好きな景色
私は前回の記憶はあるけれど、何処霞みがかるようにフワフワとしていた。大切な事は思い出せないし、自分自身がどんな人生を歩んだのかさえ知らない。偶に浮き上がる記憶に『こんなことも在ったなぁ』としみじみ思うくらいだ。つまり、前回の記憶は大して意味はない。まぁ、なんか怪しげな獣が徘徊している時点で私の記憶は意味がないのだけど。
――それでも。忘れられない記憶というものもある。
地平線に緑が広がっていた。所々に小さな花が微かに冬の冷たさを伴う風に揺れている。季節が外れているためか、花数は少ない。ただ春になれば一面雪のように真っ白になることを知っていた。空に一面の綿毛が舞う事も。
ふわりと脳裏に過る少年のはにかんだ顔を思い出して少し泣きたくなった。
「気持ち悪い?」
同じようで同じでない少年――アドラーが心配そうに覗き込む。
私が到底魔術では行使することが難しい――というか不可能――『空間を縮めて』連れてこられた先は首都の南部にある平原だった。遮るものは何もない。ただ静かに風が吹き抜けていく。
「偶に酔う人がいるのだけど……」
「ううん。少し驚いて……それよりここはどこですか?」
笑いかけると小さく安堵したように息を吐いてからアドラーは遠くに目を馳せた。整いすぎた横顔はどう見ても前回と同じ横顔に重なって一瞬自身が『どこ』に居るのか分からなくなる。
「うん。僕が好きな場所でね。シャロに見せたかったんだ」
「私に?」
「ここは僕が子供の頃から落ち込んだときとか、怒られた時とかここに来るんだよ」
そもそも聖王を怒ることが出来る人っていいないと思うのだけど。神官たちは僕であるのだし。居るとしたら、前王と前聖女――だけど。もちろんこの二人はこの世に存在していない。聖王は死によって代替わりが成されるし、そもそも前王に聖女は現れなかった。
もはや本当にいるのか。その存在。と言いたくなる。
――にしても。まさか前回の事を覚えているというわけでもないだろう。しかも何でもない一日だったし。
私にはとても輝いていて、意味のある日だったけど。
「なぜですか?」
言うとアドラーは緩やかに私へと目を向けた。
「君が僕の聖女だから」
……なにいってんだろう。とは突っ込めなかった。余りにもその表情が穏やかで嬉しそうだから。そう信じているようだったから。勘違いを、しそうになる。
でも、と口元を結んだ。
何のつもりかは知らないけれど、私は聖女ではない。それは確実で。この申し訳なさなのか何なのか、こみ上げる苦々しい気持ちが這いあがってくるようだった。
もしかしたら前回の残り香なのかもしれない。そうでありたかった。そう願ったかつての自分。結局何者にもなれなかったけれど。
……まぁ、うん。仕方ないね。
押し込めるようにぐっと小さく喉を鳴らす。もう前回ではないのだから。まだその心が燻っていた事に驚く。
「私はお祭りの聖女ですよ。一日聖女です」
笑えて――いるかな。よくわからない。それに応えるようにアドラーは眉尻を困ったように下げていた。伸ばした手はどこに行く事もなく諦めるようにして宙を掴む。その視線は地面を彷徨ってから、私に縫い留められた。
灰色の両眼は銀色に輝いているように見える。それが真っ直ぐ私の心を貫くように見るものだから、私の心臓はどくりと鳴った。
いや、鳴らないほうがおかしいし。って、私は誰に言い訳してるんだろうか。
「あのね、僕は――」
刹那。背中を這うような殺意に私は弾けるようにして顔を上げていた。剣を探ろうとして腰に手を当てるが、何もないことに舌打ちをしてしまう。それはそうだ。学校に剣は持ち込めないし、当然にこんな事は想定してない。
アドラーを背で庇う様にして中腰になり辺りを警戒する。今のところ視界には入らない。だけどどこかに居るはずだ。
子供の頃から狩っている私を舐めんな。ぐっと私は口元を結んだ。
「怨妖?」
「……少し聞きますが、アドラー様。護衛は?」
「いや、もう少し掛かると。僕の位置は把握してるはずだよ」
デスヨネ。すぐ来るわけでもない、か。と息を一つ吐き出してどうしようか考える。剣を持っていない私は木偶の棒でしかない。逃げ足は早い方だけど。
うーんと首を捻る。
出来るのはきっと囮。嫌な考えに息を吐き出す。死ぬつもりはないけれど、それしかないだろうか。聖王は護られる側で戦うべきものではない。傷一つ付けてしまえばそれこそ大事だ。
私が生きていたとして、処される未来しか見えない。
「あの、魔術で跳べますか? ここに来た時のように」
言うと後ろで頭を振るのが分かった。少しだけ目を遣るとうっすら笑っているのが分かる。それが何となく怖い。顔が美麗であるが故だろうか。
わたしはなにもみませんでした。
「――いや。ここで斃していこう、払うよ。いいね。シャロ。此処で逃せば民に皺寄せが行く。僕は聖王として見逃せない」
「いや、逃げてほしいんですけど。私武器持っていないですし。それに――」
魔術を使う事も出来るが、総じて神官は強くない。それは聖王にも同じように感じられた。浄化は異常に体力を使うという。それ以外に何も出来ない程に。規格外を持っているとは言え、信じられない。
それにと私はアドラーの細い身体をじっと見つめた。
……うん。
私の可愛いシュガーより細くて頼りない様に見える。それは前回とも変わらない印象だ。前回だって特に身体を鍛えていたという記憶はないし。
そんな視線を感じたのかアドラーはへらりと笑う。
「僕は護られるのなんて、もうごめんだよ」
さぁ。と呟いて何処から出したのか剣を取り出して私に渡す。シンプルで、何の飾り気もないがよく手入れされた銀の刀身が光っていた。
いつもより重みが在るだろうか。それでも振れない程度ではなくて、溜息一つ。
これなら、まぁ。いけるかな。
「……何かあっても私を処さないでくださいよ。絶対」
不肖不服。口を尖らせて言うとアドラーは少し嬉しそうに笑って見せた。なんか腹立つな。うん。