《神聖王紋章印蒐集旅行記》
僕の名はジャック・ナメト。今日、旅に出ることにした。
最後の家族だった祖父が死に、僕の元には古びた手書きの地図だけが遺った。地図に描かれた26の文字、それが何を意味するのかすら僕にはわからない。けれど、これが何かを探すための地図だということ、それからこの地図を遺したのが僕の父だということだけは知っている。
祖父を看取り、家ごと焼いた。これで何も思い遺すことはない。僕は旅行用の重くて分厚い革のリュックサックに、好く研いだ長ナイフと、芋を蒸かしたお弁当、塩の入った鉄の小瓶、革袋の水筒、銀貨1枚と銅貨20枚の入った革の財布を詰め込んだ。これが僕の全財産だ。
僕は古びた地図を見ながら故郷コレインを出た。
僕は僕の冒険について、その一部始終を記録したいと考えている。例え地図の謎が解けなくても、きっと何かしらの発見があるはずだ。僕の人生はコレインで終わってしまっていたかもしれない。だから、故郷の位置すら知らない僕が、こうして冒険に出かけるということは凄いことだと思うのだ。
僕には見たことも聞いたこともないものが沢山ある。経験した例のないことをこそ、僕は目で見て口で味わい耳で聴き手で触れたいのだ。そのためにも、道中はお金も必要になるだろうし、そのために何よりも勇気が必要だ。世の中は戦争や疫病でどうかしているし、決まって不景気な時代だ。だからこそ、自分を守るための力もこれから鍛えていかなくてはならない。
だから自衛のためにも僕は何時か魔法と言うものを使えるようになりたい。今はまだ何が必要なのかすら暗然としているけど、それでも大きな町の本屋にでも寄れば、きっと好い答えが得られるはずだ。
あと、美味しいものや不思議な場所にも行ってみたい。行けるかは僕次第だろうし、食べ物を食べるのにもお金がいる。果たして僕はどんな仕事をしながら旅をするのだろうか。それだけでもワクワクドキドキする。
父が何故、この地図だけを遺して消えたのか、祖父は最後まで話してくれなかった。誰も彼もが故郷では僕たちを疎んでいた。けれど、誰にどれだけ聞いても返ってくるのは「不吉だ」の一言だけだった。どうして不吉なのか。何が不吉なのか。知りたくても、祖父はそのことを墓場まで持って行ってしまった。
となれば僕は僕自身の手で、僕や僕の家族が何故「不吉」だったのか、その答えを探しに行くしか他に手はない。自分のルーツを知るためにも、僕はまず最も近くにある大きな町、要塞都市ポワティエに行くことにした。最初の目標は…そうだなぁ、ポワティエで美味しいものを食べて、それから面白いことを見聞きして、そうした後でこの地図のことについて道行く人に教えて貰おう。
◇
ポワティエには無事到着した。道中は整備されていて、時折巡回の騎士もみられた。野盗に襲われることもなかったし、旅の初めにしては順調な道のりだった。お昼ご飯は途中にある大きな川…大平原を突っ切って流れてきていると立て看板に書いてあった…の脇にあった石に腰かけて、鉄瓶から塩を振りかけて食べた。半日歩いた後だったから、冷たくて硬いけど美味しかった。塩のしょっぱさが口中に染みるようでジンジンした。
川から水を汲んで水筒を一杯にしてから、僕はポワティエの検問に向かった。長い行列ができていたけれど、流れは早くて快適だった。暫くすると僕の番が来た。検問の兵隊はピカピカに磨き上げられた大きな盾を持っていた。腰の前あたりに真っ直ぐ下げられた剣と比べてなんとも不釣り合いな立派さだと思った。
兵隊は「どこから来た」と聞くので、「コレインから」と僕は答えた。すると兵隊は二度三度うむうむと頷いてから、「通行料銅貨10枚をいただきます」と言った。早くも僕の財布は苦しい思いをした。いやいや、勿論払ったさ。払ったけど…人生初の買い物がこれって…なんだか複雑な気分だった。
検問所を抜けると、アーチ状の巨大な門と、つり上げ式の分厚い鉄格子で覆われた木の門扉が僕を出迎えた。「あれ、開かないぞ」なんて言ってたら、さっきの兵隊に「小さいドアから入るんだ」と教えられた。よく見れば、大きな門の脇に小さなドアがあった。検問を終えた人たちは皆あそこから入って行くのだ。僕は少し恥ずかしい思いをしながらドアを通り抜けた。
ドアの向こうには僕が見たことのある村の中よりも、もっとずっと沢山の人がいた。立ち止まると後ろからくる人の邪魔になるからと、僕は歩きながらアッチをきょろきょろコッチをきょろきょろと見回した。
要塞都市と言うだけあって、ポワティエの町は大きかった。建物も普通の家でさえどこもかしこも均一の石で組まれていた。ずっと向こうの方を見ると、僕のいる市街地とは別に一回り小さな壁に囲まれた大きな屋敷の集まりがあって、その更に向こう…多分町の中心…に鈍い色に輝く塔があった。
僕は町の中を探索して、それからあの、鈍い色に輝く塔について人に聞いてみることにした。
僕はお腹が空いたし、今日の寝床も探さないといけない。その為にもまずは探検だ。
それから半日かけて僕は町の中をぐるりと一周した。鍛冶屋というものは今日生まれて初めて見たし、本屋もあった。…本が鉄の箱に入れられていて、更に鎖で繋がれていたのには驚いたけど…。パン屋さんは僕の村のパン焼き窯のおじさんよりも親切だった。銅貨5枚でお腹いっぱいになる大きなパンが買えたのだ。これは嬉しい誤算だった。日がとっぷりと沈むころになって、ようやく僕は満足した。
満足したのだが…それと引き換えに、僕は寝床を探すのを忘れていた。まだ昼間買ったパンがあるから空腹じゃないけど、いくら治安が好さそうだからと町の街路で寝たんじゃあ、盗ってくださいと言っているようなものだ。そうでなくとも衛兵から怒られてしまう。怒られるのも意地悪されるのも御免だった。
僕は悩んで、まだ明かりのついている宿屋っぽいお店を片っ端から尋ねることにした。
でも、全然うまくいかない。みんな夕飯を終えて寝るときになって厄介ごとは嫌なのだろう。流石に無理かな…そう諦めた時だった。
◇
「あーあ…塔のことも聞けなかったし、おまけに寝床もないや」なーんて僕が呟いた時だ。
「貴方も塔に興味があるの?」と声を掛けられたのだ。
振り向くとそこには黒い頭巾で顔を隠した、全身黒尽くめの人影があった。声は女の人のものだった。僕よりも背が高くて、足先から頭の先まで抜き身のナイフみたいでスラっとしていて強そうだ。
驚いた僕が物盗りかと尋ねると、彼女は笑って言った。「物盗りではあるかもね…でも、そこらへんのコソ泥と一緒にしないで。私が欲しいのは不思議な宝物よ?お金や宝石にはそそられないわ!」
不思議なお嬢さんだと思った。僕が警戒を解けずにいると、だんまりの僕に彼女が言った。「ねぇ、宿がないなら私のところに来なさいな。貴方の手にあるその…地図に興味があるの。それとさっきの呟き…塔に関しても。どう?悪くない提案でしょう?貴方は宿が手に入る。私は好奇心を満たせる。」
この人は案外好い人かもしれないと思った僕は、「じゃぁ、よろしくおねがいします」と頭を下げた。
彼女は「さぁ、決まれば早いわよ。こっち、ついてきて!」と言うなり、僕の方を振り返らずに走って行ってしまった。僕は足の速い彼女のあとを追うので精一杯だったけど、それでも彼女の泊っているという宿に辿り着いた。
◇
彼女の宿屋は『フィンの鎧亭』といって、ポワティエでは有名なチェーン店の第3号店だった。僕はそんなことも知らないのかと呆れられるかと心配したが、杞憂だった。彼女は自分の知っている知識を人に分け与えることに喜びを見出す人のようだ。僕の「なぜ?」にも倦むことなく快く答えてくれた。ただ、一度火が付くと脳が擦り切れて疲れるまで話し続ける性質みたいで、そのせいで僕は碌に寝かせて貰えなかった。
「…それでね、フィンっていう人がこの要塞都市の最初の王様だった人らしいの。私の見立ててではあの塔に、神聖王紋章印が遺されていると踏んでるんだけど…君のその地図にはなんて書いてあんのさ!ね、ちょっとだけでいいから見せてくれない?約束したじゃん!」
部屋の中でも黒尽くめの彼女に迫られて、根負けした僕はその「神聖ないたらかいたら」について何の説明も受けないまま、自分の地図を彼女に見せてしまった。
「これって…ねぇ、君、これって幾らで売ってくれる?」
彼女は突然そう言いだした。僕はすぐさま「無理だ」と答えた。
すると彼女は血相を変えて僕に飛びついてきた。
「君にはこの地図の価値が理解できているのかいッ!?こ、こんなもの!私が死ぬまでに叶わないと思っていた夢が叶ってしまうような代物を、どこで!!」
彼女にがくんがくんと体を前後に揺らされて、眠気が覚めた。きっとこの時の僕は眠たくて血走った目だっただろう。
僕は彼女に答えた。「父の形見だ」と。
すると、流石に気が引けたのか「そ、そうかい、悪かったよ」と言って放してくれた。
けれど話はそこで終わらなかった。なんと彼女は突然頭巾を脱いでしまったのだ。
頭巾をとってから彼女は言った。
「これで私は君に一つ、たった一つしかない秘密を明かしたことになる。だから改めてお願いしたい。どうか君のその地図を私に譲ってくれ。」
頭巾をとった彼女は確かに彼女だった。透き通るような白い肌に、金色の瞳、昇天する光を溶かし込んだような白金の短髪。どこをとっても美しい、黒とは真逆の彼女。けれど、違うところが少しだけあったのも事実だった。彼女の頭には青い光を纏った白い角が寝ていた。彼女は伝説でしか聞いたことのない、所謂竜人の末裔だった。
けれど、そんなことをその場で理解できるはずもなく、僕はテンパってしまった。
「え、え、き、君は人間じゃないのかい?」なんて情けなくも腰を抜かして聞いてしまったのだ。
でも、彼女は意外でもないようで、「皆そういう反応をする。でも、少なくとも君は悪人じゃなさそうだからな。こうして姿を見せたというわけさ」と言ってくれた。
ここまで言われたら、流石の僕も自分だけ秘密を隠し持っておくことなんて出来なかった。役に立つかもわからないものだけど、大事なものであることは確かだ。だから譲ることは出来ないけど、見せてあげることくらいはできる。そう思って、僕は地図を差し出した。
地図を受け取った彼女は「ふむふむ」なんて言って、それから「素晴らしい!君の父君は前人未踏の領域に達したのだ!」と快哉を叫んだ。
夜だというのに遠慮がない。けれど、そういわれると僕もそんな気がしてきた。
僕がそろそろ我慢できなくなって、「ねぇ、どこの何が凄いのさ。その神聖ないたらと関係あるの?」と聞くと、彼女は首をミミズクみたいにぐりんっと僕の方に凄い勢いで向けると、肩を捕まえて目の前で言った。
「大ありだとも!というか、この地図に描かれている印こそ、神聖王紋章印…私の探し物の在り処を示す極めて重要なものなのだ!」
それから今度は賢そうな眼鏡をどこからともなく引き抜くと、目元にスチャッと装備して解説しだした。
「いいかい?そもそも神聖王紋章印というのは古代に失われた権力の象徴なのだよ。神話によれば古代には三種類の神が存在した。私たちの暮らす世界を統べる玄界の神、私たちの暮らす世界とは別の世界を統べる異界の神、そしてどこの世界も統べていない素界の神。その昔、この世界を異界の神が襲った。異界の神の目的は自分の世界と私たちが暮らす世界の統合とも、元の世界が壊れたから引っ越してきたとも諸説ある。しかし、この異界の神により玄界の神…私たちを造った神が死に、世界に暗黒時代が訪れた。新たな創造主により、それまで存在しなかった種族が生まれた。それが私たちのような竜人や魔人、一般に魔族である…或いは、逆に人間である…ここは宗教により異なるね。ともかく、それまでになかったものが生まれ、様々な言葉が氾濫した。世界は荒れ果て、もはや限界だった。」
彼女はそこで一度言葉を切ると、地図を僕に返してくれた。
「いいかい?君の持つ地図に描かれたアルファベルタはね、今私たちが当たり前に使っている言葉だ。文字だ。そしてその大本が、26人の王たちだった。ありとあらゆる種族の王が自発的に集まってある日、異界の神によって生み出された言葉に戦いを挑んだんだ。彼らは戦いに勝ち、世界は一つの言語で統一された。そして、最も古く王の力を強く受け継いだ者に、或いは試練を乗り越えた者に継承されるように、彼らは各々の頭文字を言語の母体にしたんだ。言葉は力を持ち、言霊は願望を実現し得る。強力な武器にも、誰かを守る盾にも成り得る言霊。その継承に必要なのが、私が言った神聖王紋章印なんだ。」
そして彼女は初めて自身の目的を僕に明らかにした。
「私は私の故郷に行きたい。私のルーツを辿り、それが青雷山脈にある竜の谷であることは突き止めた。けれど、大陸北西の果てにある青雷山脈に行くにはどうしても、残り21個の神聖王紋章印が必要なのだ。」
「だから、どうか私と一緒についてきて欲しい。願わくば眷属として、私の旅に君の地図を生かさせてくれ!危険であることは言うまでもない。だが、この日こうして出逢えたのは何か運命のような気がするんだ!だから頼む!私と一緒に来てくれ!」
突然の懇願だった。僕にはまだわからないことばかり。眷属って何?26個じゃなくて21個で好いのは何で?危険って具体的にはどんなことをするの?…聞きたいことはたくさんあった。なんで僕なの?とかもね。
けれど、僕は今、どうしようもなくワクワクしていた。自分と言う、今日まで何も知らなかった凡人が、故郷から出たことさえなかった人間が、今や何か大きな流れを前にしている。その流れを、彼女の行く末を決めてしまうかもしれないという、分水嶺の船頭になったのだから。興奮と恐怖。でも、僕の場合は興奮が勝った。後から後悔してももう遅い。そんなことは分かってる。でも、こうして出逢ったことが何かの縁だと感じていたのは僕だって同じだったのだ。
だから僕は言った。
「勿論。丁度僕も一緒に旅をしてくれる人を探してたんだ。」
そう言って、僕は彼女の提案を受け入れた。僕の中で何かがしっくり来たような気がした。
◇
更に詳しく彼女に話を聞くと、色々なことが分かった。先ずは名前。彼女はメルセデスと言うらしい。なんでもメルセデスは初代青雷山脈の主であり、伝説の竜王の名前に肖って付けられたらしい。だから、彼女の名前はアルファベルタのMの神聖王紋章印と一致するらしい。自身の名前の頭文字のアルファベルタに宿された言霊と合致する神聖王紋章印を王の権力と共に継承するということが古代に取り決められたらしいが、もう現代では形骸化していて、今の王のほとんどは実力や多数決で決められているらしい。とはいっても、必ずしも継承者が王になるというわけではなく、王になる権利を有するだけなのだというのが彼女の言い分だった。
結構適当な古代の王様のことはおいておくとして、メルセデスは自分の故郷のどこかにある自分のご先祖様…竜王メルセデスの神聖王紋章印を継承することが、自分のルーツを知る、延いては何故竜人が衰退したのかさえも解き明かす鍵だと確信しているらしい。
僕には彼女が正しいとも、間違っているともわからなかった。けれど、ともかく旅の目的は単純明快なのが一番だ。僕は彼女に当面の目的を聞いた。
「さっき、21個の神聖王紋章印を集めるって言ってたけど、それを集めてどうするの?というか26個じゃなくていいの?簡単に集められるものなの?あと、結局あの塔はなんなんだい?」
僕の質問に彼女は順に丁寧に答えてくれた。
「いいかいジャック?まずどうして集めるのかだけれど、君に話した通り、私は青雷山脈に行きたいんだ。でも、そこには凶暴な竜や魔物がうじゃうじゃいてね、とても一人では辿り着けない。だから、君のように私の旅に付き合ってくれる人を探して旅をしながら、その人たちの中から少なくとも七人は神聖王紋章印に適合する人を見つけなくっちゃならない。だから集める理由は、強力な力を持つ適合者をかき集めて、そのあとで安全に山に登るためだよ。」
「次に数に関してだけどね、未だかつて青雷山脈にある一つ…竜王メルセデス…と大陸中央にある大廃坑にある二つ…浄王アルノと機王ブラッカム…を継承した者はいないんだ。そもそも大廃坑は強力な毒水銀の膜に覆われていて立ち入れない。最後の…26番目の神聖王紋章印に関しては、いくら探しても情報がなくってね、きっと欠番か或いは「新たな王を待つ」って言う隠し要素か何かだよ。ともかく、集めなくちゃいけない王印は21個だよ。」
「次は簡単に集められるかだけど…もう言わなくても分かるね?大冒険に次ぐ大冒険が必要になる。勿論死ぬかもしれないけど…同じ船に乗った仲間だ。精一杯君のことは守ってあげるよ。」
「そして最後は塔についてだけど…これから行ってみれば分かると思うよ。説明するより何倍もハッキリとね。」
そう言った彼女は「今日はおしまい。また明日ね」と言って先に寝てしまった。
僕は結局、あと1個、神聖王紋章印が足りないんじゃないかと聞けないまま、もやもやした気持ちで眠りについた。
◇
翌日、宿をチェックアウトして直ぐに、彼女は僕の腕を引いて塔に向かった。あの鈍く輝く巨大な建物がグングン近づいてくる。衛兵に銀貨を握らせて…彼女はお金持ちだった!…塔の中に入れてもらった。
大きな塔の中は、空っぽだった。ただ、天井が馬鹿みたいに高い塔だった。全てが黒錆びに覆われた鉄で出来ているっていうから何かが凄いのかもしれないけど、僕にはその凄さがさっぱりわからなかった。
僕が天井ばかり見上げていると、彼女が何か本のような物を持って帰ってきた。それは何?と聞くと、「御聖印帳さ!」と返ってきた。何に使うんだろう?と疑問に思っていると、彼女がおもむろに塔の中心に向かって行き、その御聖印帳とやらを開いて、真っ新な面を床に押し付けた。
変なことをしているなぁ、なんて思っていたら。
彼女は呪文のようなものを口遊み始めた辺りで空気感が変わったのがわかった。
「人間族の英雄にして、要塞都市ポワティエの王フィンよ。守護を司る聖騎士、盾王フィンよ。汝の真名はフィン=ポワティエ。汝の真名は我が手にあり。汝が誉も我が手にあり。我が名はメルセデス、汝の聖名を継承する者なり。|神聖王紋章印よ来たれ《Comme・De・La・Sacro=Sign》!」
メルセデスが祝詞を切ると同時に、塔の中を白く濁った霧が満たした。一瞬の出来事に動けずにいると、霧の中から立派な盾を携えた男が出てきた。メルセデスは恭しく跪き、首を深く垂れて拝礼している。男がメルセデスを、次に僕を見たのでメルセデスを真似て礼をすると、男は無感情に歩き出した。
メルセデスの前に立った男は霧の中から盾を二つ取り出すと、口を開いた。
「汝らは我の子に非ず。しかし、よくぞ我が真名を見破り、我が神殿へと辿り着いた。よって褒美を遣わす。」
「守護の臣印を受け取るがよい。」
男はそう言って僕たちに光り輝く盾を押し付けた。
瞬間焼けるような感覚が腹の底から湧き上がってきた。もがき苦しみながら、僕はのたうち回り、服を脱ぎそうになった所で目が覚めた。
僕は塔の中で眠っていたらしく、隣にはメルセデスもいた。彼女も眠っていたようだ。
夢だったのかと思っていると、目を覚ましたメルセデスが歓声を上げた。僕に例の御聖印帳の一頁目を見せつけながら興奮した面持ちで言った。そこには確かに見覚えのないFのアルファベルタを象った盾の紋章が刻まれていた。
「ジャック!見ろ!これが一個目の神聖王紋章印、盾王フィンの臣印だ!」
またわからない言葉が出てきた。なんだいその、プロないたらってのは?
僕が聞くと、メルセデスは満面の笑みで語ってくれた。
「適合者以外に与えられる神聖王紋章印が臣印だ!適合者に与えられる王印に比べて言霊の力は弱いが、それでも十分強力だ。それに、重要なのはこの適合者に出会えば、相手に御聖印帳に描かれた紋章を押し付けることで王印を発現させることができるってことなんだ!フィンもそうだが、古代の王たちは自分の後継者をいつどこで見つけられるか分からないことを理解していたからこんなシステムを作り上げたんだ!きっとそうに違いない!」
高度なシステムだってことは理解できた。でも僕にはなんの変化もなかった。
僕たちは衛兵に挨拶してから塔を出た。出ていく間際、心配になって衛兵に尋ねたところ、お金さえ払えば塔に出入りするのは自由なんだそうだ…メルセデスが僕を脅かすから、てっきり悪いことをしているのかと思った。あの御聖印帳もポワティエの城下町では普通に売っている物らしい…なぁーんだ、神聖とかって仰々しいから勘違いしちゃったじゃないか…。
◇
宿に戻るころ、力がどうだっていうんだ、と言いたくなったが黙っていると、僕の疑わし気な視線に気が付いたメルセデスが笑った。
「さぁ、最早ことは済んだことだし、君の昨日の疑問も解けたと思うけど…まだ、気になる事でもあるのかい?」
紋章の一個目は数えるまでもなかったってことは理解した。でも、その言霊ってヤツがどこまで本当なのか納得できなかった。
その旨を彼女に伝えると、彼女から笑われた。
「ハッハッハッ!確かにその通りだ!よし、折角だしここいらで一度見せておくことにしようか。」
そう言ってメルセデスは僕を宿屋の前で待たせたまま、一人昨日泊まった二階の部屋に向かった。
ベランダから身を乗り出した彼女を心配して声をかけると、彼女は悪戯っぽく微笑んで、ベランダから仰向けのまま高く跳びあがった。あそこから落ちたらタダじゃ済まない。骨を折るか、最悪死んでしまう。
「あぁーーーーーーッ!?」
あれじゃぁ受け身も取れないじゃないか!!
受け止めるにも彼女の方が大きい。下敷きになるつもりで飛び出そうとした時だった。
僕の心配を他所に、彼女は朗々と言い放った。
「私を守れ!!盾王フィン!」
次の瞬間目に見えない壁のようなものに阻まれて、彼女の落下が止まった。クッションに受け止められたように、道路にぶつかる寸前で停止し、そこからゆっくりと降下するメルセデス。何かが弾ける音と共に、完全に大地に仰向けに寝た状態でメルセデスが倒れていた。
彼女の「守れ!!」の声が幾重にも反響して僕の耳に届いた。
何が起きたのかわからなかったが、少なくともメルセデスは無事な様で好かった。
仰向けで寝たままの彼女に駆け寄ると、彼女はガバリと体を起こすと、頭巾越しにも伝わる興奮の面持ちで言った。
「見ただろう!これが言霊の力だ!臣印ですらこれなんだ!王印だったら破城槌だって受け止められる!!より強く!より長く作用するはずだ!これが…最弱と言われるフィンですら…これが神聖王紋章印の力…なら、最強と言われる私の、竜王メルセデスの王印だったら…。」
夢現のメルセデスになんと声をかけるべきか戸惑っていると、町では誰かが衛兵に人が落ちたと通報したようで大騒ぎになっていた。
人垣が造られ始める段になって、メルセデスはハッとした面持ちで言った。
「しまった!御聖印帳に刻印するのは合法だけど、街中で使うのは違法だったのを忘れていたよ!!」
「なんだってぇッ!?でも、僕は使ってないから大丈夫なんじゃ!」
「いいや、君も一緒に塔に入ってしまったからね、同じ御聖印帳に刻印されている被加護者は連座で同罪だよ。」
「どどどどどうするんだい!!」
僕は自分が犯罪者になってしまうという恐怖でおかしくなっていた。荷物をまとめて逃げる準備をしていると。メルセデスは僕の顔を覗き込んできた。
「私を売ろうとは考えないんだね?」
そんなこと考える訳がない。折角できた旅の仲間を売るだなんてそんな。
「ふふふ、好いね。改めて君のことが気に入ったよ、ジャック。」
「こんな時に何言ってるのさ!」
「ふふ…愉快だよ!あぁ、感謝します盾王フィンよ!貴方のお陰で私は運命の伴に今日出会えたかもしれない!」
「仰々しくお辞儀なんてしてる暇はないんだよ!?」
僕は酔っぱらった村の大人みたいにふにゃふにゃのメルセデスの手を引くと、衛兵に気付かれる前に駆け出した。
◇
町の外に出ることが出来て、やっと一息吐くころにメルセデスは調子を取り戻した。
「ポワティエは飛び出てきちゃったから暫く寄れないし…ねぇ、次はどこに行くの?」
僕が次の目的地を尋ねると、例の地図を見ながら思案顔のメルセデス。彼女の視線はポワティエから東に行ったところにあるクロス教国の教都ポポで固まっていた。
「ポポに行くの?ここからは結構遠いけど…。」
僕が言うと、メルセデスは首を振った。
「…いや、行かない。今はまだ力が足りないからな。」
そう言えばクロス教は反魔人だったっけ。そのことで行きにくいのかな?
「じゃぁ、どこへ?」
「…一番近い神聖王紋章印の神殿は…大平原の神殿だな。」
「このBってやつ?」
僕が指さすと、メルセデスは静かに頷いた。
「そうだ…次の目標は大平原の王、角王バルトロの紋章だ。」
「となると都市は…平原の都市国家カウル…ここから少し、大体2リーグ…二日南東に進めば着くな。」
こうして僕達は第二の神聖王紋章印を求めて都市国家カウルに向けて歩き始めた。