雪ト霙ノらぶそんぐ
疲れた、みたいだ。
イルミネーションの消灯に合わせ、僕のも。
駅前には、上りの人と下る人、それと通電した光電素子の見物人がいた。その流れを反抗期みたいに、あるいは、拗ねた幼児みたいに後頭部を向けて逆流した。あれを、綺麗だと言うか言わないかを試されてる気がするからだ。十八時の点灯に立ち会ってしまったから、振り返らずともどんな風貌なのかが分かる。例年と似たり寄ったりな色相と相当の装飾。新鮮に感じる由縁は、去年までは、隣に人がいたからなのだろうか。
袖を振り、腕時計を見た。三十分ほど過ぎた。
駅の構内にある、パン屋のテラス席に彼女がいる。柱の陰にサッと潜り、右手の端末に明かりを点す。「地元はどんな感じ?」まで打ったところで、角に側頭を付ける。念のため最後に「笑」を加え、震える指でメールを送信した。
二人席に座る彼女は、端末を眺めて机に置く。辺りを見渡し、パンに手をつける。
あぁ、最初に一口サイズに全て分けるあの仕草は、間違いなく彼女だ。昨日にはここを去って帰省すると、そう言っていたはずなのに。胸の奥の、大事な部位の存在感が大きくなっていく。
僕が声をかけるか迷っている隙に、彼女に声をかける陰がいることに気付いた。やや肩幅の狭い細身の男だった。縦長の影は、彼女の頭頂に掌を置き、三、四回程撫でやがった。それに満更でもない顔を見せる彼女に、胸がギュッと絞められた。
それと、焦燥性の憤りも感じた。
左手の端末をも一度起こし、彼女へ向けて通話を仕掛ける。何回目かのコール音の後に繋がり、電話が開始する。
「なに?」
「急にごめんね。今何してたの?」
「何で言わないといけないの?」
「ごめん、少し気になって。」
「はぁ、何か怖いんだけど。」
「もう地元着いた?」
「うん。」
「そっか…、今ね、駅前にいるんだ。」
彼女は何も言わなかった。
「楽しんでね。」
「兄貴だから、お兄ちゃん!えっ、何勘違いしてんの?」
「いや、いいから。」
「待って!ご…」
ぷつっ。
心臓は、まだ大きくこだましていた。店の入口付近の雨避けの下で、元カノは周辺を頻りに見回している。柱の死角に彼女を入れたまま、駅の敷地を去った。
何となく、家に帰りたくない。
そう思うのは、今日が所謂“聖なる夜”だからである。
駅から遠ざかってゆく、国道二号線から脇道に逸れた歩道は、一人で歩くことには充分に余裕のある道だ。
しかし、大人二人が横並びで通行しようものなら、忽ち、すれ違うには技量と胆力が必要になってしまう。
今も、僕の行き先を邪魔するように、一組のカップルが同じ方向に歩幅を併せている。
追い越そうにも、瞬間的に車道に出るか、フェンスと男の間を抜けなければならない。どちらも嫌味ったらしくて気が向かない。指を交じらせ、楽しげに会話をする二人に、割って声を掛ける度胸は僕には無い。
三分ほど悩んだ末に、別の道から行くことにした。
線路が通る高架下を抜け、川沿いに出る。
夜の河川は墨のようだ。あれに飛び込んでしまったなら、なんて考えるのだ。
足元には、薄らと月影が在る。その動きに合わせていると、突然に消えてしまった。見上げれば、厚い雲の層が、北極星と月を覆い隠している。
昔の人が言った、「月に叢雲、花に風。」
あぁ、そうだ。これはきっと、それだ。
僕のせめてもの愉しみを、自然が煩雑に奪っていく。
歩幅が乱れていく。
コンクリの外壁の長城を打ち切るように、コンビニエンスストアが現れる。
明かりに誘われる僕は、夏夜の羽虫だ。手動でドアを開けられることだけが、虫けらと違う。よく温まった店内は、マフラーと首の間に湿度を作る。今は真冬だけど、反転したっていい。このクサい年末の雰囲気が少しはマシになるはずだ。洒落っ気のために温度感を捨てたから、熱くなったって僕は大丈夫。今日くらいは自己中心的にいたい。
レジとは反対に弧を描くように、飲料のペットボトルを眺め歩む。
ホットスナックの棚を見た。
酷くすっからかんになった黒いスペースを、赤色灯が強く照らしている。隅には残骸のカスが点々としており、三段の虚しく空いた湯気の跡が、繁栄的な悲壮感を演出している。下の段にはまだ幾らか残っているが、イカも砂肝も気分じゃない。
「お取りしましょうか?」
奥の方から店員が現れた。白髪で長身の男性で、擦り合わせる左手の薬指には銀色の光沢がある。僕は聞いた。
「唐揚げって作ってないですか?」
「何のです?」
「鳥の。」
「あー、さきほど無くなったんですよ。」
「今から作れないですか?」
「今からですと、二十分ほどかかりますが大丈夫ですか?」
「じゃあいいです。」
ムッとした口調になったことを、言った後に気付いた。
白髪の男性の「申し訳ございません。」という返答に、少し後ろめたくなった。目を逸らしつつ、熱めの缶コーヒーだけを急いで買った。
コンビニを出るとき、微かに開いたドアの隙間から、尖った夜が吹きかかった。見ると、雪が降っている。牡丹の花びらを、一枚ずつちぎって落としているような。それが僕のコートの生地に乗って、十秒前後をかけて丸く溶けた。缶コーヒーの暖気にほだされている左手の甲に舞い降りたひとひらは、底冷えの空の静けさを持ち寄っている。次第に僕の身体に同情した雪は、雫混じりの薄氷になり、一つの単語に置き換える所の、霙になった。
コンビニの店先の投光が、液体の一番張った部分に反射して、あの駅の光電素子みたいになっている。
きっと、駅のイルミネーションは終わっているかもしれない。
ダイオードに慣れた目で、相手の顔が見えないうちに雹でも降ってはくれないか。
そんなことを、考えている。
雪が溶けるまで。
雪が溶けて霙になるまで。
溶けた霙が小川をつくるまで、「元」彼女への気持ちを抱え続けていよう。
今日は、何も上手くいかない。
そういう日は過去何度だって有って、今日より悲惨な日だって在った。定量的に比較しようとも、比較にならないくらいの差があった気がする。けれど、今日が間違いなく一番辛い。
神よ。貴方が本当にいるのなら、この街を白く染め塞いで下さい。人も物流も凍りつかせ、川も湖も氾がらせ、このトロ臭い鼓動を知らぬ間に止めて下さい。
主よ。貴方の生誕を祝す日に、僕は自身の急逝を貴方に願っている。この愚かで罪深い人間を、誰にも知らせずに消して下さい。
本気で願えども、誓って時間は凍らない。冷たくなった甘めの缶コーヒーとの対比が、鋭く痛かった。冷蔵庫の脇に眠る高めのワインの身包みを剥ぎ取り、弱った胃に無理やりに押し込んだ。明日のことなんて知らない。
肉と酔狂の晩餐を、二十八時まで続けよう。