その場にいた者は小首を傾げ、互いに顔を見合わせた。

 白湯さゆを運んできた許林杏が、そっと元緒の前に置いた。許林杏に笑みを返した元緒は、白湯を啜りながら続けた。

「何じゃ? お主ら塢を知らんのか?」

「俺たちは、このむらから出たことがねえもんで。塢とは何のことでしょうか、元緒さま?」

 尋ねた許淵にならって、許定、張平、薛宇、そして、許林杏も元緒に注目した。

「塢とは、防衛に特化した砦。居住地を城壁で囲み、敵襲を逸早く察知する角楼かくろうを置き、万事のときは中にこもる者全てが兵となる。まさにここが塢、そのものであろう」

「――――⁉」

 注目の的は、元緒から許淵へと変わった。その許淵は、唖然あぜんとした表情をさらしていた。

 元緒の顔が不敵に歪んだ。

「その様子では、戦乱の災禍から免れるための工夫が、得てして塢となったというところか。ここより遥か北西の涼州辺りでは、さほど珍しいものでもないがのう」

「驚いたな。俺たちは、塢ってやつを築いたってのか……」

「ああ。塢が何たるかも知らない許淵の指示に従ってな」

 張平と薛宇が、あきれた調子で許淵を見遣った。

「見たこともないものを築いたということですよね? す、凄いことではありませぬか、父上!」

「父上、凄い!」

 瞳を輝かせた許定と許林杏が、許淵に尊敬の眼差しを向けた。

「お、おう……」

 許淵に浮いた照れ笑いは、ぎこちなかった。確かに、塢というものの存在は知らなかった。必死となって、戦乱の災禍に負けない邑を形にしただけだった。

「なれば、お主が塢主うしゅということか。許淵と言っておったな?」

 元緒が、盃の白湯を飲み干してから言った。

「まあ、許淵が邑長みたいなもんだからな」

「ああ。許淵がいなければ、ここまで邑を再建できなかった」

 張平と薛宇が、顔を見合わせるようにして元緒に応じた。

「許氏がこしらえた塢、許塢きょう――。そう呼ばれる日も近かろう」

 これに気をよくした許淵は、満悦となった。

「どうだい、元緒さま。しばらくこの許塢に留まって、諸国のことを教えてくれねえか? お連れの方もこの許塢を訪れるかもしれねえ。ここの離れを自由に使ってくれていい」

「ほう」

 元緒は驚きの表情となると、うつむき加減で考え込むようにした。間もなく上げられた顔は、目尻のしわが一層深いものになっていた。

「それは良い。路頭に迷い、空腹で倒れることもないしのう。美味い餅にもありつける」

 元緒の目には、静かにたたずむにこにことした許林杏が映っていた。

 近くの畑では、許褚が二頭の牛にすき牽引けんいんさせている。額に浮いた汗が、陽に照らされ輝いていた。


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