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美織 1

 気がつくと鏡の前に座っていた。

 可愛らしい、子供用の淡いピンクのドレッサーである。三面鏡で丸まった猫足が可愛らしい、ロココ調のデザインだ。

 今居る部屋もそのドレッサーに相応しい、少女趣味な内装でまとめられていた。


 鏡に映っているのは五、六歳の少女だ。

 真っ直ぐな黒髪を腰より長く伸ばし、幼い中にも凛とした雰囲気を漂わせるその顔立ちはどこか見覚えがあった。


(もしかして美織?)


 香代は少女の内側から外を見て、そう思った。美織からの返事はなく、彼女は一生懸命自分の髪を梳かしている。

 髪が綺麗に整うと、次は四苦八苦しながらふたつに結ぼうとしていた。


(自分でやってるなんて偉いなぁ)


 まだ保育園くらいの年頃だ。

 その頃の香代は髪のことはすべて母親任せで、毎朝鳥の巣を頭に作っては母を泣かせていた。


 これは多分、美織の過去だと悪戦苦闘する幼い美織を眺めながら理解した。

 体は美織のものなので、彼女の記憶くらい見るだろう。

 しかし、他人の記憶を勝手に覗くというのも気まずいものがある。


 早く目覚めてくれないかと思っているうちに美織はやっと納得いく髪型にできたようで立ち上がった。

 今度は自分の体を見下ろし、モノトーンの上品なワンピースの皺を伸ばしている。

 ドレッサーといい、ワンピースといい、かなり上等な品に見えた。この年にしてひとり部屋を使っているようだし、美織はかなり裕福な家庭で育ったらしい。


 鏡で背中側までしっかり確認すると満足したのか部屋を出た。

 軽やかな足取りで移動する。鼻唄まで歌って上機嫌だ。

 美織の部屋は二階にあったようで、軽快に階段を降りていく。


 くるり、と手すりを支えに踊り場を通過し、階下が見えたところで、慌しい足音に気づいた。

 思わず立ち止まった美織の、目の前にある一階の廊下をふたりの男女が足早に通り過ぎる。

 美織はふたりのあとを追った。


「おとうさん、おかあさん」


 そう呼びかけるがふたりは振り返らない。

 白くて広い玄関で忙しなく靴を履いている。

 よく見ると父親の方の腕の中に少年が抱えられていた。ブランケットに包まれているので顔は見えないが、苦しげな呼吸音が響いている。

 少年だけでなく、両親の顔もモザイクがかかったようになっていて見えない。


玲司(れいじ)の具合が悪くなってしまったから病院に行って来るわ」

「お前は留守番していなさい」

「まって、わたしもいく!」


 両親の声は壊れたスピーカーのようにひび割れた不快な音で、聞き取り辛い。

 なのに何故か自分の子供に投げかけるにはあまりに無機質なその言葉の意味はわかった。

 まるで間違えた答えをぐしゃぐしゃに塗り潰して消したように香代は感じた。

 なかったことにしても、塗り潰した下には間違いが残ったままだ。


 美織は自分で下駄箱から靴を取り出し履き始めた。

 ふたりはそんな美織に一瞥もくれず、返事もせずに出て行く。

 バタンッと扉が閉まる音や、甲高い靴音に紛れて小さな「みお……」という声が聞こえた気がした。


『ああ、玲司、可哀想に。病院に行けば楽になるからね』

『もう少しの辛抱だぞ』


 閉まった扉の向こうから遠ざかる足音と共に、音は不明瞭で不快なのに、優しさに溢れた言葉が聞こえてくる。


「れい……」


 ひとり置き去りにされた美織は呆然と呟き、視線はゆっくり下がり、視界が滲んでいく。

 押し殺したような泣き声が聞こえ始めて居た堪れなさが頂点に達した。


 これは間違っても香代が覗いてはいけない記憶だ。

 他人には隠す深い傷。それを垣間見てしまった。後ろめたい気持ちになるが、同時に納得もいった。

 美織は幼い頃からこうして傷つけられてきたのだ。


 彼女が自分の身支度が自分でできるのは、世話をしてくれる人がいないからだ。

 まだこんなに小さいのに、胸が痛くなる。

 間違ってもありえないが、もし香代の姪が同じ年頃になったとき、同じ目にあっていたら。

 全力で兄夫婦を殴って、誘拐だと訴えられようとも姪を香代の家に連れ帰る。


 美織の両親は一体何を考えているのだろう。

 体が弱いらしい玲司とやらは美織の兄弟だと思われる。

 その子を優先してしまうのは仕方ないが、それにしても美織に冷たい。彼女もふたりの子供なのにこの差はなんだ。


 美織はついにしゃがみ込み、顔を覆って泣き出した。

 視界は真っ暗になり、ただ泣き声だけが響いている。

 胸が掻きむしられるような悲しい音だった。

 しかし、香代が何を思おうともどうにもできないのだ。これらはすべて過去のことだから、美織はずっとひとりぼっちだ。


 暗闇の泣き声が少しずつ遠ざかり、はっきりしていた感覚も薄れていく。

 もうすぐ目覚めるのだと香代にはわかった。

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