黒鎧の将
さらに三日が経過した。
ここまで善戦していた許塢は、いよいよ窮地にあった。
それもその筈。絶え間なく射込まれる火矢に、塢内の建物はおろか、急拵えの矢も蓄えていた糧食でさえ焼失していた。
加えて、許褚の異変に塢の誰しもが気づいた。
若人を率いた許褚は、四門から絶え間なく打って出ると、変わらず鬼神の如き武者振りを見せた。許褚の姿を認めた黄巾賊は、弾かれたように後退した。
しかし、塢に戻った許褚は、きまって胸を押さえてうずくまると、苦しそうにしている。
その異変を察した元緒も、許褚に気を配りながら塢内を奔走していた。
「……ちくしょう‼」
西の門楼で、張鴦が喚きながら黄巾の波に椀を投げている。塢内から集めてきた椀だった。目には涙を浮かべていた。
「落ち着け、張鴦。まだだ。まだ諦めるな」
顔の半分ほどが火傷で爛れた父の張平が、張鴦の傍に身を寄せて言った。塢内から集めてきた拳大の石をひとつ手にすると、勢いよく黄巾に投げつけた。
「くっ! ここまでか……」
苦悶の表情を浮かべながら、北の門楼から許定が盃を投げつけていた。
南の門楼では、薛麗が悔し涙を流しながら、射込まれた矢を拾っては射返していた。
「帰れよ! お前らさっさと帰れ!」
感情を露わにした薛麗に、隣で石を放った父の薛宇が静かに言った。
「薛麗よ。最後までだ。最後まで我らの意思を見せつけるのだ」
東の門楼で、許淵がありったけの椀と石を投げ飛ばしながら眼下の黄巾に言い放った。
「黄巾の残党なんかに平伏さねえぞ!」
許林杏の手を引いた元緒が、身の隠し場所を探して塢内を彷徨っていた。
「元緒さま、この塢は……どうなっちゃうの?」
元緒は、許林杏を見遣った。今にも泣きだしそうな顔をしていた。
「……大丈夫。大丈夫じゃ」
無理に笑みを作った元緒は、許林杏の頭を優しく撫でた。ふと、前方に見えたのは許褚だった。大きな背が岩のように見えた。
許褚がうずくまっていたのは、塢のちょうど真ん中辺りだった。近くに祠が見えた。祠は、どういう訳か戦禍から免れているように健在だった。
許褚は、霞んだ目で地を見遣った。小さな黒いものが動いている。蟻のようだった。いつぞや見た夢が思い起こされた。
「躰が思うように動かん。……この塢を救ってくれ。……黄巾を追い返してくれ」
声にならないような声だった。苦悶の表情を浮かべた許褚から、一筋の涙が溢れた。それは頬を伝うと一匹の蟻の上に落ちた。
すると――。
全身黒尽くめだった。許褚の前に現れたのは、兜を目深に被った勇壮な黒鎧の将だった。後方には、将と同様に黒い兜と鎧を纏った五千ほどの兵士たちが整然と居並んでいた。
「我らにお任せあれ、許褚どの」
黒い外套を翻して、拱手した黒鎧の将が爽やかな笑みを湛えた。
「――――⁉」
突如として目の前に現れた黒い兵団に、許褚は言葉を失った。
「な、何と――⁉」
許褚と同じように目を剥いたのは、元緒だった。元緒だけではない。忽然と現れた黒の兵団に気づいた塢の者は、挙って驚きの形相となった。
湧いて出たような黒い兵団を前に、元緒は思い当たる節があった。
「あのとき、許褚が救ったのは蟻……。それも、義に厚いと呼び声高い蟻将じゃったか!」
「げ、元緒さま。あの方たちは……?」
許林杏が驚愕の表情で元緒を見上げた。
「優しい兄でよかったのう」
そう言うと、元緒は許林杏に破顔を見せた。
「我らの敵は、壁の外にあり! 各々黄巾の賊徒を駆逐せい!」
蟻将は大音声で下知を飛ばした。その声はよく通った。忽ち四つに割れた黒い蟻軍は、東西南北の護城墻から鬨の声と共に続々と躍り出た。
「何だ?」
揃いの黒い甲冑を纏った兵を認めた劉辟は、忽ち肝を冷やすと色を失った。
「な、中に官軍がいたってのか――⁉ 聞いてねえぞ……。こりゃあ、相手を間違えた。朝廷に目をつけられたら、溜まったもんじゃねえ」
塢から溢れ出るような黒鎧の兵を前に、劉辟はすぐさま退却の号令を下した。
それを待たずして、勇敢な黒い兵士たちの出現に、官軍と取り違えた何儀と黄邵、そして、龔都も一目散に退却を始めた。
「こ、こんなことが、本当にあるのか……?」
東楼の許淵は息を飲んだ。
黄色い波が退いていく。それを黒い怒涛がどこまでも追っていくようだった。
塢内で勝ち鬨が上がった。次第に大きくなると、塢を揺るがすほどの大音声となった。
許塢で負傷していない者はいなかった。命を落とした者もいなかった。




