2.『プロローグ』
意味がわからない。ありえない。はっきりいって頭がおかしい。つい数時間前の出来事をなかったことにしたくなるくらいには認めたくない。普通だったら死んでる。出発して半日もたたずに海の藻屑となりましたとか冗談にしても質が悪い。
濡れた服が体に張り付いたまま寝転がって多少乱れた息が整うのを待つ。月はもうすっかり傾いている。
「……、………。」
「……お疲れ様、です」
「………ほんとだよ」
久しぶりに感じる疲労感とそれが落ち着いていく感覚にどことない心地好さと懐かしさ、少しの嫌悪感を覚えながら体を起こす。
「で、何で小舟一隻しかなかったわけ?ていうかお前どうやってきたの?」
水平線の向こうに見える孤島を眺めながら聞く。さっき渡ったときは一際波が強かったが、普段であってもこんな多くても4、5人しか乗れないような小舟で渡るとか正気の沙汰じゃない。ていうか頭おかしい。
舟が沈まなくても手こぎするような距離じゃない。
「……帰りのことをすっかり忘れてまして」
もはや何も言えなかった。
孤島の監獄から囚人を連れ出すことも謎だが、地続きになってない場所に行くのに足の一つも用意してないってどういうことだ。ホントに行きはどうしたんだ?
「くしゅん」
結局一回落ちたし。二人揃ってずぶ濡れだ。俺はともかく、なんで濡れ鼠のまま突っ立っているんだか。
「はやく服絞って少しでも水分落とせよ。風邪ひくぞ」
「え……、あ、そうですね」
旅に出るというにしては行き当たりばったりすげるというかなんというか、違和感を感じながらも、大人しく服の端を絞って水分を落とし始めたの見て、まぁいいかと思う。所詮は護衛だ。
「さて、と」
立ち上がって、シャツを脱ぐ。適当に絞ってから腕に結んでつける。
「じゃあちょっと森に行ってくるから、ここで待ってろ。何かあったら大声で呼べよ。あんま遠くまではいかないから」
「……うん」
ぼんやりと海を眺めている姿を見て、話を聞いているのか少し不安に思う。生返事だったし。
……まぁいいか。
森へと入っていくと、海からの潮風が遮られて途端に空気が変わる。
久しぶりの自由だからか、肌の露出が多いからか、感覚が鋭くなっている気がする。空気を、木々を、自然を、世界を全身で感じているような一種の全能感じみたものすら覚える。
そして、生き物の気配も。
短剣を抜き、掌を切る。多少の痛みを感じながら、切った左手が問題なく動かせることを確かめ、歩きだす。
森の中を円を描くようにしてあまり奥まで進まないようにしながら、焚き火用に木の枝を集めていく。もうすぐ一周、といったところで勘に従って立ち止まり、荷物を手放す。
「スゥー、ハァー」
軽く、小さい足音。空を切る音。耳を済ませれば、辺りから聞こえてくる。肌がひりつくような感覚。心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。少しずつ少しずつ沈んでいくように意識が没入していって、時間の感覚も曖昧になって────
「オォォォォーーーー」
前方から姿勢を低くした狼が踏み込んでくる。遠吠えが聞こえるのは後ろ。少し遅れたタイミングで左右からも飛び出してきた。
一歩踏み込み左足で前の狼を蹴り飛ばす。そのまま右足を軸足に勢いのまま体を反転し振り返る───と、すぐ眼前に大きく開いた狼の口が迫っている。上体を後ろに倒しつつ左手で殴り飛ばす。そのまま後ろに転がり左右からの攻撃を躱す。勢いのまま一回転して起き上がり、前に踏み込む。再度飛び掛かってきた狼の片方をかわし、すれ違い様に反対側の手で首を掴み、回転しながらもう一匹を裏拳で殴り飛ばして掴んだ狼を地面に叩きつける。
そして、抜いた短剣を振り下ろす。鈍く、生々しい音とともに断末魔の声をあげて絶命した。
久しぶりの生命を奪う感触だった。
「「「アオォオォォーーーー」」」
複数重なってきこえる遠吠え。音も気配もバラバラに遠ざかっていく。
「血はさっさと抜いておくか」
仕留めた狼を一頭担いで歩き森から出る。そう入ったところから遠くない位置にでたようで少し見渡せば少女の姿が目にはいる。
「戻ったぞ」
そう声をかけながら近づく。返事はない。今さらながらにこんな奴の護衛を引き受けたのは間違いだったかと思う。何を考えているのか分からないし、何者かもわからない。そもそも怪しすぎる。
なぜ、なんで、なにが、どうして。
目の前でただ水平線の向こうを眺めている少女が、なにか得体のしれないものに見える気さえする。風に靡く長い髪、整った顔立ち、どこか作り物めいたその"きれいさ"がそれを助長していく。
心の何処かで、誰かが否定する。この選択を、行動を。そして、囁く。今ならまだ間に合うと。殺してしまえ。そうでなくともこの何も知らない少女を、一人ここに置いていけば晴れて自由の身だと。ただそれだけで、気楽に一人で生きていけると。
「ねぇ、みてみて」
そんな事を考えていると、こっちに気づいた目の前の少女が、そういって小走りで寄ってくる。そのまま腕を掴んで、元いた場所まで引っ張られる。考えていたこともあって、なすがままにされていると、
「ん」
と、立ち止まり水平線の方を指差す。
暗い海。白んできた空。
指した先を見ても特におかしなものも、珍しいものない。
「なにかあるのか?」
「朝焼け」
「違う。日の出」
そう言い直す。疑問に思った瞬間、太陽が水平線から姿を現し始めた。
…まぶしい。
「…………ぅわぁ」
幽かに感嘆の声が聞こえた。
隣を見やれば、日の出を一心に見つめている姿があった。朝日を受けるその姿は、やはり不気味なほどにきれいだった。
だけど、その表情は、その振る舞いは年相応のものの様に見えた。
「……確かに綺麗だな」
「うん」
だから、別にいいのだ。どうせ、目的もない。理由もない。だったら、この少女に付き合ったっていい。そこにはきっと価値がある。意味がある。
「そろそろ行くぞ」
無言の抗議。
「これから旅をするんだろ。日の出を見ることだってあるし、もっと綺麗な景色を見ることもある。いつまでも、一所に留まってるわけにもいかないだろう?」
「…………」
少し悩んだあと、
「じゃあ、もうちょっと」
そう答えた。
「はいはい」
少しだけ懐かしかった。
■■■■
パチ……パチ…、と焚き火の音がする。まだ暗い中不規則に揺らめく炎は、どこか吸い込まれそうな怪しさを放っている。昔はこの音が、この時間が好きだったのに、今ではそうでもない。
「…ねぇ、それは何ですか?」
「ん?ああモンスターだよ」
少しくすんだ毛色をしている狼を手元で解体しながら答える。
「それ、どうするの?」
「飯」
「……食べれるの?」
「もちろん」
「本当に?普通の人でも?」
疑り深いな。
「食えるって。もちろん食ったらヤバい種類とか部位もあるけど、それは普通の動物と変わらないよ」
ちょっとめんどくさくなってきた。
もの珍しそうに手元を見つめているのを何となく感じていると、ふと、ああ、と納得する。
そういえば、モンスターなんてほぼ絶滅危惧種の希少種のことをちゃんと知ってるのは少数派だったか。言葉自体はそこそこ知られているのに不思議に思った覚えがある。
「これはペンタグルフっていうモンスターだ。見ての通り大概一色の体毛で覆われている。毛色は何種類かあって、たまに2色の奴もいる。といっても何が違うのかは分からないし、こんな色をしている理由も不明。ようはほとんど何もわからないってこと」
の心臓に埋まっていた小さな石を摘まんで取り出し、見えるように掲げる。
「んで、これが魔石」
「ませき?」
「そう。これは食えない。いや、食わない方がいい、か?まぁとにかくこれ食って死んだ奴がいる」
「ダメってことじゃないの?」
「ところが致死率が微妙に高くない。4割前後ってところだ。半分はいかない。ちなみに魔石の何が悪いのかも分からない。食った奴も少ないだろうけどな」
「じゃあそれゴミ?」
「いんや、モンスターの数の少なさに加えて、モンスターを狩る人数が少なくて市場にあんまり出回らない。だから、一種の宝石みたいにアクセサリーにする貴族とかがいる。あとは種類とか個体とかで結構差があるから、収集家とか研究目的で集めてる物好きもいるらしい」
「お金になるの!?」
急に食い付いてきた。少しばかり姿勢も前のめりになってる。
「ま、まあまあってところだ。なんせ、用途不明の上に正体不明と来てるからな。そんな怪しいもの、一部の特殊な層しか欲しがらないさ」
「ふぅーん」
「そもそも、魔石どころか、モンスターのことも知らない奴も結構いるんだ。普通に暮らしてる奴等はとくに。お前もそうだったろ?」
「え?…あ、うん…そう…かも」
「?場合によって毛皮は高く売れるから」
ちょこちょこ歯切れ悪いな。
切り分けた肉塊を拾っておいた適当な枝に突き刺して焚き火で焼く。
肉の焼ける匂いが辺りに漂う。焚き火の音、肉の匂い、この2つだけが空間を満たす。
静かで少しばかり心地いい時間が緩やかに流れる。
「さて、そろそろいいだろ」
焼けた肉を差し出す。受け取りはするが食べ始めない。
少しため息をついてから自分の分を食べ始めると、同じように口をつけた。
「…おいしい」
「そりゃ良かったな」
ぶっちゃけモンスターの肉はうまい。理由は知らんが、下手な高級肉よりよっぽどうまい。当然、種類や個体差もあるが。
「これ食ったら寝ろよ。明日は昼頃に出発するからな」
「うん」
たまに質問はあれど、言うことはちゃんと聞く。存外大人しかった。
なんてことを思っていた。
「はぁ」
荷物から毛布を取り出してかける。
食べていた場所にそのまま転がって寝やがった。護衛じゃなくて世話係だったのかと疑問に思う。まぁいいか。
焚き火の向こうで眠っているのを眺めながら考える。
目の前のつくりもののような少女が求めたのは護衛と人助け。誰を助けるのかはきっと彼女の判断だろう。余計なことを考えなくてもいいのならちょうどいい。それに、できるかどうかでいえばきっと出来る。大きな戦争も起きていないここ数年の時勢の中なら、たいした障害はない。モンスターは相も変わらず絶滅の一途をたどっているだろうし、強力な奴は動かない。というか基本的に人間なんかにたいした興味は持っていないだろう。問題は人助けの方だ。この得体の知れない少女が、何をとち狂ってそんなことを考えたのかは知らないが、人を助けるのは簡単じゃない。とくに、余所者には。
「あー、わっかんねぇ」
約束してしまったのだし、やりはする、んだけど。何がしたいのか、何をするのか、どうすればいいのか。
「はぁ」
思わずため息をつく。怠けすぎたのか、考えは纏まらないし妥協点も見えない。
もう、すっかり明るくなった空を見上げる。
『目の前の人が、笑顔になれるのなら。周りの人が、一人でも多くしあわせで笑っていられるなら。それはきっといいことだと思わない?』
……いいか。考えるのはやめよう。どうせそんなに得意じゃない。相手が悪人でないのなら、手は差し伸べるし、必要な事なら、やる。それだけだ。
そういう風にしてきたし、そうそう変えられるものでもない。できることなど、限られているのだから。
■■■■
何の前触れもなく、音もたてずに少女が上体を起こした。正直怖い。というか動作自体はおかしなところがないのに、とてつもない違和感を感じるのがすこぶる気持ち悪い。なんかもう言葉もでなかった。正に、人形といった感じの動作にしかみえない。
「おはようございます」
「……うん、おはよう」
正座へと移行し、身体をこちらへ向けて、挨拶をする。正座のまま、地へつくほどに頭を下げている。やりなれているかのように丁寧で、きれいなお辞儀だった。
「とりあえず腹にもの入れたら出発するぞ」
「うん。わかり…た」
ぼんやりしていた目に少しずつ意思が混じり始めた。たってなんだろう?敬語やめてため口にしたのか?
食事をして、片付けたら出発した。
相も変わらず、鬱蒼と木々が生い茂る森の中。もうすっかり高くなった太陽から降り注ぐ光が、視界一面の葉の所々で反射し、煌めいている。当てもなく、今いる場所もわからず、二人並んで歩き続ける。互いの足音と邪魔な木の枝を振り払う音、時折吹く風に、揺れる梢。異常もなく、静かな空間に限られた音だけが、不規則に存在を主張する。
「なぁ」
声を掛ければ、返事はなくとも顔がこちらをむく。
「そういえばなんだけどさ」
いっそ退屈ともいえるかもしれない、穏やかで、緩やかな時間の中でとめどない思考が空回りする。
そんな時は、
「これ、どこにむかってるの?」
「知らない」
漠然と迫り来る"なにか"を感じ取っているのかもしれない。
「地図は?」
「私は持ってないよ?」
疑いようもなく、先は真っ暗だった。