テノール・フローリス
テノールが聖王で在った頃、世界の状況は今よりも厳しいものだった。世界は厄災で溢れ、人々は毎日で生きるだけで精いっぱいであった。それはデアリスという神を主に掲げた国家で在ってもきついくらいで、神の加護が弱い世界の国家に至ってはさもありなん。ほとんど人間と言われるものはほとんど滅びかけていたと言っていい。
そんな世界で――テノールは育った。正しく『人間の父母』とともに。
テノールが世界は巡っていると気付いたのはいつの頃だったか。共に生きた妻が世界から永遠に隔離されてしまった時かも知れない。
あるいは。怒りの任せて――怨妖を喰らっていた時かもしれない。なんにせよ今となっではどちらでも良い事だった。
乾いた風に切っ先から暗く染まった髪が舞い上がる。草木も枯れ始めた世界は乾いていて、ただただ塵が舞っていくだけだった。
守るべきものは此処にはいない。
ざりっと音が聞こえてゆるりと暗い――黒い双眸を目を向けた。かつては人形のような美しい美貌も汗と汚れでまみれ、無精ひげが全体をおおっいていた。それでもその存在は聖王としての異彩を放つ。
「よぉ。初めまして、かな? なんにせよ僕の『召喚式』は上手くいって良かった」
視線の先には青年が立っている。長い銀の髪と白を通り越して青白い肌。テノールと同じ黒い双眸には光を感じられなかった。囚人のように薄く丈の長い粗末な服と素足でそこに立っている。
――ただ異様なのは、その青年が陽炎のように感じられることだろうか。
彼は静かにテノールを見ていた。その周りに尋常でない『毒』を纏いながら。その毒は周りから生命を奪い風に乗って辺りに散っていくが、それは留まることなく湧きだすようだった。恐らく浄化すら難しいだろう。とテノールは考える。あれは所謂怨妖の本質。根本のようなものだろう。ここからすべての怨妖は湧きだしている。
――浄化しても本質的には払うことは出来ない。
「そうなったのは私の所為じゃいしな」
茶化すように言ってみたが、青年は答えない。ぼんやりとただこちらを見ている。
前回――。世界が回帰する前。テノールはある魔術を完成させていた。とは言っても死ぬ前に辛うじて完成させたので使うことは出来なかった。
それは『神』を召喚するための式だ。それはもはや魔法と言ってもいいのだろう。命と魔力を贄に代え、神を召喚する。尤もその神というものが『何』かであるかテノールにはどうでもいい事であった。恐らく、神の力が強ければ強いほどその命と魔力の贄は多くなるのだろうと推測する。
その目的はただ一つ。神に己が願いを叶えさせるため。
かつてのテノールは神は何でもできる。世界の法則さえも変えられると、そう信じていたから。
まぁ――いざ使おうとした今回は『無効』になっていて、笑ったが。使えるのは一度だけ。そのように作った。
もちろん後悔しかないが。
テノールは目の前の青年を見つめる。
恐らくだが聖王に代々受け継がれてきたのだろう。どのくらいの未来であるかは分からないが目の前の青年が聖王で在ったことは分かる。
何が、と言われればその存在が。自身は持っていない神の気配というべきものだろう。
暫くして、はぁとテノールは疲れた様に溜息を吐き出した。どうやら青年からは何かを喋る気は無いらしい。面倒だと考えながら口を開く。
「――それで、私に会いに来たの? 何の用?」
「僕に封印を、して欲しくて」
何を言っているんだ。テノールは単純にそう思い目を瞬かせる。
確かに。目の前にいる青年を封印してしまえば、新たに生まれる者は消えてなくなり世界は平和に訪れるだろう。それはテノールにとっても願ったり叶ったりだ。
だが。本当に意味が分からないのだ。
見た目は世界の終わり。絶望が支配しているが、滅ぶことはない。滅ばなければ、別にどうでも良いだろう。眠っていても、起きていても時間は進み目的は達成されるのだから。
きっとそれがテノールが知っている聖王らしい考え方で、間違っていなければ件の青年もそれに漏れないように見て取れた。もちろんテノールを除いてではあるが。
うん。と考えて目の前の青年に目を戻した。
「もしかして、憂いてるの? ――君がした事なのに。それに私じゃなくとも、父上の方が良かっただろう?」
憂う。言っていて首を傾げたくなった。そんなことを気付いているのかいないのかぼんやりと表情のないまま青年は告げる。
ただ、その声は何処か所在なさげに聞こえた。
「ここまで、しか。巻き戻せなくて。それにテノール様は歴代の中で天才だったと」
天才。確かにテノールは天才であったと本人も自負している。ただし人間らしい天才で何でもできる、すぐに超えていく父王には何一つ叶わなかったが。なので注目されたこともたいして褒められたこともなかった。
悪い気分ではない。ふふんと鼻を鳴らす。
「僕がしたことは、許されないことは、分かっています――いずれ世界は滅びるでしょう。ですが、それまでは少しでも」
本当に憂いているのか。とようやく理解した。よくよく考えれば式を使い神を呼び出した者だ。欲を――人間らしい願いを持っているという事なのだろう。
それに何となく。何となくだが歴代の聖王の願いのような、そんな気がした。人間らしくない人間らしい聖王の願い。
けれど。それは酷く醜い。まぁ、テノールも同じ穴の狢だったのではあるが。
「……自己満だね」
「そうですね。結論的に僕はあの子に『幸せな世界』をあげたいのです。こんな世界では――」
こんなせかい。に苦笑する。せっかく作り上げたのに、誰がしたんだと。
「言ってくれるね。まぁ、僕が式を残したのだし。半分以上は僕の所為かとも思うし――君が使っていいなかったらきっと僕が使っていただろうし」
少し息を飲むのが聞こえた。ただの好奇心で作ってたとでも思っていたのだろうか。
「私は君たちよりも所詮人だからね。願いはある。君より強欲ではないけどな」
「僕は」
何かを言いかけるのをテノールはひらひらと手で制した。
理由など。興味ない。言い訳みたいなものだ。
「いいさ。別に。私は人の願いなんて興味ない。――でも。ちょっと今の私は魔力不足でね。用立ててくるから待っててね。そこで」
既に魔力切れを起こしかけているのは分かっていた。それを埋めるには魔力を補給するしかない。幸いテノールは体質的にいろんなものから手っ取り早く補給できる。ただし補給するたびにジワリと魂の色のようなものが滲んでいくのが自分も分かった。
聖王で無くなり、いずれ人ですら無くなる。そんな予感はあったが――そんなことはどうでもいい。
「テノール様」
鼻歌を歌うように上機嫌で踵を返したテノールに咎めるようにして青年は言った。ゆるりとテノールは視線だけ向けて口を開く。
「何もかも無くなってしまったけれど、これでも私は聖王でね。皆に出来ることがあると思うと嬉しいんだよ。未来があると思うと楽しいんだよ」
なので。
とテノールはすっと手を伸ばして空間から古びた剣を取り出した。絵を掴むとふわりと髪が舞い上がる。その風は埃や汚れを取り払い、髪を軽く結い、顔から髭をするりと消滅させていく。ふむと顎にてを当ててそれを確かめるとテノールは『こんなものか』と呟いていた。
幼さの何処か残った青年とは違い、もはや壮年を感じさせられる男がそこには立っている。けれど何処かその雰囲気は似ていた。
血などは全く繋がっていないのではあるが。テノールはにっとわらう。
「大丈夫さ。私は私のまま。変わることはないだろう。何かになり果ててもね。君が心配することはないし約束だけは何があったも守るものさ」
「――」
青年は何かを言おうとして口を開いたがその唇が何かを紡ぐことはない。少しだけ眉を顰めて視線を下げた。謝罪をしたかったのだろうか。もしくは感謝か。と考えてそんなものはもちろんテノールは要らなかった。
踵を返すと、何もない世界に目を馳せた。傾き始めた日にちらほらと暗い影が地面に伸びる。この辺は一掃したはずなんだけどな。と心の中で軽く毒づいていた。
ざりっと確かめるようにして地面を軽く踏みつける。
「君はやっぱりそこで待っていると良い。そこで動かず、周りの毒を広げない事が君の今出来ることだ」
「……分かった」
「よし。すべて終わったら酒でも飲もうな――どうせ暇になるんだ。君の長い話を飽きるまで聴かせてもらうよ」
酒。当然だが聖職者は飲むことは出来ないが。もうどうでもいいだろう。はっと笑うとテノールは身体を低くして駆け出していた。
まるで黒い獣のように。その獣を目を逸らすこともなく青年――アドラーはずっと、ずっと見つめていた。
その姿が変異していくまで。




