王太子アサド
午前中、香代はファアルから様々なことを教わった。
今一番力を注いでいるのはこちらの言葉の書き取りだ。神の力によって話せるし読めるが書くことはできない。
日本語で書いた文章はこちらの人には読めないため、今後文字でコミュニケーションを取らねばならぬ場面を想定して字の練習をしている。簡単な文章くらいは書けるようになっておきたいものだ。
しかし、地球で見たこともない謎言語が香代からすると全部日本語に聞こえるし、読めるので頭が混乱してしまう。
そのため、書き取りは難航している。
出来の悪い香代をファアルは見捨てず根気強く教えてくれるのが救いだ。
ずっと字の練習だけでは集中力が続かないので、こちらの生活について教えて貰っている。
バドルの文化レベルは地球でいうところの中世よりの近世に近い。しかし、魔術があるからか、異世界人の影響か、歪に発達している部分もある。
例えば照明だ。
金属とガラスでできたアンティークな見た目なのだが、魔力で動作しており、部屋の中の明るさに合わせてついたり消えたりする。手動でも操作できるが、自動なのだ。
日本と変わらない部分と、やたらとローテクな部分を知るたびに何故そうなるのか、と不思議な気持ちになる。
あまり香代の尺度で測るのはよくないが、これは健全な文明の発展なのか、と裏側をほんの少し知っていると考えてしまう。
昼時には勉強を切り上げ、ふたりで食事を済ませ、午後からはトレーニングに励むことにした。
剣を振るといったやや危険なことさえしなければ彼女たちだけでもいいと判断したのだ。
毎日少しずつ、筋トレだけでもしないと一向に街から出られない。
動きやすい服に着替えて鍛練場に向かうと、見覚えのあるふたつの影が待ち受けていた。
「アサドさま! お帰りだったのですね」
「今帰った」
ファアルが駆け寄ったのは赤銅色の髪に琥珀色の瞳をした浅黒い肌の青年だ。
小柄なファアルより頭ふたつ分は背が高く、しなやかでありながら鍛えられた肉体を持つ。眼光鋭く、野生的な男前だ。
彼はバドルの王太子であるアサド。ターフィルと同じく補佐としてパーティに加わっている。
たいてい仏頂面をしているが、不機嫌なわけではない。愛想がないだけだ。
バドルでも有数の実力者で、魔物の襲撃があると先陣切って飛び出していく。
今朝の襲撃にも出陣していたのだろう。香代は全身をチェックするが、負傷らしいものは見つからなかった。
次にアサドの隣に立つ男に視線を移す。
「お帰りなさい。みんなにも怪我はないわね?」
「はい、お気遣いありがとうございます。数は多かったのですが、それほど強くはなかったので負傷者はいません」
「ならいいわ」
目覚めた時に現れたターフィルである。
最初のうちは丁寧なターフィルの態度に合わせて敬語だったのだが、面倒になった香代の口調はすっかり崩れている。
ちなみにアサドに対してもタメ口だ。この王子はそういうことにはまったく頓着しない。
「おふたりはこれから鍛練でしょう? ご一緒します」
「いや、帰ったばっかでしょ。休みなさいよ」
「あれしきの魔物相手では肩慣らしにもならん。問題ない」
「本当ですか? 無理はいけません」
「ほ、本当だ」
ターフィルと香代の会話に割り込んだアサドはファアルに見つめられて、そわそわしている。目もせわしなく動き、挙動不審だ。
「……やっぱり、様子が変です。お休みしましょう、アサドさま。わたくしたち、無理はしませんから見ていてくださらなくても大丈夫ですわ」
「いや、まったくもって元気だ。力が有り余っている」
アサドはいたわり深いファアルの言葉を退け、なんとか鍛練に加わろうと必死だ。
思わず吹き出してしまいそうで口元を引き締める。いつもはたおやかな笑みを浮かべているターフィルも今は生温い表情をしていた。
アサドとファアルは生まれたときからの付き合いという幼馴染中の幼馴染だ。
ずっと一緒に育ったふたりだが、お互いに向ける感情には温度差がある。アサドは恋愛的な意味での好意を抱いているのだが、ファアルはまだ恋愛未満で自覚がない。
多分、アサドがわかりやすくアプローチをすれば関係性は変わると思うのだが、見た目のわりにヘタレで一歩踏み出せないようだ。
昔の香代なら「さっさと告白しろ!」と背中をどやしつけるところだが、アラサーになった彼女はヘタレ青年を見守る余裕がある。
アサドは好きなだけもだもだしてほしい。香代は離れたところからニヤニヤ見守らせて貰う。
「そんなにやりたいならやらせてあげれば? まずは準備体操ね」
「うっ!」
「アサドさま、くれぐれも無理なさらないでくださいね!」
ファアルが香代の側に戻り、アサドは嫌な顔をする。
ファアルが離れて寂しいのではない。アサドは準備体操が苦手なのだ。
やることは手首や足首を回したり、足や背中を伸ばしたりと誰もが運動前にやる簡単な動きである。
しかし、絶望的に体が固いアサドにとっては筋トレよりも苦行らしい。
アサドの体の固さは群を抜いていて、長座前屈が直角のままピクリとも角度が変わらなかった時は目を疑った。
体を鍛えている人は皆柔らかいと思っていたが、そうでもないようだ。
毎日コツコツ続けていれば柔軟性は上がっていくのでこれから少しずつ良くなっていくだろう。
バドルでは準備体操のようなものはなく、走り込みなどで体を暖めていたようだが、香代の鶴の一声で取り入れられた。
体が柔らかいと怪我が減ると聞いたことがあるが、今のところ効果のほどは不明だ。
ただ、体が伸びて気持ちいいと評判はいい。
アサドの呻き声をBGMに体操を終えて、最後に長座前屈をする。
ファアルは筋力不足だが、体は柔らかいので背中を押すまでもなく二つ折りになる。
「くっ……」
「アサド、息止めないで」
「アサドさま、頑張ってください!」
その横のアサドはギリギリ八十度だ。
香代は二つ折りにはなれないが、余裕で足の裏に手が届く。
ターフィルもつま先に手が届くので、そこまで固くはない。
「ターフィルに押して貰ったら?」
「では、失礼します」
「くっ、ぐおぉぉぉ……」
ターフィルがアサドの背中をじわじわと押す。だいたい七十度になった。
アサドは苦しんでいるが、ちょっとした無理なら問題ない。
ファアルは開脚前屈をして地面と仲良くなっている。素晴らしい柔軟性だ。
試しに、と香代は人差し指を一振りする。きらきらした光がターフィルに降り注ぐ。
「う、うおぉお⁉︎」
「おや、強化をかけましたか。香代様」
「うん。どんな感じ?」
「素晴らしいですね。このままアサド様を二つ折りにできそうです」
強化は香代のもうひとつの異能だ。三十分ほどすべての能力を二倍程度を高めてくれる。
ファアルを癒した治癒は怪我を一瞬にして治す力だ。今のところ軽症しか治したことはないので、どれほどの怪我まで通用するかはわからない。
ライラは異能はひとりひとつと言っていたが、香代の場合、美織のものとふたつ分あるのだろう。
ただ、香代としても美織としても不完全なはんぶんこの彼女では完全に異能を使いこなせないかもしれない。
アサドは強化がかかったターフィルに押され、六十度ほどになった。あと少しでつま先に手が届く。
ターフィルには余力がある。またじわじわと押していく。
「アサドさま、あと少しです!」
「……! ……っ‼︎」
「頑張ってください」
「筋を痛めないようにほどほどにね」
もはや声も出ないアサドをふたりが応援し、なんとかつま先と指先が一瞬接触した。
やっとターフィルの手が背中から離れ、アサドはそのまま横倒しになった。
「さて、体も解れましたし何から始めますか?」
「走り込みかな?」
「頑張ります!」
「……」
早くもアサドはぐったりしているが、参加を決めたのは本人なので、最後までしっかりノルマをこなして貰おう。
「それでは香代さま、おやすみなさぁい」
「おやすみ」
一日を終えて、香代の寝支度を整えたアルナブは就寝の挨拶をして下がる。
窓の外はすっかり暗くなり、月明かりが注いでいた。
部屋の明かりは消して、サイドテーブルにあるランプをつける。これも魔力で動いているそうだ。
異世界人の香代は異能はあっても魔力はないから、電力で動くランプとの違いは感じない。
おやすみ、と言ったが、香代はまだ寝る気はない。
目覚めてからずっと気になっていることをまとめておきたいのだ。
アサドから「日記や書き留めたいことに使え」と渡されたノートを開く。
ノートと言っても日本で使っていたものとは違い、革張りの分厚いものだ。筆記具は鉛筆である。
まず、魔王の城の件。
魔王の本拠地は何故かバドルに固定されている。
地理的に大陸の真ん中にあるバドルにあるのが丁度いいのかもしれない。しかし、毎回レベル1で魔王前スタートするバドルは他の国より不利ではないか。
それに、魔王の城周辺が魔王を倒したあとも魔物がいなくならないのもよくわからない。
試練とはまったく関係ないし、そのせいでバドルの砂漠化が進んでいる。
年々オアシスも枯れて、ヒラールは水不足だ。
生きものの住みやすい環境を整える役割を負っているライラは何をしているのだろう。
次に、勇者と聖女の選定。
どうしても作為があるように思えてしまう。
特にファアルだ。
バドルは魔物の襲撃があるため、男女関係なく戦闘技能を持っている。
そんな国の代表にピンポイントで非力なファアルを選んだのだ。作為を疑われても仕方がないと思う。
これらのことは魔王討伐には関係ない。
でも、善良なバドルの人々が不利益を受けているのだ。原因を追及したい。
彼らは無条件で香代に優しくしてくれる。いるだけでバドルに利益をもたらす聖女だから、ということもあるが、大きな理由は以前の日本人たちだ。
フキコ、タカユキ、コノミ。
それが彼らの名前だ。
この中でタカユキとコノミはバドルに残り、人生の大半を襲撃してくる魔物との戦いに費やした。
そして、死後はタカユキは北に、コノミは西に霊廟を建てられ、今は聖地として信仰を集めている。
ただ、聖人、聖女の墓があるから聖地と呼ばれている訳ではない。
バドルの北部は水源が、西部には広い穀倉地帯がある。ふたりの加護がそれらの恵みをもたらしていると考えられているからだ。
確かめようのない曖昧な話だが、そう信じられるくらい、生前のタカユキとコノミは立派に生きたのだろう。
ふたりが素晴らしかったから、香代も無条件で信頼されている。
後世の同郷の人間として、せめて彼らが元の世界を捨てるほど愛したバドルのためにできることをしたいと思う。
幸い、時間はあるので、アサドたちに過去の魔王討伐についての資料を探して貰っている。
そこに何か不利益を解消できるヒントがあればいいのだが。
(もう一度ライラと話したいなぁ)
一番早いのはライラに訊くことだ。
あのときは自分のことで動揺していたし、頭に血が上っていた。バドルについても何も知らなかったからまともな質問ができなかった。
しかし、今ならいくらでも思いつく。
(前のときに夢って言ってたし、ライラと話したいって念じて寝れば会えるかな……)
そんなことを考えてから、鉛筆を置く。
今日のところはもう寝ることにした。明日もトレーニングがあるので睡眠はしっかりとっておきたい。
ノートをサイドテーブルの引き出しにしまい、カーテンを引く。ランプのつまみをひねって明かりを落としてからベッドに横になる。
天蓋の、金で彩られた鳥のライラに見守られながら香代は眠りに落ちた。