勇者ファアル
「香代様〜! おはよーございます!」
「おはよう……アルナブ……。元気だね……」
「はい! アルナブは今日もとっても元気ですよ〜!」
金茶色の髪で褐色肌の少女がパタパタと部屋を駆け回りカーテンというカーテンを開けていく。彼女はアルナブという香代の世話係だ。
容赦のない朝の光に晒され、香代は芋虫のようにベッドから這い出た。
日差しが注ぐ窓の外に広がるのは白茶けた日干しレンガでできた街並みと、どこまでも続く砂漠。
そして不穏な暗雲垂れ込める魔王の城だ。
香代が異世界で目覚めてからすでに二ヵ月が経過していた。見慣れた光景をあとにして用意された洗面器に向き直る。
初めて見たときはそれはもう驚いたし、見るたびに不安を覚えたが、今はもうなんの感慨もない。慣れとは恐ろしいものだ。
顔を洗うと程よい温度の水が心地よく、目が覚めた。バドルではこうして水で顔を洗うのは贅沢なことなのだが、彼女は聖女というだけで毎日用意されている。
ライラが守護するバドルはツェントラ大陸の中心に位置する、苛烈な日差しが降り注ぐ、砂漠の国だった。
国全体がではなく、バドルの中心に位置する首都のヒラールだけだ。しかし、年々豊かな穀倉地帯や、水源のある山々へ砂漠が広がっていっている。
原因はあの魔王の城のせいである。
バドルはRPGで言うところラスボス前の最後の街だ。
魔王の本拠地があるため、どこよりも強く凶暴な魔物たちが街の外をうろついている。
その上、数は減るが、魔王を倒したあとも魔王の城があったあたりは魔物は生息し続けるらしい。
早速聞いてた話と違う事案である。
何故、試練の期間だけの魔物を魔王討伐完了後も残すのか。
危機感を失わないために少し残すのかと思ったが、年がら年中魔物がいるのはバドルだけだ。
それに神を派遣して安定させているはずの自然環境が崩れていっているのも変な話である。
ジュルネには納得いく説明をしていただきたい。
魔王が出現してからはより魔物の襲撃が激しくなり、悩まされていたが、香代が来てからはマシになったそうだ。
これは香代の異能ではなく、魔物は異世界人を避ける仕様になっているとライラが言っていた。
より異世界人の恩恵を感じやすくする工夫だそうだ。確かに効果がわかりやすい。
でも、そのせいで香代はバドルの人々に会うとまず土下座をされる。
彼らは土下座を至上の感謝を示す動作だと思っているのだ。
ライラは正しく謝罪を表す動作だと理解していたのに不思議である。土下座を教わってから年月が経つうちに意味が間違って伝えられたのだろうか。
普段、土下座なんて見ることもやることもないから連発されると心臓に悪い。
バドルの国王夫妻にすらやられそうになって、それは流石に止めた。
これからは正しい土下座の意味を香代が広めていきたい。
土下座のことがなければ、バドル人はとても付き合いやすい人々だ。
とにかく素朴で実直、他人に親切にすることが当たり前に身についている。まるで楽園で生まれ育ったかと思うほど人が良い。
詐欺に合わないか心配になるほど優しい人々だが、人種の特徴なのか、男女共に背が高く、特に男性は体格が良く、山賊の親分みたいな顔立ちの人がゴロゴロいる。
バドル国王も裏社会の首領のような迫力があった。
女性はみな妖艶で、気安く声をかけたら最後、人生が破滅しそうな美女揃いで目の保養だ。
しかし、その内面は気は優しくて、力持ち。さらに面倒見の良い働き者と、人の善性をこれでもかと詰め込んだ素晴らしい人たちなのだ。
いい人に囲まれた香代はまたたく間にバドルに馴染んでしまった。
身の回りの世話を他人にして貰うことに抵抗があったというのに、アルナブの手厚い世話になしには生きられない体へ着々となりつつある。
今も香代が顔を洗う間に朝食を用意していた。
このあとは香代が食事をしているうちに今日の予定を確認し、その後、着替えを準備して、食べ終わり次第すぐ身支度が整うようにしてくれる。
いたれり尽くせりだ。
部屋の角にはテーブルと壁を背にした長椅子が設置されていて、朝食はいつもここで食べる。
長椅子は作りつけで、座面が開いて収納にもなる便利機能が備わった家具だ。
正方形や円筒形のクッションが大量にあり、それで座り心地を調整する。
今日の朝食は豆や野菜、雑穀がたっぷり入ったスープとやはり野菜がたっぷりのヨーグルトサラダだ。バドルの料理はスパイスがたっぷり使われた複雑な味がする。
量が少ないのは香代がそう頼んでいるからだ。
美織は少食だったらしく、これくらいにしておかないと完食できない。
他人の体にかなり慣れてきたが、元ぽっちゃりとしてはその点が残念である。
あと多分未成年なので飲酒もできない。とても悲しい。
「香代様、実はターフィル様たちはまた出陣していまして……」
「こんな朝早くから?」
「はい〜。襲撃があったそうで。香代様がいらっしゃってからはほとんどなかったから久々ですね」
香代がいても完全に魔物の襲撃がなくなるわけではなく、こうして時々街を襲う。
危機感を煽る演出なのだろうが、怪我人は出るし、家屋が壊れるのでやられるほうはたまったものではない。
「じゃあ午前中は鍛練はやめたほうがいいね。代わりに勉強しようかな」
「予定変更ですね。わかりました」
戦うということをしたことのなかった香代はターフィルたちからトレーニングや戦闘訓練を学んでいる。
異能で戦う異世界人に身体強化は不要に思われるが、敵の本陣は砂漠の向こうにあるのだ。ある程度体力をつけなければ辿り着けない。
それにジュルネを殴ることを目標にしている香代にとって筋力は大事だ。そう、一撃で確実に致命的なダメージを与えてみせる。
しかし、今のところ単独での訓練は許可されていない。
目覚めたばかりの頃、しばらく寝たきり生活をしていたので虚弱だと思われているのだ。
あの頃はさらに少食で、スズメの涙ほどしか食べられなかったが、今は違う。もう健康を取り戻したが、周囲の態度は以前のままだ。
そろそろ過保護はやめてほしい。
食事が終わると着替えだ。しかし、この衣装がくせもので、はっきり言って香代は苦手である。
緻密な花の刺繍が施された、前で合わせ、幅広の帯で留める着物に似た服たが、丈は膝までだ。
そこに、何故かシースルー生地の巻きスカートを帯の上から巻く。
コスプレのようで恥ずかしい。
これがバドルの民族衣装かと言われるとそうではなくて、彼らは男女共にカフタンワンピースに似た服を着ている。
男は詰め襟で、裾の両脇に腰のあたりにまで切れ込みがあるものを上に着る。下に穿くのはズボンだ。腰に帯を締め、そこによく短剣を挟んでいる。
女は両脇にある裾から腰へ切れ込みは同じだが、丸襟で帯はない。下に履くのは巻きスカートと少しずつ違いがあり、いずれも暑いバドルでも過ごしやすそうなゆったりした装いである。
香代のこれは過去の聖女が着ていたものを真似て作った専用の衣装だそうだ。
多分着物が元になっているのだろう。上半身だけならかなり再現できている。
しかし、下半身の透けたスカートがよくわからないし、膝丈になっているのも理解できない。
一番最近、異世界人がきたのは五百年前なのでこちらも土下座同様何かが間違って伝わっているのだろう。
生地は薄く、肌触りもいいので着心地は上々だが、アラサーという年齢には厳しいデザインだ。
美織の体でよかった、とちょっと思ってしまった。背が高いしスタイルがいいのでコスプレ衣装も様になっている。
「じゃあ図書室行って来るね」
「行ってらっしゃいませ!」
身支度が整ったのでアルナブに見送られて部屋を出た。基本的に王宮内であれば香代はひとりでも自由に過ごすことが許されている。
とはいえ、とてつもなく広く、複雑なため、経路がわかっている図書室や鍛練場くらいしか行かない。
「あっ、香代さま! おはようございます」
「おはよう、ファアル」
目覚めた次の日に紹介された勇者ファアルが香代を見つけて駆け寄ってくる。
長い艶やかな黒髪につぶらな瞳、象牙色の肌の清楚な美少女だ。
バドル人は彫りの深い顔立ちが多いのだが、彼女は大和撫子のような、香代にも馴染み深い顔立ちをしている。
背も低く、華奢で戦えるように見えない可憐な見た目の通りの深窓の令嬢だ。
紛れもなく、一度も剣を握ったことがないと一緒にトレーニングをした香代なら断言できる。むしろスプーンより重いものすら持ったことがないのではないか、というくらいだ。
土の魔術は使えるが、ほとんど練習はしていないそうで、簡単なものしか使用できない。
彼女の家は代々優秀な戦士を輩出する名家なのだが、小さく愛らしい彼女は大きく強い家族に風にも当たらぬように育てられた。紛れもない深窓の令嬢だ。
ジュルネが選んだ勇者と聖女が深窓の令嬢と、平和ボケした日本人。
魔王を倒させる気があるのかと疑いたくなる選定だ。
非戦闘員ふたりが主要メンバーのため、魔王の城を目の前にして足踏みをしている。ある程度戦えるようにならなければ街から出ることすらできない。
しかし、まだましである。本来なら香代ではなく、美織が聖女だったのだ。
魂が砕け散るほど精神的に疲弊した美織は多分すぐにトレーニングは始められない。メンタルケアからになるだろう。
ますます酷い人選だ。
(これって無理ゲーでは?)
ジュルネからの悪意を感じる。香代の彼に対する信頼は日に日にマイナス成長を続けていた。
「今日はどちらへ?」
「鍛練できないから図書室で勉強しようと思って」
「よかったらわたくしが教えましょうか?」
「ありがとう。じゃあ一緒に行こう」
「はい!」
ふたりで連れだって図書室へ向かう。
その時にちらりとファアルの手に目がいった。
手のひらに違和感を覚え、立ち止まる。
「ファアル、手見せてくれる?」
「あっ、えっと」
さっと両手を後ろに隠す。何かありますと言っているも同然だ。
「ほら、手、出して」
「いや、別に大丈夫です」
「出して」
「ふぇっ! は、はい」
少し凄むと飛び上がりやっと両手を差し出した。
手のひらはいくつもマメができていた。とても痛そうだ。
ファアルは後ろめたいのか、目をキョロキョロさせている。
香代は何も言わずに傷に手を翳した。それだけで手のひらは傷ひとつない元の美しさを取り戻す。
「あっ……」
「行こうか」
「か、香代さま、ありがとうございます!」
「気にしないで。わたしの練習になるから」
傷を癒したのは香代の異能だ。特に苦労もなく使えるようになったので、今は練習を繰り返している。
傷がなければ練習できないので助かるし、叱ると隠すだろうから何も言わない。
ファアルは痛みが消えて嬉しいのか、香代の隣でにこにこしている。あのマメは自主練習の結果だろう。
勇者に選ばれてからファアルはとても真面目に鍛練に励んでいる。自分の使命だと、不満も弱音も吐かない。
だから、香代は余計、ジュルネに腹が立つ。
奴がファアルを選ばなければ、彼女は手にマメを作ったり、筋肉痛に苦しむ必要はなかったし、不甲斐ない自分に忸怩たる思いをすることもなかったのだ。
(ぜっっったい! 殴ってやるからな!)
香代はますますジュルネへの怒りを燃え上がらせた。