香代の現状
「この世界に来た時点で香代ちゃんは瀕死だったの」
ライラの言葉に頷く。
(多分、わたし、線路に落ちたんだ……)
冷静になった今思い出してみると状況からしてそれしか思い浮かばない。
あのとき、スマホにメールが届いているのに気づいて、それを真剣に読んでいたのだ。
ちなみに配送先を兄の家に指定して注文した姪の誕生日プレゼントの支払い完了メールだった。
集中していたためうろ覚えだが、アナウンスで「電車が通過します」と言っていた気がする。
最後に目を焼いた光はヘッドライトだろう。
どん、という体に感じた衝撃から、香代は誰かに突き飛ばされ、電車に轢かれたのだ。
駅を通過するために多少減速していただろうが、走行中の電車に轢かれて無事では済まない。
息があっただけ奇跡だろう。
なんにしろ、香代が死んだのはライラのせいではなく、背中を押した誰かが原因だ。
この女神とやらは何をそんなに責任を感じているのか。
「バドルの魔術師じゃ香代ちゃんは助けられなかったから、ワタシに託されたんだけど……。
ワタシも香代ちゃんを治せなかった。間に合わなかったの」
「えっ……。じゃあ、やっぱりわたし、死んで……」
「生きてる。生きてるよ、一応だけど。
今、香代ちゃんの魂はちょっと……。別の体に入ってる」
「別の、体……?」
理解できなくてライラの言葉を何度も反芻した。
では、今ここにいる彼女は一体なんなのか。話を聞けば聞くほどわからなくなってくる。
「今、ここにいる香代ちゃんは魂だけの状態というか、夢を見ている状態だね。
ここはワタシの世界……いや、神の住む天上界なの。実際の空の上にはないけど、ちょっと高いところにある感じの場所、って言ってもわかんないか……。
ともかくここは人の世界じゃなくて、現実の香代ちゃんは眠ってるんだ。
美織ちゃんの体の中で」
「美織ちゃんって……」
「香代ちゃんと一緒に召喚された聖女になるはずだった子だよ」
その言葉に香代は大事なことを思い出した。
香代はあくまで聖女の召喚に巻き込まれたのだ。
先程ライラは聖女の近くにいたせいで香代は巻き込まれたのだと言っていた。
あの時ホームにはそこそこ人がいたが、混み合うというほどではなかった。
なので、一番近くにいたならほぼ間違いなく香代を突き飛ばしたのはその美織とやらではないか。
(でも、美織なんて名前の子、知り合いにいない……)
通り魔的犯行なのだろうか。ならば、かなりの危険人物だ。
どんな理由があろうとも香代にとって相容れない相手である。
話の流れからして、ライラは香代をこの世に留めるためにその美織の体に香代の魂をおしこめたということだ。
走馬灯を見た時は強く生存を願ったが、自分を殺したかもしれない相手の体に居候してまで生きたいとは思えない。
そもそもそれは取り憑いてるというもので、生きているとは言えない。
やっとライラが謝罪する理由に辿り着いて、思わずため息が出た。
多分、ライラなりに香代を助けようと必死だったのだろう。それに、ライラは香代と美織の間に何があったかなんて知らないのだ。
理解はできる。でも、もやもやしてしまう。
しかし、怒りをぶつけるにはライラの様子が情けなさすぎた。眉は八の字だし、切れ長の目も泣きそうに垂れ下がっている。
「あの、あのね。すごく厚かましいってわかってるんだけど、香代ちゃんには美織ちゃんの代わりに聖女になってほしいの!」
「は?」
また理解不能なことを言い出して、眉を顰める。
香代と違って五体満足な美織の代わりになんでそんな面倒なことをせねばならないのか。
流石に苛ついて、気持ちがささくれ立つ。
「その美織ちゃんとやらは元気なんでしょ。聖女はその子がやればいいじゃない」
「それがね、美織ちゃんは美織ちゃんで魂がこんななの」
そう言ってライラは両手を差し出した。
お椀のようにした両手のひらには灰色の砂がひとつかみ収まっている。
香代には何を言っているかわからず、疑問符がいくつも頭に浮かぶ。
色は少し違うが、ここにたくさんある砂の一部にしか見えない。
「……へぇー。初めて見るけど魂って砂状なんだ」
「いや、美織ちゃんはかなり特殊。普通は香代ちゃんみたいに魂は人の姿か、光の玉みたいな形をとるよ」
「……じゃあ、これはなんなの?」
「砕けちゃったんだと思う……。私も神様やって長いけどこんな魂初めて見るよ……」
美織の身に何が起こったのだろう。
香代は短絡的に美織を犯人だと推測したが、彼女も被害者だったという可能性もある。
誰かが美織を突き飛ばして、玉突き的にふたりは接触して一緒に線路に落ちた。
苦しいが、ないとは言えない。
(いや、でも電車に魂は壊せないでしょ)
電車はあくまでも物理的なものだ。本来目に見えない魂なんてどう破壊するのか。
推定二百万歳のライラが初めてのこととなると、現在二十七歳の香代にわかるはずがない。
とりあえず、美織が香代殺害の犯人ではない可能性が出てきて、苛立ちは治まった。
代わりに戸惑いが強まる。
「どうしたらこんな有り様に……」
「精神的に酷く傷ついたりすると、魂に罅が入ることはあるけど……」
「心が傷つきすぎて粉砕したとか?」
「え〜? 粉砕するほど傷つくことあるのかなぁ」
首を傾げるライラを見て、微妙な気持ちになる。
過保護な神に守られるクレイ・ターロの人々と違い、放任されている地球は精神的に痛めつけられることばかりだ。
香代は幸い世話になることはなかったが、メンタルクリニックに通う人は多い。現代人は何かしらの目に見えない傷を抱えて生きているのだ。
魂が粉々になるほどの精神的苦痛もあるかもしれない。
現に美織の魂は砕け散ってしまっている。魂に罅が入る原因が心の傷なら、壊れてしまう原因もまた同様だろう。
「その美織さんの魂どうするの?」
「治すつもりだよ」
「な、治せるの? 砂だよ?」
「完全に元には戻せないよ。多分、美織ちゃんとして生きてきた記憶とか、経験は全部なくなって、生まれる前の真っさらな状態になると思う。つまり、赤ちゃんにもどっちゃうんだ。
だからね、香代ちゃんに聖女をお願いしたいの」
話が戻ってきて、やっとすべてを理解する。
香代は体を失って、美織は体が空っぽで、欠けたものがふたつでは、ライラが守護する国が困るのだ。
違うものを無理矢理繋ぎ合わせたひとつのものを作り出してしまうくらいには。
「……わたし、もう美織さんの体の中なんでしょ? 拒否権とかあるわけ?」
「うぅ、ごめん……。そうしないと、どっちも保たなかったから、つい……」
「わたしはともかく、美織さんも保たないの? 生きてるのに?」
「魂がないと体がいくら元気でも死んじゃうの。
特に美織ちゃんの体は生命力が弱かったから」
意地の悪いことを言ってもライラは誤魔化したり、逆上することなく正直に質問に答える。
表情は相変わらず美人が台無しの情けない顔だ。
「わたしがやだって言ったらこのまま死なせてくれる?」
「いいよ」
一番困る例えを出すと、意外にもまったく動揺せずに即答する。
ただ、月のような銀色の瞳から涙がポロポロ零れた。
「でも、できれば自分から死のうなんて思わないでほしい」
(もうわたしは死んでるのに?)
飛び出しそうになった意地悪な言葉はかろうじて喉にとどまった。
でも、唇を噛んでいるから出て行かないだけだ。
本当は、自分の死すら理解しないまま、香代は終わっているはずだった。しかし、ライラたちの事情で強制的に終わりから引き戻されたのだ。
なのに、まるで自殺志願者のように言われるのはおかしいのではないか。
そして、ライラの言葉に罪悪感を覚えてしまう己が嫌だった。
香代のこれは自殺じゃない。しかし、そう言い聞かせるたびに苦しい言い訳をしている気分になる。
別に死にたくはない。むしろ生きたい。でも、香代は死んでいる。しかし、ライラに生かされた。
自然の摂理に逆らう矛盾に、香代は堂々巡りに陥った。
次第に怒りが沸いてくる。
そもそも、あのタイミングで美織を召喚した主神が全部悪いのだ。
あと少し時間がずれていれば香代は召喚されなかっただろう。何故あの生きるか死ぬかの狭間ぴったりに召喚したのか。
あの時でなければ香代はこんな中途半端なことにはなっていないし、こんな葛藤を抱えることもなかったのだ。
(殴りたい……。一発でもいいからグーで殴り飛ばしたい……)
格闘技経験は皆無なので、へなちょこパンチになるだろうが、それでも殴らずにいられない。
どんな事情があろうと知ったことか。例え一番偉い神であっても、失敗の責任はとるべきだ。
「ライラ、ひとつ聞きたいんだけど。
主神には会える?」
「えっ、えぇっ! えぇーっと……。あ、会えるよ。あの、魔王を倒した子達は主神直々に褒めて貰えるし、願い事も叶えてくれるらしいけど……。
あの、香代ちゃん?」
「さっきの話受けるよ。わたし、聖女やる」
「ほ、ほんと⁉︎
いや、待って、嬉しいけど……。香代ちゃん、なんか自棄になってない? 目が据わってる……」
「絶対魔王をぶったおして主神を殴ってやる」
「か、香代ちゃん⁉︎」
ライラが何やら慌てていたが、もう香代の目には映っていなかった。
こうして打倒主神を目標に、香代は異世界での第一歩を踏み出したのだった。