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許氏の塢  作者: 熊谷 柿
第2章
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行き倒れの老夫

 九歳となった許林杏きょりんあんは働き者だった。

 誰よりも早起きすると、中庭に作った雨よけの下に向かった。軒下のきしたには、鹿の肉が干されている。昨日からの大雨は上がり、朝日が差し込んでいた。

 花崗岩かこうがんでできた回転式のうすが設置されている。その挽き臼の横には、大きな唐臼からうすが置いてある。唐臼も石製の挽き臼である。底が地面に浅く埋められ、臼の上には台座に取り付けられた木製でL字型のきねがあり、梃子てこの原理で動くようになっている。

 許林杏は、唐臼の杵の柄を踏み込み上下させると、小麦を叩いて殻を割った。小麦の殻粒からつぶ籾殻もみがらを慣れた手つきでに移すと、手首を返して宙へあおった。軽い籾殻は微風で吹き飛ばされるが、重い殻粒は箕に戻る。それを挽き臼の上下の臼の間に入れた。

「うまくできたな」

 いつもの拍子に姿を現したのは、優しい笑みを浮かべた許定きょていだった。それに許林杏が微笑を返すと、許定は挽き臼を回し始めた。上臼に通した横棒を使って回転させる仕組みだった。許定は、横棒を押しながら挽き臼の周りを円を描くようにゆっくり歩いた。

 頃合を見計らった許林杏が、箕からすくった穀粒を上面の穴から挽き臼の中に入れる。穀粒を粉砕するパチパチという音が聞こえる。その音が消えた頃合だった。

「ん」

 のっそりと巨軀きょくを運んできたのは、許褚きょちょだった。許褚は上臼を軽々と持ち上げると、上下逆さまにして地に置いた。押し潰された穀粒は粉となり、上臼と下臼の表面に付着している。

 許林杏は、それを手際よくほうきで集めて竹笊たけざるに入れると、竹笊を持って母屋おもやへと急いだ。

 毎朝の製粉作業だった。この小麦粉を水でね、焼いてべい(パン)にすると朝食にした。中に野菜を入れて焼くこともある。

 いつもと同じ一日の始まりだった。異変が起きたのは、固く閉ざされていた四方の門が開け放たれた頃合だった。

「北門の前で、人が倒れているぞ!」

 まるで、蛙が上から押し潰されたような格好をしていた。全身は、びしょ濡れである。

 見れば、ひとりの老夫が倒れ伏していた。身の丈は六尺(百五十㎝)にも満たず、全身を漆黒の襤褸ぼろまとっている。どういう訳か右足が木脚もっきゃくだった。手にはあかざの杖を握っていた。

 むらの者は野次馬やじうまの人垣となると、得体の知れないものでも見るような視線を送っていた。

 そこへ、騒ぎを聞きつけた許淵きょえんが駈け付けた。

「お、おい。旅の人、大丈夫か?」

 倒れ伏した老夫に身を寄せた許淵は、恐る恐る漆黒の身を揺すった。

 蓑笠みのがさを被った老夫は顔を上げた。額が異常に突出し、鼻はひしゃげ、反歯そっぱだった。

「……腹、減った」

 それだけ言うと、老夫は再び伏してしまった。

「どうする?」

 眉をひそめた許淵に、歩を寄せて張平ちょうへいが尋ねた。張平の後方からは、慌てた様子で駈けてくる薛宇せつうの姿も見えた。

「このままにしておく訳にもいかねえだろう。俺の屋敷まで運ぶか?」

「どれ、俺が運んでやるよ」

「許淵の屋敷まで運べばいいんだな?」

 張平が老夫の身を起こすと、馳せ寄せた薛宇が老夫に肩を貸した。

 藜の杖を持った許淵が先導している。両肩を張平と薛宇に預けたような老夫の足は、覚束おぼつかないものだった。

 薄っすらと目を開けた老夫に映ったのは、ほこらだった。ひとりの偉丈夫いじょうぶが供え物をしている。許褚だった。その体軀たいくのせいもあってか、老夫は許褚に視線を送っていた。

 すると、許褚が予想外の動作を見せた。昨晩の雨でできた水溜りに浮いた一枚の緑葉を優しく拾い上げると、乾いた土の上に静かに移したのである。

「…………?」

 小首を傾げた老夫は、空腹に耐えるように再び目を閉ざした。


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