悪夢
――熱い。嫌だ。嫌。苦しい。助けて。誰か――
『あの人は来ないよ。だって貴女は重要じゃないもの――』
暗い部屋に、ぽうっと光が灯る。それは淡い月のような光で柔らかく冷たいものだ。魔術でも蝋燭でもない。部屋の中心にある硝子の中に飾られた『石』が輝いていた。精霊石と一般に言われる石は、高価で特殊。その石が照らし出すのはこの国の最高権力者――聖王の美しい横顔を照らし出している。
銀にも見えるその双眸が見つめる先には一人の少女がベッドの上に横たわっていた。その白い顔が微かに歪む。白い肌に張り付くのは蜜色の髪。それを聖王――アドラーは長い指でそっと避けた。
「――たす、けて」
少女――シャロンが苦しそうに眉を寄せて小さく呻く。見ているのは悪夢だろうか。その身体は神官によって癒されている筈であった。
もがくようにゆっくりと宙に伸ばされた手をアドラーは確りと握った。安心させるように。ここに居る。そう言うように。
シャロンの手は少し熱を持っているようだ。ひんやりとした自身の手にジワリと熱が伝わってくる。
「うん。大丈夫だよ。シャロ。今度こそ――」
「幸せになれる?」
カツンと靴の音が無機質に響いた。それに視線だけをアドラーは向ける。その顔に表情は無い。まるで人形が見つめている。そんな不気味さがあった。
「テノール様」
どうやってここにと聞こうとして無駄な事を悟る。基本何処にでも行けてなんにでもなれる自由人だ。この神殿の結界も通じないほどに。
それが少し羨ましいと感じる。
「やほ、やっほ~」
声の主テノールはひらひらと手を振ると近くに有ったソファに腰を掛けていた。いつから在るのかそのソファーは古びていて、何処か埃っぽい。置かれているクッションだけは真新しく、フカフカしていた。テノールは『ここ相変わらずね』と苦々しく呟く。
埃が浮かばない事だけは安心できた。
「元気そうだけど、それが『地』なのねぇ。ま。それでも感情が在る方が珍しいか」
つまらないわね。と付け加え自身の黒い髪をクルクルと指で弄んでいる。まるで少女のようであるがその姿は青年である。ただ、似合っているのはその姿が美しいからだろう。
アドラー自体は何の感慨も浮かばなかったが。感情が無い。と言うよりは興味が無かった。大体――感情が無いわけではない。極めて薄いだけだ。これは聖王代々の特性でもあった。神に作られているだけあってその辺が欠落しているのだろうとは思う。
欠落していると言えば。人間でない、テノールも同じだろうに。
「……それを言えばテノール様もでは?」
あら。うふふ。とテノールは誤魔化すように笑った後で、ベッドに視線をずらす。それに釣られるようにしてアドラーはシャロンに目を戻した。先ほどよりは表情が和らいでいるだろうか。ほっと息を零す。
「それにしても。優しいお姫様はまだ目覚めない?」
眠り続けて一週間以上になるだろうか――。ほとんど空になってしまった、死にかけと言っていいアドラーの魔力を埋めたのはシャロンの魔力であった。人の魔力と馴染むことは無いはずのこの身体を満たしているのはシャロンの魔力。それはとても感慨深いものではあるが――通常そんなことは出来ない。
アドラーはシャロンが聖女でないと知っているから。
それに。自身の為に命を掛けたことがやはり分からなかった。恐らく。下手をすれば死んでいただろうに。それはアドラー自身に意識が在れば絶対許さない事だ。
どうして。
「――どうして力を貸したのですか?」
責めてはいない。単純な疑問だった。ただし、何処か圧が在るように見えるのは気のせいではないだろう。
「あら。知っていたの?」
「こんなこと出来るのはテノール様しか居ませんので。それにシュガー・ハーバリストとヨヒリ神官の証言を得ています」
テノールは軽く肩を竦めて見せた。ヨヒリとはあの場にいたアドラーの世話役。唯一の目撃者だ。
「だって。貴方のお姫様泣いてたから。貴方の為に。可哀そうでしょう? それに――私は言ったわよ。この行為は命を削るって。貴方への恋とか、愛とか。前に置いてきているはずなのにね。笑ってたわよ。嬉しそうに。私もおかしくって笑っちゃった」
軽く声をあげてテノールは何処か嘲るように笑って見せた。それを無表情にアドラーは見つめていたが、本当は何とも言えない感情が渦巻いていた。
優しいだけではもはや理解できない行為。
歓喜――困惑。後悔。懺悔。そして自身の不甲斐なさに歯噛みするような怒りさえ覚える。
使い捨ての者に命を掛けるなどしてはならないのに――けれど確かに嬉しいと感じる自分がなにより嫌だった。
「……そうですね」
「正直そんな価値なんて、貴方には無いのにね」
アドラーはほとんど無意識に『価値』と言葉をなぞる。少し考えて、確かに無いかもしれないと結論をだしていた。卑下しているわけではない。本当にそう思うのだ。だって自分自身は『』で在ることをアドラーは知っているから。
そのことをテノールが知っているのをアドラーには理解できない。いつの間にかシャロンを見ていた視線をゆるりとテノールに戻す。
「――なぜ分かるのですか?」
「そんなことは『なりそこない』の貴方がよく知っている事でしょう?」
「なり、そこない」
抑揚なくアドラーは言った。それに関して何か思うことはない。実際真実だったから。なりそこないと言うよりも――。
思考を遮るように溜息一つ。その後でテノールは口を開く。
「随分制限されてるけど、聖王で在ることは事実でしょうね。でも、貴方『アドラー・エッジ・フローリス』では無いでしょう?」
本当は――誰?
そう聞かれても、アドラーには分からなかった。そして何を、どんな答えを期待されているのかも。傷を付くことを想像しているのだろうか。アドラーにしてみれば事実だし傷を付く意味が分からなかった。
首を傾げ訝し気に口を開くアドラー。
「そんな事を言うためにここに?」
「まぁね。楽しいから? でも、まぁ――つまらない子ね。なんか反応見せなさいよ。それなりの反応在るでしょう?」
暫くアドラーの返答を待っていたようだが反応が無くて――まぁ、いいや。、と諦めた様に呟いていた。
すっとテノールは立ち上がる。そのまま長い脚を伸ばしてベッドに眠っているシャロンを覗き込んだ。相変わらず硬く目を閉じられている。
「もうすぐ起きるわね」
「はい」
やはり何かを期待していたのだろうか。
一瞬の沈黙。テノールは小さく唇を尖らせた。さらりとした黒い髪をかき上げる姿は艶めかしいがもちろんアドラーに効くことはない。
これだから。と愚痴っぽく呟いた声は誰にも届かなかった。
「……はぁ。やっぱりつまんない。もう私は行くわ。起きたらまた来るかも知れないし、来ないかもね」
「今度来た時はおもてなしをさせていただいてよろしいですか? 歴代がそうした様に」
歴代――。テノールはと言うより怨妖はその身体にある魔力が尽きる迄動き続ける。老いると言う事もない。尤もそんな怨妖なんてテノールしかいないのではあるが。とても長い時間を生きるテノールは歴代聖王とも顔見知りで在った。
もちろん怨妖と聖王。立場が相反するため仲良くはない。何度『おもてなし』をされたことか。ふふふとテノールは笑顔を浮かべて見せた。
「人気者って困るわよね。でも、必要ないわ。私これでも忙しいの」
じゃあね。そう言いながらテノールは踵を返す。それをアドラーは何の感慨もなくぼんやりと見も詰めていた。