頑固一徹
西暦一八四年、後漢末――。
生活に困窮する農民を扇動した黄巾の乱の発端は、太平道という信仰宗教だった。
「黄天まさに立つべし」
黄天とは、太平道が信奉する神のことである。信者だけではない。漢の朝廷に不満のある者であれば、誰でも黄色の巾を頭に巻いた。
全土での一斉蜂起に、朝廷は各地に将士を派遣し、乱の鎮定に躍起となった。その甲斐あってか、僅か一年足らずで乱を平定するに至った。
しかし、乱の根本的原因である政治腐敗は改善されることはなく、黄巾賊の残党は、依然として広範な地域で跋扈する世となっていた。
予州沛国譙県――。沛国の最西部にある、汝南郡寄りの田舎だった。その田舎にも乱の爪痕は残っていた。
強仕の頃も半ばを過ぎている。黒髪を白の巾で結ったひとりの丈夫が、荒れ果てた邑を前に途方に暮れていた。許淵――。その丈夫の名だった。
「たかが農民反乱だぞ。戦の素人に官軍が負けるか、普通?」
渋面を浮かせた許淵から、胸中の呆れ声が漏れ出ていた。
黄巾の乱が勃発して間もなく、汝南郡も黄色い荒波に襲われた。各地の城郭や邑落は、黄巾賊の垂涎の的となり、汝南の太守は邵陵県から兵を率いて対抗したが、ものの見事に大敗した。
その敗報が邑に齎された頃、邵陵県から取って返した黄巾賊の襲撃に遭っていた。
嵐が通過したようなものだった。田畑は踏み荒らされ、蓄えていた糧食は略奪された。家畜も奪われ、容赦なく壊された住居は資材として持ち去られた。それに抗った邑人も殺された。農民が農民を襲う世に愕然となった。
荒廃した邑に残ったのは、崩れ掛けた祠だった。昔から邑にあるが、何を祀ったものなのかわからなかった。
そして、二人の息子とひとりの娘だった。
「定、褚、林杏」
許淵は、振り返りもせず、後方に立ち尽くした長子の許定、次子の許褚、そして、子女の許林杏を呼ばわった。
「はい、父上」
応じたのは、長子の許定だった。齢二十四を迎えた精悍な丈夫だった。
許淵は、腕組みをして胸を張ると、前を向いたまま続けた。
「朝廷は信用できねえ。税は巻き上げるだけ巻き上げるが、俺たちを守る力は持ってねえ」
「…………」
許定は、真摯な眼差しで父の背を見遣った。
「自分たちの身は、自分たちで守るしかねえんだ」
「父上は、怒ってるの?」
許定に手を握られた五歳の許林杏が、愛くるしい笑みで許定を見上げた。
口許に人差指を立てた許定は、小妹の許林杏に目を細めると小声で返した。
「静かに。こういうときはね、父の背をよく見ておくんだよ、林杏」
大きく頷いた許林杏は、にこにことして許淵の背に目を輝かせた。
病弱だった母親は、許林杏を産んで間もなく世を去っていた。
「お前らも力を貸せ。俺は築いてやる。賊にも揺るがない邑を、乱にも怯えない邑をよ」
振り返った許淵は、破顔だった。どんな苦境にも弱音を吐いたことがない。許淵には、困難を克服する度に強くなると思い込んでいる節があった。
「はい、父上」
「はい!」
拱手した許定に続き、許林杏が元気に手を上げた。
「ん」
魁偉の風貌に加え、身丈八尺(百九十㎝)に届こうという躰だった。長子の許定より上背と胸板がある。その腕は大樹の幹ほどもあった。許褚――。齢二十三を数える許淵の次子だった。父のように腕組み、胸を反らしている。肯んじた寡黙な許褚の瞳は冴えていた。
三兄妹には、父が苦境を乗り越える度に、その背が大きくなるように映っていた。