塢
「美味い!」
山盛りの餅(パン)が吸い込まれるように平らげられていた。干し肉と野菜を入れて煮込んだ汁物も掻き込まれていた。
老夫とは思えない食いっぷりに、主の許淵と膳を用意した許定、そして、老夫を運んできた張平と薛宇も唖然とした。
餅は、許林杏が製粉して水で捏ね、窯で焼いたものだった。汁物も許林杏が許定の指示を仰ぎながら作っている。見ず知らずの老夫に朝食を振舞っていた。
「命拾いしたわい。それも、こんなに美味い餅は初めてじゃ。有り難や、有り難や」
銅鑼のような声音だった。拝むようにした老夫に、許林杏はにこにことした。
「申し遅れた。儂は方士。方士の元緒と申す」
「方士さま……なのか」
許淵は、怪訝そうに元緒の身形を上から下まで眺めた。
方士――。祭祀、祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術など、神仙方術を以って災禍を除き、福を招く能力者のことである。
「連れと諸国を旅しておったが、逸れてしまってのう。食うにも困り果て、気づけばこの有り様じゃ」
頭を掻きながら言うと、元緒は呵呵と大笑した。
そこへ、巨軀を揺らして、のっそりと姿を現したのは、許褚だった。祠への供え物と掃除を終え戻ったようだった。
「おう、褚も挨拶しねえか。方士の元緒さまだ。幸い、空腹で倒れただけみてえだが」
許淵が許褚に挨拶を促すと、元緒も許褚を見遣った。
「ん」
言葉数は少ないが、慇懃に頭を垂れた許褚を元緒は見遣った。魁偉の風貌だった。
「ほう。お主は、祠を掃除しておった者じゃな。殊勝なことじゃわい。世に出れば、豪傑と謳われるほどの天稟を備えておるようじゃが、惜しいかな……」
「…………?」
元緒は、許褚に目を見張るや否や、残念そうに首を左右に振った。
それを気にも留めず、許褚は踵を返して畑に向かったようだった。代わりに、許淵と許定が元緒の落胆振りに眉を顰めた。
「それはそうと、ここは随分と見事な塢だのう」
腹が満たされた元緒は、思い出したように称え始めた。
「塢……?」
聞き慣れない言葉に、その場にいた者は小首を傾げ、互いに顔を見合わせた。
白湯を運んできた許林杏が、そっと元緒の前に置いた。許林杏に笑みを返した元緒は、白湯を啜りながら続けた。
「何じゃ? お主ら塢を知らんのか?」
「俺たちは、この邑から出たことがねえもんで。塢とは何のことでしょうか、元緒さま?」
尋ねた許淵に倣って、許定、張平、薛宇、そして、許林杏も元緒に注目した。
「塢とは、防衛に特化した砦。居住地を城壁で囲み、敵襲を逸早く察知する角楼を置き、万事のときは中に籠る者全てが兵となる。まさにここが塢、そのものであろう」
「――――⁉」
注目の的は、元緒から許淵へと変わった。その許淵は、唖然とした表情を晒していた。
元緒の顔が不敵に歪んだ。
「その様子では、戦乱の災禍から免れるための工夫が、得てして塢となったというところか。ここより遥か北西の涼州辺りでは、さほど珍しいものでもないがのう」
「驚いたな。俺たちは、塢ってやつを築いたってのか……」
「ああ。塢が何たるかも知らない許淵の指示に従ってな」
張平と薛宇が、呆れた調子で許淵を見遣った。
「見たこともないものを築いたということですよね? す、凄いことではありませぬか、父上!」
「父上、凄い!」
瞳を輝かせた許定と許林杏が、許淵に尊敬の眼差しを向けた。
「お、おう……」
許淵に浮いた照れ笑いは、ぎこちなかった。確かに、塢というものの存在は知らなかった。必死となって、戦乱の災禍に負けない邑を形にしただけだった。
「なれば、お主が塢主ということか。許淵と言っておったな?」
元緒が、盃の白湯を飲み干してから言った。
「まあ、許淵が邑長みたいなもんだからな」
「ああ。許淵がいなければ、ここまで邑を再建できなかった」
張平と薛宇が、顔を見合わせるようにして元緒に応じた。
「許氏が拵えた塢、許塢――。そう呼ばれる日も近かろう」
これに気をよくした許淵は、満悦となった。
「どうだい、元緒さま。暫くこの許塢に留まって、諸国のことを教えてくれねえか? お連れの方もこの許塢を訪れるかもしれねえ。ここの離れを自由に使ってくれていい」
「ほう」
元緒は驚きの表情となると、俯き加減で考え込むようにした。間もなく上げられた顔は、目尻の皺が一層深いものになっていた。
「それは良い。路頭に迷い、空腹で倒れることもないしのう。美味い餅にもありつける」
元緒の目には、静かに佇むにこにことした許林杏が映っていた。
近くの畑では、許褚が二頭の牛に犂を牽引させている。額に浮いた汗が、陽に照らされ輝いていた。