失踪
豊穣祭は予定の二日分を終えてあと一日を残すのみとなっていた。相変わらず神殿内は慌ただしく、神官達には疲労の色が滲み出ている。眠っていないという猛者もいるらしく、変なテンションの神官が廊下で偶に見られた。
爽やかな朝とは言えない何処か鬱々とした執務室。次の儀式に向け、書類等を確認していたアドラーは持っていたペンを驚きの余り落としていた。
目の前に立っているのはアドラー付きの大神官リオル。神官にしては恰幅のいい中年の男で目を逸らしながら額の脂汗をハンカチで拭う。その向こうで平然と座って、お茶を嗜んでいるのは、三日間の疲労も何するものぞと言いたげな聖女――信じたくないがそうなのだから仕方ない――ロゼリアであった。
「シャロが消えた?」
神殿から手紙一つで家に帰ったのはさすがに傷ついた。それはそうなのだろう。分かっている。聖女が現れた以上、シャロに居場所はない。だけれど、一言くらいはと子供じみたことを思ってしまう。
「家に帰ってない? 二日前から?」
思わず低く鳴った声にアドラー自身が驚いていた。ピリリと空気が張って息を誰かが飲む。
「シュガー・ハーバリストは?」
弟が迎えに来たと報告で上がっている。あの自他ともに認めるシスコンが姉であるシャロンを見失うはずなどないのに。そのための手首に付けたブレスレットだとアドラーは考えていた。
そのはずなのに。と奥歯を噛む。
「祭りで逸れて、連絡がつかないと。クラベル・ハーバリストも捜索に加わりましたが以前見つかっていない模様で。見つかったのは此処を出た荷物だけという報告――」
最後まで言わせずアドラーは椅子から立ち上がっていた。にこりと微笑めば『ひいっ』と声を漏らされたのはなぜなのかアドラーには分からなかった。
怒ってはいる。怒ってはいるのだ。だけれどそれが外に漏れ出しているとは微塵も思っていなかった。
実際には威圧のような空気を終始醸し出していたのではある。拾い上げたペンを無意識に二つ折りにしている程には。
「もういいよ。リオル大神官。僕が行く。君たちは引き続き捜索して。何かあれば僕に連絡を――」
「し、しかし。猊下。三日目は――」
豊穣祭は三日目で最高潮を迎える。その有終の美を飾るのが聖王と聖女の行進であった。その行進も実のところアドラーは今まで出たことはない。未成年を主に理由にしていたが、実際の所面倒だったためいつも見目の良い神官を代役に立てていた。今年はいい加減出てほしいと泣きつかれたところに、シャロンが出るならと言うことで了承したと言う訳であった。本人は納得していないが。
であるのでシャロンが居なければ意味は無い。
それに。そんなことをしている場合ではないだろう。
アドラーはカツンと靴音を立てて足早に部屋を出ようとしたが、すっと音もなく目の前に立ったのはロゼリアだった。
蜜色の輝く髪と双眸。人形のような少女で居るだけで華やかな空気になる。まるで花を纏っているようだ。くらくらする匂いなのだろうか。――疑問形なのはアドラー自体が何も感じないからだ。
聖女と聖王は惹かれ合うと言うが今の所その気配などないし、アドラーは何処か高慢に見えるロゼリアが苦手と言うより――嫌いだった。
どうにかなることはないだろう。そう確信するほどには。
「そこをどいてくれるかな? ロゼリア」
多分誰も気づいていないが優し気な声音に苛立ちが混じる。そんな事など気にも止めず――もしくはやはり気づいてもいないのだろう。ロゼリアは大きな目を細めふふっと笑顔をこぼす。誰もを魅了するようなそんな笑顔であった。
「酷い事を仰るのね。私と言うものがありながら、ただの小娘の元に向かうなんて」
「――僕と君が何かあるみたいな言い方はやめてくれるかな? 恐らく、これから先も何もないから。あぁ。君は大神殿で好きに生きてくれればいいよ」
「あら、私が居なければこの先乗り越えられないのに、ですか?」
「僕の代わりはいるだろう?」
この先――弱々しい身体だとは思う昔から。別にそれはそれでいいのだ。別に消えてしまっても構わない。
シャロンの方が大切だ。とにかく行こうと身体をずらせば、悲しげな声が纏わりつくように足を止める。
「酷いですわね」
大きな双眸から真珠のような涙が零れそうに揺れている。『聖女様』と慰める周りの声にアドラーは言い過ぎたとぐっと喉を鳴らしていた。
ロゼリアはアドラーの聖女である。アドラーが死んでもそれは変わらず、ロゼリアは次代を癒すことなどできないのだ。何より、アドラーを死なせた『役立たず』として肩身は狭いことになってしまうだろう。歴史上聖女がいる聖王は人のそれと寿命は変わらない。
「ああ。言い過ぎた。僕が死んでも――」
「でも、多分。貴方はそう言うと思ってましたのよ。あの小娘がいる限り、私が期待されない事は明白――だから、私考えましたの」
居なくなれば、いいって。
アドラーの言葉を被せる様にロゼリアは言った。先ほどまで泣いていたとは思えない何処か嬉しそうに弾む声。それは無邪気な少女そのもののように思える。ただその唇から紡がれる言葉は不穏なものでしかなかったが。
ぱしっと軽く音を立てて、細くて白い滑らかな指がアドラーの手を掴む。それは驚くほど冷たかった。
「そうしたら、私のものでしょう?」
「え?」
「ふふ。さすがに殺すのは可哀相だと思いまして、あの娘には故郷に戻ってもらいましたの」
故郷――と呆けた様に呟いてから、漸く理解した様にぐっと口元を結んだ。
この国から国外に『出る』のは容易だ。入ることが難しいだけで。簡単な荷物審査で済まされてしまう。出る人間は人道的立場から『子供』と『神官』を除いては止められることはないだろう。記録を取ってあるかも怪しい。
二日前。この国はそれほど広くはない。一日で簡単に国境にたどり着けるだろう。
もう、いない。だから、見つからない。
さあっと頭から血が引いていくのだけは分かった。
アドラーはパンっと弾くようにロゼリアの手を振りほどくと、半ば乱暴に押しのけ近くにいた神官に目を向けていた。強い光を放って神官を縫い留めらた神官はピクリと肩を揺らした。
「ハーバリスト兄弟をここに呼んできてください」
「しかし」
神官がアドラーと見比べるのはロゼリアである。ただ、神官はロゼリアの臣ではない。アドラーはきつく見つめたままぴしゃりと言った。
「呼びなさい」
「は――」
ぱたんと扉が小さな音を立ててしまった。それを見送った後でアドラーは息を付いてから、ソファーに軽く腰を掛けた。
道理で見つからないはずだと口の中で転がし、頭を抱えるようにして上半身を丸めてみせる。
国外に行ってしまえばアドラーに打つ手は無い。精々保護を通達を出すことだけだった。
――迎えに行くことは出来ない。それに歯噛みする。
アドラーは立場もあるが聖王と言う特殊な力の為に長くこの国を出ることは出来ないのだから。それも知っていてロゼリアは『外』にシャロンを出したのだろう。
それに。あの故郷は――と考えて眉を顰めた。知っていて送り返したとすればそれは殺すことと変わらないのではないだろうか。
どろりとした感情がせり上がるのを何とか押さえている事など分からないだろう。
「酷い事をするんですね。そんなことだけの為に」
「私は貴方の為に存在しているのです。ただそれだけ。その座を求めるのは当然の事でしょう?」
そうなのだろうか。よくわからない。
神の生まれ変わりだというのに、ロゼリアはアドラーよりも人間らしいように見える。人間から生まれたからだろうか。こんな状況ではあるがそれが少しだけ羨ましくも思えた。
同時かなり苛ついたが。顔に出せない自身が俄かに呪わしい。
アドラーにはもう、求める為に捨てられない。こっそりと忍ばせていたペンダントを服の上から握る。それはほとんど祈るようにも見えた。
それをつまらなそうに見つめて溜息一つ着いたのはロゼリアだ。
「あの娘が帰ってきてももう無駄な事だと思いますわ。生きて帰ってくることができれば、ですけれど」
――それは無い。とは言えず『そう』とだけ諦めた様にアドラーは返していた。




